第31話 火室馨②

 ひび割れた道路をひたひたと歩く。街ひとつがまるごと空室になったような空白が、火室ひむろのささくれた気持ちを幾分か落ち着かせてくれる。


 ヤコブソン器官で周囲の匂いを嗅ぎ取っても、あの2人以外の人の匂いはしない。代わりに錆びた鉄や淀んだ汚水の匂いと一緒に、そこら中から野の香りが立ち込めていた。あの頃の遊び場もこんな匂いに溢れていた。


(人の匂いから逃げるみてえに、よくヒヨリと一緒に隙間街クレパスに入ってったな)


 少年時代の火室が住んでいた一帯は、そのハイランドの中でも端の端に位置する極貧エリアで、ナノン社会において行き場を失ったリュカオンやヒュームの吹き溜まりだった。


 そのエリアの中心には貧困を象徴する「団地」と呼ばれる市営住宅が密集して建っていて、スラム近辺で起こった悪事は大抵その「団地」の住民が関わっていた。


 貧しさが彼らに与えてくれるのは悪の教養とあくなき乾き。警察が団地に立ち入って来るなんて日常茶飯事で、火室が暮らしていた部屋の両隣とも逮捕歴を持っていた。


(お兄ちゃん、遊ぼ)


 火室の3歳下の妹――ヒヨリは、団地の住民とは思えない優しい気質の持ち主だった。しかしその優しさは、ことスラムにおいてはつけ込まれる隙であり欠点とみなされた。トカゲの外見も相まって、ヒヨリはよく学校でいじめられていた。


(クレパス行こうぜ。あそこなら嫌なやつらも滅多に来ねえ)


 いじめられていたのは兄も同じだった。兄妹は人目を避けてクレパスでよく遊んだ。匂いを嗅ぎ安全を確かめながらだったが、廃墟の2人は自由だった。クラスメイトからの陰湿ないじめや大人からの蔑む視線から自由だった。緊張でえずくこともなかったし、急に鳩尾を襲う痛みもやっては来なかった。


(お兄ちゃん、ごめんね。疲れたよ)


 だが2人の時間は唐突に消える。


 火室が中学校3年生、ヒヨリが小学校6年生のことだった。その日は朝から最悪だった。酒が切れた父親が暴れまわり、制服のシャツを鼻血で染めながらヒヨリの手を引いて逃げるように家を出た。


 父親のことは何度も包丁で刺し殺す妄想を繰り返してきたが、あんな父親でも死んだらヒヨリは悲しむはずだ。結局妄想が現実になることはなかった。何より俺がヒヨリのそばにいれなくなってしまう。


(クレパス行くか)


 学校をさぼろうと誘ってみたが、ヒヨリは健気に登校すると言った。妹が頑張って登校するというのに兄がさぼるわけにはいかない。


 居心地最悪な学校で空気のように努め、でも空気にはなり切れず心をすり減らして死にたくなる。いつもの日常だった。真っ直ぐ家に帰る気にはなれず、日暮れまでひとり、クレパスで過ごした。間違いだった。


 家に帰ると父親はどこからかくすねた酒を煽ってソファでいびきをかき、母親はすでに夜の仕事に出て不在だった。


(ヒヨリ、飯食ったかな)


 2人で使っている狭い子供部屋のドアノブを掴んだ。ドアを押すが何かがつっかえて重かった。内臓が風に晒されるように緊張した。嫌な重みだった。


 そんなわけねえ。泣きそうになりながら、いや、実際はすでに泣いていたかもしれない。火室は自分の通れるぎりぎり、扉を開いて絶望の部屋へと体を投げ込んだ。


 部屋の中ではドアノブに紐をくくりつけ、首を吊った妹の姿があった。死んでいた。


 ヒヨリがリストカットしていることは知っていたが、脱皮する度に薄くなる手首のその傷を火室は見て見ぬふりをした。体の傷は癒えても心は血を流したまんま。自分が一番わかっているはずだったのに。


 一緒に時間を重ねることで支えになっているつもりでいた。その実、支えられていたのは自分で、守りたかった妹は自ら世界を捨ててしまったのだ。


「……はあ」


 それからだ。やられたら倍以上にしてやり返す、ヒヨリを守ってやれなかった分も、より苛烈に。


 火室は自分をトカゲ、ケモノと呼ぶ輩に容赦しないようになった。お前らのせいでヒヨリは、と心の中で繰り返しながら。お前のせいでヒヨリは、と自分を呪いながら、彼は今もその槍を振るう。


(あいつらは俺をトカゲともケモノとも呼ばねえ。だからあと3日つきあってやる)


 たいした能力はないくせにプライドだけは人一倍高い上司のたちばなに、何やら辛気臭い魔術を使う情緒が不安定気味の面倒臭い同僚の天辻あまつじ


 黄昏たそがれに入ってヒューム2人のチームに割り当てられたとき、完全にただの肉壁要員として扱われるんだろうと思った。


 トカゲという見た目で雑に扱われることはままあったし、そうであればさっさとチームを見限って好き勝手にやってやろうという腹積もりだった。


 しかし今のところは、チームとしての行動を優先するように心掛けているのが現状だ。


(景気よく猪肉あたり狙ってみるか)


 荒廃した街で獣の匂いを探ろうとして、ヤコブソン器官で周囲の匂い因子を深く嗅ぎ取った。


(ん?)


 求めている匂いとは別に、嗅ぎ慣れない匂いが器官を僅かに刺激した。嗅ぎ慣れないが、どこかで確かに嗅いだ匂い。様々な匂いの階層を嗅ぎ分ける火室は、普段ならばそのまま無視していただろう。だが彼の戦士としての本能がそれを捨て置くことに警報を鳴らした。


 本能の訴えに従ってヤコブソン器官をフル稼働させ、自分の記憶と注意深く匂いを照合させていく。スーパーの平棚、新緑の森、闇深い山。口の中でじわっと肉汁の広がる感覚が蘇った。


(……やべえぞっ)


 モノリスのキノコ使い。白狩背で自分の意志を根こそぎ奪った凶悪な匂いに行き着いた。しかもその只中に橘と美羽の匂いも混じっている。火室は慌てて踵を返し、目下の仲間の元へと駆け出した。


疑似現実トロメアじゃ、あいつら支部ん中に閉じこもってたはずなのに)


 根城が今まさにモノリスの襲撃を受けているらしいが、監視対象にそんな兆候は微塵もなかった。


(一体どうなってやがる?)


 モノリスで風太ふうたを襲ったフラッシュ――あれは風太の身体的データを読み取るスキャニングの光だった。読み取ったデータでトロメア上に風太や茄子なすたちのダミーを作り、スパイアプリの目を謀っていたのだ。


 風太たちがモノリスから動いていないように見えたのは、そんなふうに行動をパターン化されたダミーをスパイアプリが監視していたからに他ならない。


(くそっ!)


 しかしそれはこのリュカオンの預かり知るところではない。不幸中の幸いで、火室は根城から離れていたから攻撃を免れた。そうであれば、最悪から始まった突然の戦況をとにかく自分がどうにかしなければ。


「爪弾く千傷の骨」


 ハルバードが炎を吹いた。


(キノコの胞子で幻覚を見せるんなら、炎で巻き上げてやる)


 炎でつぎはぎに体を包んで出来損ないの防護服をこさえながら、旧市営住宅へと急いだ。

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