第3話 猫と先輩と神さま①
雑木が鬱蒼と生い茂り、ひび割れた道路をジープで進む。ハンドルを握る男の運転は、生真面目そうな見た目に反してワイルドで、がたごと道も相まって助手席の
「……大丈夫か?」
「へ、平気です。……ナノンが車酔いしないって、やっぱり本当なんですか?」
文音は少しでも気分を紛らそうと、窓いっぱいに広がる緑を眺めながら話題をふった。
「ああ。体内のナノマシンが三半規管や自律神経の乱れを調節してくれるからな」
ナノンとは、体内にチェインという分子サイズの医療用ナノマシンを取り入れた人間の呼び名だ。このチェインがちょっとした体の変調から細胞の異常――例えば癌細胞への変異の兆候なんかを素早く察知しケアしてくれることで、ナノンは完璧に近い健康を手に入れた。今や世界の人口の80%はナノンだ。
「……三虎、やっぱり酔ってるんだろう?」
生真面目そうな男――
「これを舌の上で溶かしてみろ。すぐ効くようだから」
ナノンの長戸には不必要な、純度100%文音のために準備された酔い止めのフィルム製剤が手渡される。凛々しい眉に無骨な輪郭、黒髪をオールバックになでつけた堅物そうな外観からは、とても推し量れない細やかさだ。
「え、わざわざ用意してくれたんですか? ありがとうございます」
文音は力なく笑み、試すようにフィルムを舌の上で溶かしてみた。
「あ、すごいミントの香り。爽やかー」
「街じゃこんな悪路あり得ないからな。……あと15分と43秒で着くから、辛抱しろ」
そう語る長戸の視界には、眼球を被うナノレイヤーの薄膜が
「ようやくアポが取れたからな。遅れたら噴飯ものだ」
今、2人は人口減少のあおりで消えかかっている
同僚の体調と先方との約束を天秤にかけ、文音を気遣いながらも長戸はアクセルを踏む力を緩めない。
「私が待ち合わせに遅れちゃったから。すみません。
文音はバツが悪そうに本日何度目かの謝罪を口にした。
「気にするな。惰眠と朝の二度寝は若者の特権だ」
長戸に悪気はない。彼は自分に厳しいのであって、他人の失敗には寛大だ。今車を飛ばしているのも、自分が約束を違えることが許せなくてのことであって、決して文音に怒っているわけではない。しかし、お前の遅刻なんてたいしたことはない、と伝えたくて放った言葉は、その意図とは裏腹に文音の臓腑をえぐる。
「ほんっと、すみません!」
「そうではなくて……。いや、俺こそすまん」
長戸は上手く場を和ませることができない自分に内心ため息をついた。しかしやっとできた後輩だ。先輩として、この気まずい空気を変える努力は放棄できない。
「……猫、だからか?」
「え、なにがです?」
しまった、間違えた気がする。だが、一度相手の鼓膜を揺らした音は回収できない。
「猫だから、感覚が鋭いというか、だから酔いやすいのか、とな」
この会話をなかったことにできないか、長戸は後悔した。
「いや、すまない。俺の運転と悪路のせいだ。それに失礼なことを聞いた」
結局また謝る羽目になった。
「全然全然っ。別にベースのことなんて私、ほんと気にしないんで。それに頭の耳と尻尾くらいしか猫っぽいところないし」
文音が言うとおり、その頭には白に近いベージュ色の毛並みの耳が可愛らしく生えていた。髪も毛並みと同じ色で、腰ほどの長さをツインテールに結んでいる。小麦色の肌と相まって、千夜一夜物語に登場する姫のようだ。緑色の瞳はどこかいたずらっぽい光をたたえ、「猫を人間にしたらこんな感じです」と言えば、万人が「なるほどそうでしょうね」と頷くだろう。なにせ、ほんとに猫のDNAを取り込んだ人間――リュカオンなのだから。
リュカオンは他の生物のDNAを積極的に取り入れることで、健康と長寿を獲得しようとした細胞生物学的アプローチの賜だ。生体物理学的アプローチのナノンほど完成度の高い健康と超長寿命には手は届かないものの、ベースになる生物の様々な特性をその身に宿している。
さしあたり確認できる文音の宿した猫の特性のひとつは、その愛嬌と言えるだろうか。
陽気な猫娘と重苦しいナノンを乗せて車は山の中をぐんぐん進む。
「私、
神が顕現した地域は、この国の神話になぞらえて蓬莱と呼ばれている。ナノンが世界に溢れるのと時を同じくして、信仰が息づいていた土地土地で神なるものが姿を現し出したのだ。
「しかも今向かってるとこ、曰くつきの蓬莱ですよね? 数年前に住民が半分近く姿を消したっていう」
「ああ、俺の前任から聞いた話じゃ、50人に満たない小さい集落だが、人と神性トークンが調和した穏やかな里山だったそうだ。トークンも複数体いたらしい」
「そんな小さな村に複数体ですか? それだけ大切に伝統が引き継がれてきたってことですよね。すごいなー」
文音が関心するのも当然だ。地域固有の伝統文化を維持するということは、その習わしの数だけ人も労力も必要になる。大疫災後の人口減少社会において、そうした地域を定義づける土着の文化は人よりもなお早く消えていった。
「日本の原風景とか呼ばれて、移住するヒュームも多かったみたいだぞ。確か村の半数以上は移住者だった」
「でもその半数以上がごっそり消えちゃったんですね。大変だ」
「ああ、記録を読む限り、先導者がいたようだ」
「先導者……。
文音は表情を曇らせた。モノリス・ライブラリの仇敵、世界の終末を信奉する許されざる破壊者の集団だ。
「多分な。神性トークンが姿を消したという記録はなかったから、多分信者集めだろう。やつらにとってヒュームは上質な客だからな」
「えー。でも蓬莱で神をほっぽって信者集めって、片手落ちな感じですよね」
長戸も白狩背の記録を読んだ際、文音と同じ感想を持った。黄昏にとって信者以上にトークン集めは重要だ。なにせ、強いトークンを手に入れるため、わざと人を祟らせてトークンを育てることもあるという。
「白狩背、今は1人しか住んでないんですよね? どんな人なんですか?」
「前に一度会ったきりだからな。俺も詳しい人となりはわからん。三虎、ティアーズは?」
ティアーズとは眼球をナノレイヤーで被うために点眼する液体だ。ティアーズを点眼すると含有されているナノマシンが眼球の表面に層を作り、網膜にトロメアを投射して
「ばっちり入れてますよ」
文音は両目を指差し親指を立てる。ついでに尻尾もピンとおっ立っている。
「俺の手を」
長戸は助手席側の手を文音に差し出した。なにも先輩という立場を利用して後輩にボディタッチしようとしているわけではない。彼はそういう行為とは一番縁遠い男だ。そうではなく、長戸が携帯しているデバイスには、今まさに向かっている
「あ、なるほど。では失礼しまっす」
文音が差し出された手を無遠慮に掴むと、2人の体内にある塩分を伝導し、長戸の持つデバイス内にあるデータが文音のトロメアに映し出された。
視野の中空、バーチャルに展開される葉山家の情報に目を通す。
「半年くらい前までは、父親と2人暮らしだったんですね」
「ああ。父親の伝蔵さんは重い病気で亡くなった。ヒュームらしく、延命措置は拒んだようだ。俺たちの訪問が許されたのも、それが関係するんだろうな。今までずっと断られていたのに、突然息子の
「継承者の不在ですか。……風太さんはどうするつもりなんですかね?」
文音たちモノリス・ライブラリの表向きの仕事は、今なお現存する伝統文化を保存することだ。その地域の年中行事にはじまり、日々の暮らしや食文化、遊びなど日本の民俗文化を後世にまで残すため、モノリス・ライブラリは資料や映像でそれらをアーカイブ化するのだ。
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