第36話 風太と祟り神①
春。芽吹いた新緑が爽やかに彩る山々も、夜の夕闇の中ではそのなりをひそめていた。
弔問客なんていない
「開いておるぞ」
クロが促すとゆっくり窓が開き、1柱の神が現れた。
「
総髪を結ばずにそのまま背中まで流し、切れ長の涼しい目をしたその神は、里で【
すらりとした立ち姿は男神でありながら中性的で、藍鼠色の着物を着流した様は洒脱な美しさがあった。しかし、その美しさに墨を落とすように、左目は黒い眼帯で覆われていた。
「寝たよ。疲れたんだとさ」
仏壇前の伝蔵としばらく一緒に過ごしたあと、クロも風太のもとに行くつもりだった。
「のう、
突然、【老星】がそう切り出した。口端は上がり笑んでいるが、目の奥は冷たく凍えている。
「どうしたんじゃ急に」
「急に? 本当に私が急に言い出したと?」
【老星】は涼やかな顔を歪めて笑った。
「姫よ、あなたならわかっておろう。早く私を自由にしておくれ。でないと自分でもこの先何が起こるかわからんよ」
「何を言っておるんじゃ。そもそも簡単に切れるようなもんじゃない」
どうやら【老星】は、合祀の繋がりから自由になりたいと言っているようだった。しかしそれは信仰の基盤を失うことを意味する。そんな申し出にクロが応じるはずがない。
「人を惑わすことに長ずる私なれど、姫、どうかあなたは惑わないでおくれ」
「惑ってなんていやしないよ。お前こそ随分と惑ってるように見えるけどね」
クロは何を言われてもどこ吹く風で、【老星】の話を受け流した。
「もう白狩背には風太しかおらん。姫、このままここで消えていくつもりか?」
夜の闇を背負って【老星】は冷たい笑みを浮かべている。その笑みがとけることはないのだろうと半ば悟りながらも、クロは【老星】を真っ直ぐ見つめる。
「そう決めたじゃないか。ともに里の最後を看取ろうと」
「……街の方にゃ、自分たちの畏怖を知らしめて信仰を勝ち取ろうっていう、粋な連中が集い出しているらしい」
「粋なもんかい。狂っちまったやつらの戯言だ」
「……私が狂っていないとでも?」
【老星】は薄笑いを絶やさないが、その笑みの下から見え隠れする腐敗の匂いは、ことの切実さを【老星】以上に訴えていた。
「……お前は違うよ」
「どう違うんだ?」
「まだお前にはここがあるじゃないか。風太がいるじゃないか」
「まだ。そう、まだいる。まだだ。それが私の楔になっているとも知らず、あの子はまだここにいる。田を耕し、種をまき、私のために
それまで涼しい顔を崩さなかった【老星】が、無表情の能面になった。彼にとって、彼を祀るこの里は足枷にしかならないと思っているようだ。
「何を言っておる。風太がいるから、わしらは朽ちずにこうしていられるんじゃぞ」
そうではないとクロが諭しても、彼の耳には届かない。
「姫は満足か? ただ流れる日々を無為に過ごし、自分の存在が矮小な何かに変わっていくことをどうすることもできない。今の自分に満足か?」
「お前が切り捨てようとする無為な日々こそ、他では手に入らないかけがえのないものなんじゃ。【老星】よ、お前ならまだ間に合う」
合祀でつながってはいるけれど、すでに心は離れているのかもしれない。
「間に合う? 姫よ、随分と身勝手な立ち位置からものを言うじゃないか。我々は多くの人に崇められてこその存在だろう。あなたが狂っていると断じた連中こそ、本能に身を委ねた純心の塊さ」
「お前は何を求めているんじゃ」
「……ここではないどこかさ」
【老星】はまたひとつ、爽やかに笑んだ。自分はそう、狂っているのだ。だからここにはとどまれない。自分に魂というものがあるのなら、それがとどまることを許さない。ここではないどこかへ、かつて全能だった自分へ。
「姫の考えはわかったよ。……後悔のないようにな」
そう言い残し、【老星】は外の闇に溶けていった。【老星】の消えていった暗がりを見つめ、クロはひとつため息を吐いた。
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