Summer
第46話 (1)不測の事態
蝉の鳴き声が鬱陶しくなってきた初夏、剣道部の練習場所である体育館は、熱気に包まれていた。
剣道部主将である桑島先輩から、次期剣道部主将の指名を受けたおれは、夏の県大会に向けた練習に汗を流した。
桑島先輩や鈴木先輩といった県大会に出場する三年生たちは練習に顔を出すことも多いが、きょうは大学受験の模擬試験があるとのことで、三年生は誰も練習には来ていなかった。
高瀬との関係は、あの日以来なにも変わってはいない。
昼休みになれば、第二校舎への渡り廊下で一緒に購買部で買ってきた弁当やパンを食べ、放課後の部活では一緒に練習をしたりしている。
おれはまだ、高瀬に答えを返してはいなかった。
あの日以来、妙に高瀬のことを意識するようになったということには間違いない。だけれども、正直、どうすればいいのかわからないのだ。
そのもやもやとした気持ちをおれは剣道の練習にぶつけていた。
「花岡、素振りをあと一〇〇本やったら休憩にしろ。ちょっと話しがある」
体育館の端でパイプ椅子に座りながら練習を見ていた小野先生が声を掛けてきた。
小野先生は普通の人よりも汗っかきなのか、練習に参加していないにも関わらず、着ているポロシャツに汗染みを作っていた。
素振りを一〇〇本終えると、おれは部員たちに休憩の指示を出してから小野先生のところへと向かった。
休憩に入った部員たちは汗を拭きながら、金物屋で買ってきた巨大な薬缶に群がる。薬缶の中には氷で冷やされた麦茶が入っているのだ。
「なんでしょうか、小野先生」
「ちょっと困ったことになったんだ、花岡」
小野先生は持っていた扇子で風を送りながら言う。
何となく、嫌な予感がした。普段から能天気なことばかり言っている小野先生が困ったなどと口にすることは滅多にないからだ。
「夏休み中なんだが、体育館が使えなくなった」
「ええっ、どういうことですか」
思わず大きな声を出してしまった。
休憩をしていた部員たちの視線が一斉にこちらへと集まってくる。
「夏休みの間に体育館の補修工事を行うそうだ」
「そんな……どうするんですか、県大会も近いんですよ。それにインターハイも。夏休みに稽古が出来ないってことは、致命的じゃないですか」
「そうなんだよなあ」
腕組みをしながら、小野先生は呟くようにいう。
「ちょっと、小野先生。そうなんだよなあって、他人事みたいにいわないで下さいよ」
「仕方がないだろう、体育館の補修工事を延期しろなんていえないし」
「じゃあ、どうするんですか」
おれの言葉に小野先生は何もいわずにじっとこちらを見つめるだけだった。
「何も案なしなんですか」
「そんなわけないだろ。ちゃんと考えてはある。だけどなあ……」
小野先生は勿体ぶったいい方をする。
「なんですか、自分たちで出来る事だったら何でもやりますよ」
「そうか。そこまで言うなら仕方ないな。先生もお前の情熱を汲み取って動こう」
「それで、先生の案は」
「OBに頼ろうかと思うんだ」
「誰かOBで剣道道場をやっている人とかいるんですか?」
「そんな奴がいたら、とっくにお願いしているよ」
「じゃあ……」
おれは小野先生のいわんとしていることがいまいちわからず困惑した。
「大学で剣道部に入っているOBがいるだろう。そいつらを頼って練習場所を確保するんだ。去年卒業した河上や佐竹なんかなら、お前も知っているから頼みやすいだろう」
その言葉を聞いた瞬間、おれは歓喜した。もちろん、練習場所の確保が出来るからということもあるが、それ以上に佐竹先輩にまた会うチャンスが巡ってくるということがおれを喜ばせた。
「わかりました。すぐに先輩に連絡を取ってみます」
おれは小野先生にそういうと、スマートフォンを取りに部室へと走った。
連絡がすぐについたのは、河上先輩だった。
おれの申し出に河上先輩は部活の主将に聞いてみると快く言ってくれた。
なぜ、佐竹先輩ではなく河上先輩におれは連絡を取ったのか。
その理由は二つある。
まず一つ目の理由は、おれが佐竹先輩の電話番号を知らないからだ。確かに佐竹先輩には可愛がってもらっていたが、さすがに電話番号までは教えてもらってはいなかった。もし、佐竹先輩が在学中に電話番号を教えてくれていたら、おれは脈ありだと勘違いしてストーカーの様に電話を掛けまくっていただろう。
さて、二つ目の理由だが、それは河上先輩と佐竹先輩が同じ大学に通っているということだ。だから河上先輩にS高校剣道部が大学の稽古に参加させてもらえるようお願いをした。河上先輩には悪いけれど、おれは下心ありまくりだった。
河上先輩に連絡をして、練習に参加できるかどうかを聞いてくれるといっていたことを小野先生に報告すると、小野先生は満足そうな顔で「そうか、よかった。よかった」と頷いて見せた。
河上先輩から折り返し連絡があったのは一時間後のことだった。
返って来た答えは、OK。
大学の剣道部への出稽古は大歓迎だ、と河上先輩はいった。
ただし、お遊び気分で来ると痛い目に遭うぞというひと言も付け加えられたが、おれは大学に遊びに行くだなんて気持ちは毛頭もなかった。インターハイで神崎に借りを返す。
そのために、おれは今年の夏を全て捧げるつもりだ。
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