第38話 風太と祟り神③

(……し、死ぬ。……まじ)


 肺と脳への酸素が絶たれて、風太ふうたは自らの死を悟った。【老星ろうせい】を掴む腕の力もなくなり、ゆっくりと地面に垂れ下がった。目の前を靄がおおい、思考が遠のいていく。


 ついに風太が意識を手放したとき、突如としてその身体が躍動した。鞘のベルトを片手で外して、素早く剣鉈を抜き取る。その勢いのまま、鋭い刃を【老星】の脇腹に突き立てた。


「ぐっ」


 【老星】が低く呻いた。風太の首から手を離し、その身体を突き放した。


「……がはっ!」


 風太は乱暴に地面に投げ出されて、背中を強打した。その勢いで肺が刺激され、一気にむせ返した。唾液を撒き散らして苦しそうに咳き込む風太の手には、血のりのべっとりとついた剣鉈けんなたが握られている。


「……な、なぜっ。もう少しで」


 ほとんど殺したも同然だった風太からの反撃に、【老星】は驚いた。負った傷も看過できないものだ。


 この神は知る由もない。かつて風太の肉に刻まれた生と死の記憶を。


 産声をあげたそのときに、いたずらに流し込まれた極微小の機械群。本来必要としないそれらに犯され、隷属させられた恥辱が、生後間もない肉体に刻印された。


 さらには祝福とともにその身を授けてくれた両親からの、恐るべき人体実験の果て。麻酔で機能を奪われ、絶望に抗う機会すら与えられず、挙句に死の淵を3年間彷徨った。


 抗えない力に翻弄され続けた肉体に宿るものは、細胞レベルで刻まれた反逆の意志。死に打ち勝ってようやく手に入れた自分だけの肉体だ。もう何者からも奪わせない。


 咳がやみ、風太は怯えつつも手にした剣鉈を見つめた。自分の身に何が起きたのか全くわからない。しかし狼狽える気持ちとは裏腹に、瞳の光は、肉が放つ強烈な意志は、一向に衰えない。


「……ふ、風太。今さら遅い。遅いんだよ」


 【老星】は口端から血を滴らせながら、色違いの両目で風太を睨みつけた。


「消えるのは私じゃない、お前であるべきだ!」


 何かの術だろうか、叫ぶや【老星】の左目が殺意の光を迸らせた。【老星】が纏うジンが眼光とともに風太を襲う。


「……っ」


 再び殺意に晒された瞬間、肉体の記憶が風太の意識を支配した。弾かれたように地面を蹴り、【老星】の魔術をかいくぐる。前のめりに駆けながら、その勢いのまま体重を乗せて剣鉈を突き立てた。


「がふっ!」


 体当たりと同時に腹を刺された【老星】は、風太を抱きかかえるように立ち尽くす。口からは血が溢れ落ち、刺し傷から流れる血とともに身体を赤に染めた。


「もう、俺から何も奪わせやしねえ!」


 気がつけば風太の喉が叫んでいた。さらに刃を神の身体深くにねじ込んでいく。


「消えろ! 消えちまえ!」


 呪いの言葉が鈍く光るジンに乗り、風太の丹田から刃先、刃先から【老星】の身体へと伝わっていった。


「があああああああっ!」


 身体に稲妻が走ったように、【老星】が痙攣した。風太のジンが刺し傷から【老星】の体内に侵入して、吐いた呪詛の通り、神の存在を消し去ろうとその内で暴れ回る。


 ブックマンが神の物語に同調し、グリモア化する行為とは真逆の作用が働いた。すなわち神の存在を否定し、消滅を促す神殺しの力だ。


 赤黒いジンをまき散らしながら、【老星】の身体が徐々にほどけていく。神は抗おうというのか、自分を滅しようとする男の肩を抱いた。


「ふ、風太」


 血だらけの手が風太の頬を濡らす。ここに至ってなお、【老星】は笑んでいた。血まみれで笑う【老星】は、まるで気狂いのピエロだ。


「……これで、いい。き、きっと……これが正しい」


 ごぼっ、と血の塊を吐いた。笑んではいるが、その目に力はない。風太の身体を無惨に染めながら、つっかえつっかえ言葉を吐き出す。


「これから、先。……お前は……多くの、殺意と戦う。……きっと……そうなる。……いいか、躊躇うな。わ、私を殺せ……たんだから。……躊躇ってはならん。……殺せ、風太」


 祟り神の戯言か。しかしその目に宿る狂気の光は鈍かった。


「お、おい」


 肉体の呪縛がとけ、風太は目の前の神を凝視した。


「は、はは。お前を殺して……自由に、なるはずが。……逆に、わ、私が糧にされる……とはな」


「【老星】、【老星】すまん。なんで俺、こんな」


 自分のしたことを信じられず、風太はおろおろと狼狽えた。さっきまて【老星】のために祭りの準備をしていたというのに。なんでこんなことになったんだ。まさかこれまで一緒に暮らしてきた仲間を刺すなんて。


「……ふ、風太。私に、気持ちを……残すな。……私は、この世界にふ、不要なもの。……ただ、抗っただけ」


 【老星】はか細い声でそう囁きながら、地面にくず折れた。汚れた血のようなジンの放出が弱まっている。【老星】の身体は希薄になって、ガラス細工の人形のようだ。


「おい、お前。死んじまうのかよ? なあ、待ってくれよ。ふ、不要なんて言うな。俺、お前死んだら悲しいよ。もうすぐセベト祭りだってあるんだぜ。今日だったほら――」


 横たわる【老星】のそばに跪いて、その手を握った。自分を殺そうとした神様の手。握ると燃え尽きた灰のようにはらりとほどけて、風に舞った。


 それを合図に、ほろほろと【老星】の身体が崩れていく。


「……お前は、自由に」

「お、おい! 【老星】!」


 消える直前、【老星】の小さな囁きが風太に届くことはなかった。自分の存在の意義を求めて魔性へと堕ちた神は、春風に巻かれて空へと消えていった。


 風太に残されたのは、向けた殺意の代償と震える身体、それだけだった。

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