第5話 二人の距離感
真渕は七斗に対して優しかった。精神的なふれあいがそこには含まれていて、俳優をやめようかとまで思った七斗のささくれだった気持ちを癒やしてくれた。
一方で、それは玲也の自分勝手さに見て見ぬふりをしていた弱さを認めることでもあり、七斗にとってはそれは相反する気持ちをもたせた。
真渕が冷蔵庫から持ってきてくれたペットボトルの炭酸水を口にした七斗は声を抑えて泣いた。
真渕の背中をさする手が温かくて、それがまた七斗には辛かった。
※※※
軽く、睡眠をとり、二人で近くのファミレスのモーニングを食べる。
まるで、長く付き合っている二人かのように、するすると流れが決まってここまできた。
緩やかなBGMとそれをかき消すような家族連れや年配グループのおしゃべりが、いかにも休日のファミレスといった雰囲気を作り出している。
バターとジャムを重ねて塗ったトーストの半切れを口に運びながら、七斗は目の前の男を盗み見る。
香ばしいパンとバターの香り、ジャムの甘さそのどれもが幸せな日常という感慨を七斗のなかにもたらした。
ワンナイトでいいと自分から真渕にすがった手前、何を言ったらいいのかさっぱり検討もつかず、ホットコーヒーをすすることで間を持たせようとする。
七斗はファミレスの中では深入りのコーヒーが出てくるこのファミレスを気に入っていた。
しかし、思い返してみれば玲也とは一度も来たことがなかったことに七斗は気づいた。
玲也は、いつも七斗の部屋を訪ねても夜明けには帰っていった。
よくよく考えなくても、玲也はさちかと朝食を食べるために帰っていったことになんで気づかなかったのだろうと思い至り、七斗は少し泣きたい気持ちになった。
実際には、すでに泣くだけ泣いた七斗の瞳に涙は浮かんでこなかったが。
「よかったら、またこうやって一緒に朝ごはんが食べたいです」
沈黙を破ったのは真渕だった。
「……割り切りってことですか?」
「私と付き合ってくださいと言っているんです。私は七斗くんが好きです。つけ入るようなことをして悪いとは思ってます」
真渕は真剣な眼差しで七斗を見つめる。
どうやら本気のようだ、と七斗が気づくには数秒の時間を要した。
七斗は自身のスレた考えに真渕を当てはめようとしたことを反省する。
同時に、同じように悪意渦巻く芸能界に身を置くゲイという立場でありながら、こんな真っ当な恋愛をしようとことのできる強さを持った真渕のような年上の男が存在することに、新鮮な驚きを感じていた。
つけ入るもなにも、真渕を利用したのはどう考えても自分なのに……とも
「オレ、舞台の上以外でも嘘つきですけど、いいんですか?」
「そうは見えないですけどね」
「例えば、実は二十五歳だったりしたら」
「…………知っていますよ」
また、訪れる沈黙。
「……識臣くんはペラペラしゃべる人ですからね、少し注意しましたがあの調子だとどこまでわかっているんだか」
「あーバレるのも時間の問題ですね……仕事なくなっちゃうかな……」
とりあえず、ファンに騒がれるのは間違いないだろう。
SNSで大騒ぎになって、一部は怒ったリプライを直接七斗のアカウントに送ってきて、事務所が謝罪文を出して騒ぎが一段落した頃に、だいたいもっと大きなスキャンダルが他のイケメン俳優に発覚してあやふやになる。七斗が俳優デビューしてからこの二年で学んだことだった。
だけども、業界の人間がどう動くかはまだ経験の浅い七斗ではよくわからないのもまた、事実だ。
「大丈夫です。犯罪ならともかく、たった二年であそこまでの演技力を身につけたあなたを切る程、業界だって馬鹿じゃないですよ……ま、少しの間は周りがうるさくなることは否定できませんが」
不安に揺れる七斗の瞳をしっかりと見つめ、真渕は優しく諭す。
俳優と編集という立場の違いはあれど経験の長い真渕の言葉は七斗の心を少し素直にさせた。
「……買い被りすぎです。オレ、ゲイだってこと以外はよくいるイケメン俳優の一人に過ぎないですよ」
「そんなことないです。少なくとも私はまだまだいろんな役であなたを見ていたい。……で、付き合ってくれませんか私と」
七斗が本当に二十歳のときであれば、この誠実な男に対しても意地をはっただろう。七斗はそれくらい男に対して表面的な関係しか結んでこなかった。
だけど、一回くらい、嘘を重ねる激しさに痺れるより、穏やかに、一緒に朝ごはんを食べられる男を信じてみてもいい……
七斗は真渕から差し出された手を握り返した。
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