第三章4 『タッチ』
朽ちた黒い布の下から見える漆黒の般若の面が、大の後ろから早希を見下ろしている。殺人鬼は大の肩に突き刺している巨大な鎌を抜くと、地面へと無造作に下ろした。大が肩から血を噴き出し、悲鳴を上げて倒れると、全身が黒い布に覆われた殺人鬼の全貌が見え、一同は驚愕する。
人と呼ぶには、あまりにも背丈があり、朽ちた黒い布がマントのように頭から全身を覆っていた。体にはミイラのように黒い布が巻かれ、漆黒の甲冑も着けられている。手に持つ巨大な鎌も相まって、その姿は死神のようにも見えた。
「こ、こいつが例の殺人鬼、っすか」と了は動揺を隠せない様子で西村に訊く。西村がサングラスの位置を直し、「ああ、のようだな」と答えた。口調は冷静さを保っていたが、額には汗をかいていた。数多くの死地から脱してきた西村でさえも、これほど身の危険を感じた経験はない。やはり勘は当たっていたか、と西村は思う。
殺人鬼は、のたうち回る大を無視して、地面についた大鎌を引きずりながら、早希に向かってくる。鎌の重さで地面は抉れ、殺人鬼が歩く後には一本の筋が作られていく。死への道筋。それは早希へと向かっていく。
早希の体は、まるで処刑台の枷に嵌められたかのように、身動き一つできない。
「てめぇ、何やってんだよ! 早く逃げろ!」業を煮やして、了が大声を張った。
「分かってる。でも、足が、足が動かないの!」
「くそっ」実のところ、逃げろと言った了自身も足の震えが止まらず、動けずにいた。
殺人鬼が眼前まで迫る。距離が近づけば近づくほど、殺人鬼の異様さ、恐ろしさをひしひしと感じて、早希は未だ動くことができなかった。殺される覚悟をするしかない。早希は睨みつけることで、精一杯の抵抗を示した。殺人鬼との距離は目と鼻の先まで近づいた。しかし、殺人鬼は早希は襲わなかった。早希の横を通り抜けると、背後で早希同様に恐怖で身動きがとれない共子へと突き進んでいく。
なぜ自分が殺されないのか、と疑問を抱いている暇などなく、共子が殺されると直感した早希は水中で藻掻くように体を動かして振り返り、「逃げて、共子!」と声を絞り出した。
早希の声を聞き、共子は目に映る巨大な黒い人影が実在し、自分に迫ってきていることをやっと実感した。
「え、うそ」
殺人鬼は両手で大鎌を持ち、高々と振り上げる。共子が体勢を変え、逃げようと背を向けた。すると、共子は奇妙な光景を目にすることになる。自分の足が目の前を走っているのだ。見慣れた自分の足だ。見間違えるはずはない。正確には足だけではない、胴から下の部分だった。
一瞬にして共子は腹部を殺人鬼に斬られていた。斬られた下半身は、はみ出た内臓をこぼしながら数歩走ると、司令塔を失ったことにやっと気付き、倒れていく。上半身だけになった共子もスローモーションで展開される嘘のような場面を見つめながら、地面へと落ちていった。共子には殺されたことを自覚する時間すら与えられなかった。
いやだ、いやだ、いやだ! 早希の瞳には、痛々しく二つに斬られた共子の体が映る。
「共子!」早希は涙を浮かべ絶叫した。早希の声は二度と共子には届くことはない。
共子の元へ駆けつけようとする早希の肩を掴み、止めたのは了だった。
「行ってどうすんだ!」
「だって、共子が、共子が死んじゃう!」
「もう助かんねぇ、見たら分かんだろ!」
上半身と下半身、それぞれの体から血と臓物が飛散している共子を見て、「分かってる、でも、でも……」と早希が言葉を繰り返した。
殺人鬼は鎌を下ろした体勢で背を向け、佇んでいる。
「まずいな」西村が状況を見て呟いた。何もしなければ全員殺される、と感じた西村は肩の痛みをこらえ、立ち上がろうとする。
その時、殺人鬼とは別の異質な殺気を察知した。獣かとも思ったが、それとも違う。これは逆恨みをする人間が発する独特な殺気だ。殺人鬼に恐怖を感じ、焦っていたのか、こうも勘が働かないとは……。こいつのしつこさも想定外だ、感服の念すら抱く。足元には、殺人鬼に殺されたはずの大が息絶え絶えで、西村を見上げていた。
「タッチだ」
大は西村の足首を掴み、「今度はおまえが、殺される番だな」と微笑する。
まるで大の言葉と同期するかのように、殺人鬼は西村に体を向けた。西村が大に蹴りを食らわせる。大は吹っ飛び、地面に叩きつけられた。大は気が触れたように笑い出す。
「ははは、見えるぞ、おまえらが真っ赤に染まる姿が!」血だらけの口で、大は空に向かい喚き終えると、体をぐったりとさせ、血走った目を静かに閉じていった。
「西村さん!」異変に気付いた了が、西村に近づこうとする。
「来るな!」西村が手の平を突き出し、了の動きを止めた。
西村は大に一瞥をくべると、「こいつに触られた。呪いが、今度は俺にある。となると、あいつは俺に向かってくるはずだ。俺がここで食い止める。おまえらはその間に逃げろ」と言い、殺人鬼に射抜くような眼差しを向けた。
「そんな。無理っすよ、西村さん。一緒に逃げましょう」と了は西村に向い、歩き始める。
「来んじゃねぇ!」と西村の声が森中に木霊する。
了が組に入り、初めて任されたのが、系列下にあった暴走族のケツモチ代の回収だった。了が入った時期がたまたま悪く、横暴なヤクザの要求に耐えられなくなった総長が反旗を翻し、回収に来た了を拉致したのだ。いくら腕に覚えがある了でも、多勢に無勢では敵わず、見事なまでに袋叩きにされ、暴走族が集会所として使用している古びた倉庫に監禁された。了を監禁したところで、何の効力もない。所詮下っ端の了に組が助けなど出すはずがなかった。了は人生で初めて死を意識した。
そこへ現れたのが西村だった。後から聞いた話では、それは組の意思ではなく、西村の独断ということだった。渋目の縦縞のスーツを纏い、サングラスをかけた西村は一人で何十人という暴走族を相手に立ち振る舞い、了を救った、ということにはならなかった。西村の風貌、全身から溢れる威圧感は、その場にいた全員を一瞬にして飲み込んだ。一言でも発したら、即、死が訪れる。そんな錯覚も覚える西村の姿に、暴走族たちは恐怖した。
西村の叱咤は、鬼気迫る雄姿を思い起こさせ、了も暴走族たちがそうであったように、動くことができなくなった。
「西村さん……」
隣で様子を見守っていた早希は、了に止められたことや西村に呪いが感染したことで、共子が殺されたことへの動揺から、少し落ち着きを取り戻していた。悲しんでいる場合ではない、と涙を拭う。状況を瞬時に判断し、最良の選択肢は何かを模索する。このまま何もしなければ、この若いヤクザは無謀にも中年ヤクザを助けに行って、返り討ちにあうだろう。そうなれば、残るのはあたし一人……。結果は見えている。全員は無理でも、一人でも犠牲者の数を減らさないと。人の死を見るのはもう充分だ。
「あの人の言う通り。行っちゃだめ。今は、ここから逃げるべきよ」早希が了へ声をかけた。
「何言ってんだよ。西村さんが殺されてもいいってのかよ!」
「いいわけないじゃない。でも、見て。あんな奴、どうしようもできない。このままじゃ、あたしたちも殺されるだけでしょ」
了は早希を見つめ、「だけどよ、西村さん、死なせたくねぇんだよ」と懇願する。
西村は肩を押さえながら、立ち上がると、鎌を引きずりながら迫ってくる殺人鬼に睨みを利かせた。初めて額に銃を突きつけられたときでさえ、かかなかった冷汗が西村のこめかみにある古傷を伝い、滴り落ちていく。
「あの人はもう覚悟したの。あんたが、それに答えなきゃどうすんのよ」
「分かってるけどよ」
「分かってない! あの人が、あんたを助けたいって気持ち。ちゃんと、分かってあげなさいよ」
それを聞き、よほど早希のほうが了よりヤクザ気質だと、西村の口元が緩んだ。
「あたしも、もちろんこれ以上人が殺されるのなんか見たくない。でも、この状況で一人でも助かるには、あたしたちが逃げるしかないの」
「ねえちゃんの言う通りだ。逃げろ、了!」西村が俯いている了に言った。
「西村さん」
「ぐだぐだ言うな。俺を誰だと思ってんだ。こんな奴ぐらいどうにでもなるのは、おまえが一番よく分かっているだろ」
「分かってますよ、分かってますけど」
「なら、行け!」
普段なら言われた通りに行動に移る了も、状況が状況なだけに、西村が命令したところで逃げだす気配をみせない。頭を抱える西村が足元をふと見ると、月光りに照らされてキラリと光る見慣れた物を見つけ、顔をほころばせた。
「それにだ、俺にはこいつがある。心配するな」と西村は言うと、大に取られた銃を拾いあげた。西村にとって長年生死をともにしてきた相棒だった。
了は西村に近づいていく常軌を逸した殺人鬼を見て、首を何度も横に振る。
「そんなもんで、どうにかなるような相手じゃ―」西村は銃口を了に向けることで、それ以上、了の口が開くのを止めた。
「なるかならねぇか、やってもねぇのに勝手に諦めんじゃねぇ!」
また俯いてしまう了に、「目を逸らさないで、あの人の言葉、ちゃんと聞くの」と早希が言うと、了は西村に顔を向ける。
「他のもんが皆去っていった後も、ここまでこんな俺について来てくれたのは感謝する。だから、了、おまえは行け。生きろ!」
了は拳を固く握りしめ、目には涙を溜め、西村を見つめた。西村さん、西村さん……。了の心の中には西村との思い出が溢れかえっていた。
了にかけてあげる言葉はもうない。早希は了の手に優しく触れると、顔を見つめ、うなずいた。西村の意思を変えることはできない。殺人鬼を止めることもできない。了は、これ以上自分にはどうすることもできないことを悟り、早希の先導に抵抗はせず、引っ張られていく。二人は走り始めた。
「そうだ、それでいい」西村はぐらつく膝を殴ることで気合を入れると、銃口を殺人鬼へ向けた。
殺人鬼は何も言わず、淡々と西村に向い、迫ってくる。西村は銃をしっかりと構え、血が滴る手でサングラスを掛け直した。
「来いよ、相手してやる」
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