欠如のカタチ

オカザキコージ

欠如のカタチ

欠如のカタチ



 電車の中でふと気がついた、膝の上に置いた黒いカバンの隅が白く汚れていることに。いつ、どこでついたのか。いつもなら気にしないことでも今日は少しばかり違っていた。そこへ意識を持って行こうとしているのか、何かにそう強いられているのか。真新しいコンクリート壁にでも擦れたようなその跡は、何も意味していない、きっと。何かのシーニュ、徴(しるし)であるはずもなく、ただそのままに、放っておけばいいものだった。そこ、それにこだわる必要はなかった。

 あのことの後だったのか、前だったのか、いまとなっては記憶が定かでない。どちらであっても構わなかったが、僕は彼女からの提案に戸惑い、逡巡していた。「いっそうのこと、いっしょに住まない? それの方が…」。彼女の口から「合理的」やら「効率的」という言葉が出て来ること自体、違和感を覚えたし、気分のいいものではなかった。内にある何かをこわばらせ、それこそ怒りに火をつけかねない危うい言い振りだった。僕が黙っているのを見て、彼女は話題を変えようか、迷っているように見えた。だからといって彼女に手を差し延べようとは思わなかったし、言葉を探すこと自体、面倒に感じられた。

 「いますぐって話じゃないし、とりあえず考えておいて」。これ以上、沈黙が続けばろくな事はないと思ったのか、彼女はいつもより早口でこの話題を片づけようとした。結婚を意識しているのはずっと前からわかっていたし、付き合って三年、いや正確には三年と四カ月。三十歳半ばの女がこうした素振りを見せるのも仕方がない、大目に見てやるべきだったのかもしれない。彼女にしてみれば、踏ん切りのつかない彼に一石を投じたつもりなのだろう。どういう反応を見せるか、一見穏やかに見える水面に波紋がどう広がっていくか、見定めようとしていたに違いなかった。

 その日は、彼女の自宅前で別れた。見方によってはよそよそしい感じで手を上げて、何に納得しているのか、軽くうなずいて見送った。異様に明るいマンションのエントランスでオートロックを開錠する彼女の後ろ姿を見ていた。開いた扉に吸い込まれるように中へ消えていった。彼女が振り返らなかったことの意味を深く考えようとは思わなかった、そこから導かれる答えに引きずられるのが嫌だった。こうして意識を強いたからか、駅へ向かう足取りは思いのほか重くはなかった。暗い線路沿いの道を、スマホに顔を照らされながら歩いた。無人の改札口を通り、ホームの端に数脚ある、塗装の剥げたプラスチック製のイスに腰を下ろした。だからと言って、しぜんと内側から上ってくる思いを抑えるのは思ったより容易でなく、通過する急行電車を見送りながら自分だけ取り残されているような気分になった。

 この時間帯なのに、普通電車なのに思いのほか乗客が多くいた。シートの端の方が埋まっていたため、仕方なく真中辺りに腰を下ろした。スマホを取り出して着信がないか確認し、文庫本の続きを読み始めた。少しでもアルコールが入っていると集中できないのはわかっていたが、強引に読み進めていった。案の定、文字をなぞるだけで意味がなかなか頭に入って来なかった。ふつう、そういう時は無理な抵抗をせずに本を閉じて目を強くつむってしまうが、どういうわけか、その夜はずっと字面を追っていた。断続的に頭の中で映像が浮かんでは消えて、複雑に光が交差し意味を成さない錯図を描いていた。気まぐれな思考と、何かを確定しようとする認識の不一致は仕方のないことだったが、これ以上続けば割れるような頭痛が襲ってきそうだった。僕は大きく頭を振って、脳裏に張りついていた彼女の一部を払おうとした。彼女にどう応えようか、いや逃げようか、そんな陳腐な考えをめぐらすだけだった。

                 ◆

 日常が淡々と続くことにストレスを感じない方だと思っていたが、ときに身の置き場がないというか、いやに心がざわつき、制御できないときがあった。何かの兆しなのかもしれなかったが、もちろんいい感じではなかったし、身体にもこたえた。じっとして居られないので、身体のどこかを微妙に動かしたり、逆に論理的なことを考えたりして、見た目とは裏腹にやり過ごそうと躍起になった。心と身体のバランスを取り戻そうと、不可能は承知で何とか二者を合一させようと無駄な努力を重ねるのだった。ふいに起こる、こうした不可知な情況への対症療法をなかなか見つけられなかったし、けっきょく為せるがままにして置くほかなかった。きっとそこに、わずかなシーニュ、サイン、仄めかしがあるのだろうが、その端緒すら感じられなかった。

 会社の最寄り駅に着くころには意識が覚醒し出し、日常へ埋没する準備が整うのが通例だった。でもこのところ、剥がれ落ちるべき殻がうまく身体から離れず、振り払うのに苦労する日々が続いていた。ほんらい生理的に備わっているはずの社会への適応能力がどれほど欠落しているのか、そう自問するのはけっこうなエネルギーの要る作業で、さらに気分を落ち込ませた。デスクに座って仕事を始めようにも、ルーティンでさえ思うようにいかず、そういう歳でもないのに能力の劣化なのか、たんに集中力が減退しているだけなのか、相変わらず自分と向き合えない情況に、嘔吐感すらもよおす始末だった。

 昼休みは一人、会社から少し離れた公園でぼんやりとやり過ごした。一人で食堂に入るのが苦手だったし、会社の同僚数人と昼食を囲むのはあり得なかった。公園近くのベーカリーショップで調理パンと飲み物を調達し、スマホ片手に時間をつぶす。気ぜわしそうなSMSに参加しようとは思わなかったし、それで着信が減っても別に気にしなかった。取り残されるという感覚より、煩わしさから開放されて、日常がより簡潔、シンプルになるのが心地よかった。心身から余計なもの、目に余るものをそぎ落とすのは快感ですらあった。軽く変人扱いされるのも悪くなかったし、ほどほどの疎外感がかえって内側を安定させた。

 午後の会議では、発言を求められる機会がなく、けっか無為に過ごすことになった。気楽ではあっても何かを浪費している感じがして、やる気がある方でもないのに、それなりにこたえた。ただ、目の前の状況と洩れ出る思い、イメージを、きれいに乖離させるには有為な場、意味のある時間だったのかもしれない。うわの空でぼんやりしていると、少し前の自分をリセットしているような感覚、いや錯覚だろうが、希望を抱けるほどではないにしろ、少し前向きになれた。目をつむり深甚していると、スムーズに異界へ、それこそ冥界へ近づけそうな気がした。虚空と深淵を行き来しながら魂の旅をする―。そう言えば高尚な道程のようだが、実際は言葉で整序できるほどクリアなものでなく、濁った流動物の中をただ彷徨っているだけ、円環の中をぐるぐる回っているだけ、そんな感じだった。うまく? 時の流れに乗りそこない、異次元へ入り込んだようなもので、ちょっとした飛翔、緩やかな螺旋階段を上っている程度のことだったのかもしれない。

 触覚や視覚から離れて、聴覚も感じなくなって、少しは可能性を引き寄せられるかと思うも、制御できない不快感の方が上回り、気分を建て直すには力不足だった。担当者のプレゼンテーションの音声が脳髄に響き、内側に軽い振動を引き起こす。浮遊する言葉を分解し、総合しようとする一方で、センテンスの裏面、非言語的なモノどもコトどもが、不規則に漂い、捩れ迫ってくる。流転する、不確かな広がりに戸惑いながらも、新たな感覚を求めようとする、創造の兆しに期待をつなぐ。危うい正負のバランスの上で、恍惚に浸る至上感と、不安を増幅させる失速感。進・退化の誘引をうまくやり過ごし、必当然に裏打ちされた磁界へと彷徨う。脳髄の端くれや神経系の襞に残る痕跡を更新していく。ドキュメントが擦れ重なる無機質な音、ブラインドの隙間から差し込む光の束が覚醒を促していく。

 総務部の女子たちに混じって終業時間と同時に退社する男性社員は数えるほどしかいなかったが、僕はその中に入っていた。ときに担当部課の実務責任者が終業一、二時間前に、嫌がらせのつもりなのだろう、取り立てて重要でもなく、急ぐでもなさそうな仕事を投げてきた。僕は質を一切捨象し、量の処理だけに集中する。一時間ほどで残業で片づけて、さっさと会社を出る。そんなときに限って、駅へ向かう道すがら、めずらしく残業した女子と一緒になって戸惑うことがあった。もちろん、微笑みかけて並んで歩いて、というわけじゃなく、軽く会釈して素っ気なくやり過ごすのが常だった。めったにないことだろうけど、仮に女子のあいだで僕のことが話題になっているのなら、女嫌いとか、もしかしてあっち系のとか、そんなふうに噂されていてもおかしくなかった。

 その日は、例の嫌がらせもあり退社が1時間半ほど遅れて、いつもより早足で駅へ向かっていた。別に予定もなく急ぐ必要はなかったが、駅の改札を小走りに通り過ぎて、反対側のホームへたどりついた。帰宅が一時間半遅れるほかに何も変化はないはずだった。急行電車がタイミングよくホームへ入って来た。条件反射で半歩ほど足を踏み出してしまい、前に並んでいた人の背中に軽く肩が当たった。その華奢な背中へ向かって「すいません」と謝ると、その女の人は振り向いて、その場、そのシチュエーションに合わない、慈しみを込めたような優しい笑顔を返してきた。不愉快な表情で睨みつけて来ると構えていただけに、拍子抜けというか、不意の突かれた感じで戸惑った。

 さらに「大丈夫ですか」。皮肉な意味合いでなく言葉通りに心配げなやさしい語調で彼女は続けた。それでも硬い表情を崩さずに、こちらが「すいません」を繰り返すものだから、かえって彼女の方が恐縮して真顔になり、困ったふうだった。僕は言葉を探したがなかなか見つからず焦っていた。そんなとき、気まずい空気を払い除けるように電車の扉が開いた。乗客がどっと降りて来て、前の方の乗客から順次、車内へ乗り込んでいく。僕は救われた気分だった。前にいる彼女もその流れに合わせて中へ進んで行った。

 僕は心持ちゆっくりした動作で後へ続いた。彼女が車両の右側へ入っていくのを見届けて反対側へ、左の奥へ進んでいった。アクシデントとまでは言わずとも、イレギュラーもこれで終わりとばかりに、意識を通常モードへ戻そうと文庫本を開いた。予想はしていたが、字面を追っているだけでほとんど頭に入って来なかった。集中できないだけでなく、さきほどの笑顔の彼女が断続的に浮かんできて、打ち消すのに躍起になっていた。不快なイマージュではなかったが、思いに任せるのが気恥ずかしく、制御できないのが苛立たしかった。意志とは反対に、思いが先回りしているようで、こそばゆいも、どうしようもなくて為されるがままに放っておくほかなかった。彼女が車内のどの辺りにいるのか。乗客をかき分けて探す自分の姿が目に浮かんできて閉口した。

 降りるころには意識のレベルもフラットへ近づき、このままホームへ出れば、何ごともなかったように、ささやかな日常が戻ってくる、そう思っていた。いつものように帰宅ラッシュに巻き込まれて、変わらぬルートをたどり自宅に無事到着する、はずだった。とくにここ数年、プロセスに変化がないのを了として来たし、それに安住した立ち振る舞いに疑問を抱くこともなかった。心浮き立つような新たな展開を望むには、もはや情緒的に劣化していたし、ルーティンに限った行動範囲や思考様式に収めるのが情理に適っているように思えた。イレギュラーへの耐性が落ちているのを感じていた。

 このさき、階段を降りて暗い通路をわたって別のホームへ向かう。行き交う人たちはどうか知らないが、目に映る風景はいつもと変わらない、意識の中で変わるものは何もなかった。郊外へ向かう電車はすでにプラットホームへ入っていた。どの車両にも四、五人程度の乗客しか居らず、発車にはまだ時間があるようだった。二、三両目に乗るようにしていたが、その日は考え思うことが多かったせいか、気づけば先頭車両に座っていた。しまった、と思うほどのことではなかったが、何となく気持ち悪いので後ろの車両へ移動しようと立ち上がると、視界の斜め先に彼女の姿があった。彼女は背筋を伸ばしてまっすぐ前を見ていた。

 気づいているかどうか微妙だった。いつからそこに居たのか、僕より前か後か。ずっとこちらを見ていたが、気づいてくれないのであきらめて今はただ前を向いている、そんなことあるはずもなく…。僕は一度上げた腰を下ろして考えを巡らせた。彼女の方へ何度か目を向けようと試みたができなかった。このまま時が過ぎるのを待って、自宅の最寄り駅に着けば降りればいいだけ、このあと何か難しいことが待っているわけではなかった。ほとんど妄想の域に達している自意識過剰ぶりに内心苦笑した。そもそもホームで後ろから押してきた男のことなんて、なんだこいつぐらいなもので、それ以上意識の内へ入って来るはずもなく、それ以前に僕の顔すら覚えていないだろう。

 降り際に彼女の方へチラッと目をやった。きっと乗客の陰に隠れて見えないだろうと安心して顔を向けたが、一瞬微光が差したかのように彼女の横顔が目に映った。優しいパステル調のタブローの中にいるように見えた。僕は、じっと見ていられなくて、すぐに視線を外した。彼女がこちらへ目を向けたかどうか、分からなかったが、目を合わさずに済んだ。気がつくと電車は停止していた。圧縮された空気が抜ける音とともに扉が開き、現実に引き戻された。でも、すぐには身体が反応しなかった。降りるべき駅なのか、気が動転していたのか、わからなかった。やり過ごしていると、乗客が潮のように引いていき、彼女の凛とした、清廉な姿が斜め前方に浮かび上がった。

 僕は覚悟を決めて立ち上がり、彼女の方へ進んでいった。たぶん、険しい顔つきになっているだろうと思い、途中で柔らかい表情に変えようと試みたが思うようにいかなかった。彼女のそばまで来ていた。僕が近づいて来るのをどの時点で気づいていたのか、いずれにしても彼女は戸惑った表情ひとつ見せず、例の優しい微笑で迎えてくれた。どう話しかければいいのか迷っていると、彼女の方から「先ほどは」と救いの手を差し延べてくれた。僕はリフレーンするつもりはなかったけど「先ほどは…」と言ってしまい、すぐにそれに気づいて慌てて「…失礼しました」と付け加えた。その様子がおかしかったのか、彼女は下を向いて笑いをこらえているようだった。

 僕は、あのとき焦っていてちゃんと謝れなかったこと、それを口実に後を付けて来たわけでないこと、偶然を装って声をかけたのでもないことなど、くどくどと説明していた。言い訳したり弁解したりする必要はないのに変に言葉を重ねてしまい、自己嫌悪に陥っていると、彼女は再び助け舟を出すようにゆっくりとした口調で「もしかして、乗り越したのではないですか?」と変わらずやさしい笑顔で聞いてきた。さらに少し間を置いて「わたし、次ですけど一緒に降りませんか?」。僕は素直にうなずいて、彼女の後に続いて電車を降りた。

 僕はそのとき、どうしようか迷った。普通なら反対側のホームへ移って電車を待つべきなのだろう。でも、彼女の“一緒に降りませんか?”という言葉に引っかかっていた。どういう意味なのか、どう受け止めればいいのか、すぐに答えが出なかった。このまま改札口に向かう彼女のあとに付いて行っていいものか。途中で“今日はご迷惑をおかけしました”と制して、反対側のホームへ続く階段を降りていくべきではないか。これまた逡巡していると、彼女はタイミングよく振り返り「駅前においしいバターケーキを出してくれる喫茶店があるんです」と話しかけてきた。僕はもういろいろと考えるのを止めて、彼女のあとに付いていった。

 乗り越し清算をしているあいだ、彼女は改札口の前で待ってくれていた。振り返って彼女の姿を見たとき、何かが内側へすっと入ってくるのを感じた。辺りに他の乗降客がいなかったから彼女が際立って見えたのでも、これぞ運命の出会いと感じたのでもなかった。うつむき加減に僕を待っている姿がただ愛おしかった。それ以外に何が必要か、そう思わせる初めての感覚だった。関係性の中で唯一信じられる、得難い最も尊い情感と言えばいいのか。彼女に続いて改札を抜けた。小さなロータリーの向こう側にそれらしい喫茶店が見えた。僕は彼女と並んで歩いていた。


 彼女は、これまで付き合った女の子とどこか違っていた。どこが異なっているのか、言葉で表せば上っ面を撫でるような陳腐なものになりかねなかった。感じたものをそのままに、表に出さず身体の内側にそっと置いておきたかった。使い古した意識を少しでも動かせば、僕にとって心地のいい、その違いが同化してしまいそうで。彼女のイマージュが殺がれないよう、余計なことを考えないよう、内心にぐっと力を入れて、と言えばいいのか。その一方で、こうした特異なシチュエーションで出会っていなかったら、他の女の子と別段変わらないのではないか、いつもの悪い癖であえて用心深く期待値を下げている自分もいた。彼女との会話に、取り立てて感心することも、前のめりになるようなこともなかったが、たんに話していて緩やかな気分になるというか、こちらの精神を弛緩させる、リセットさせる不思議な作用があった。彼女のどういうところがそうさせるのか、論理だって考えても答えの出るものではないのに、ほかのモノどもコトども、それこそヒトどもと同じように、彼女を稚拙な思考の俎上に乗せてしまっていた。

 彼女とは帰りの方角が一緒だっただけでなく勤め先も近かった。昼休みに交差点で信号待ちしていると、反対側の歩道に彼女が立っていても不思議でない距離といえばくどすぎるか。喫茶店で別れる時、連絡先を交換したが、互いにすぐやり取りする性質(たち)でなかったからか、一週間何の音沙汰もなく過ぎてしまった。言い忘れていたバターケーキの感想も含めてこちらから連絡すべきだった。でも、彼女に対してどういう種類の好意を抱いているのか、その答えを探すうちに時間が経過していった。あの時すぐにお礼のショートメールだけでも送っていれば、と後悔した。相手を過度に意識していたがゆえに自縄自縛に陥っていたのだろうか。いやそれよりも、彼女によってもたらされた僕の中の心地よい部分をそのままにしておきたかったし、壊したくなかった。ちょっとしたアクションですべてが台無しになってしまわないか、そう怖れていた。

 あの日から、三週間が過ぎていた。意図したわけではなかったが、彼女と出会った時と同じように一時間半の残業を終えてプラットホームのほぼ同じ位置に立った。すぐに既視感を覚えて目の前に彼女の華奢な背中があるような錯覚に見舞われた。二度目の偶然に期待している自分が厚かましくて、苦笑しながら彼女のとはほど遠い、屈強な男の背中に続いた。急行電車の車内はいつもと変わらず混雑していた。彼女の姿を目で追っている自分に気づき、またも苦笑した。文庫本へ目を戻すが意識は別のところへ行っていた。喫茶店で彼女と話していて一つ気になることがあった。すぐには意識へ上って来なくて、いまになってようやくカタチを成すような記憶だった。

 コーヒーカップを持つ手も、ケーキを口へ運ぶときも、立ち上がろうと身体を支えたとき、そう、喫茶店へ入ろうとドアを押し開けたときも…。彼女はすべて左手・左腕を使った。そのときは、きっと左利きなんだろうぐらいに思っていたが、注意深く思い返してみると、普通なら右手・右腕を添えるような場面でも強引に左手・左腕一本でこなそうとした。思い起こせば、全体的な動きの中で右手・右腕をかばっている感じがあったし、気のせいなのか右腕がだらりと下がっていたような気がした。彼女の緩やかな立ち振る舞いや、やさしい笑顔が、そんな違和感を覚えさせない効果をもたらしていたのか。こちらがフラットな意識で構えていると気づかないほど微妙な印象だった。不幸にもそうならば、不自然さや痛々しさを感じさせない彼女は、どこか次元の違うところに棲んでいるとしか思えなかった。

 乗り換えのため、別のホームへ向かった。この前彼女が乗っていた先頭車両を横目に2両目も通り過ぎて3両目へ乗り込んだ。彼女と出会って以来、これまでにもまして先頭車両から遠ざかるようになっていた。あれから毎日のように彼女のことを思い起こし、強く意識しているのに、いやそうだから? 彼女から物理的に遠ざかろうとしていたし、現象的に出会わないよう意識して行動を制御していた、内心の思いとはまったく逆に…。自分の思い違い、思い過ごしかもしれない彼女の負のイメージ、右手・右腕が利かないこと、それが想像している通りなのか、確かめるのが怖かった。

 あえてそうしたのか、無意識な行動だったのか、僕はあの時と同じように最寄り駅を乗り越して彼女と一緒に降りた駅のホームに立っていた。下車した客とともに改札口へ向かっていたが、乗り越し清算を忘れていたことに気づき、戻ろうと後ろを振り返った。目の前に彼女がいた。再会するのを予期していたのか願っていたのか、僕はそう驚かず、彼女を見つめていた。だが、彼女にいつもの笑みはなかった。少し悲しげな表情をしていた。「ご無沙汰しています」。僕はそう言ったあと、彼女の左側に目をやった。手提げカバンに加えて大ぶりの紙袋を左脇に抱えていた。彼女は一瞬、そのカバンと紙袋を身体の後方へ隠すような素振りを見せた。僕が右手を差し出すと彼女は驚いたふうに後ずさりした。「紙袋、持たせてください」。僕がそういうと彼女はまだ合点が行かないようで尻込みしていた。「喫茶店までの短い距離ですが…」。そう言うと、やっと表情をゆるめた。

 彼女は小学校へ入る前、後ろから来たバイクに撥ねられ右手・右腕を損傷した。リハビリに努めたが、断絶した腱が思うように回復せず、右腕の大半の機能を失った。辛うじて腕を少し前へ、正確には下にぶらんとした状態から二、三十度ほど上げるのが精一杯だった。握力もほとんど失い、コーヒーカップはもちろんのことスプーンすらつかめなかった。「ごめんなさい、あのときにちゃんと言えばよかったのに」。喫茶店で彼女は、この前と同じ席に座るなりうつむき加減に事情を説明した。「謝るようなことではないし、僕の方こそ…」。逆に気づかなかった鈍感さを詫びた。それが原因でいじめられたり、仲間はずれにされたり、嫌なことも多かったろうに、そういうネガティブな話は一切しなかった。でも、自分を見る相手の反応にはやはり敏感になってしまい、どうしても窺うような素振りになってしまう、そんな自分に嫌悪感を覚えるのだという。

 彼女の障害を前に、第三者が構えてしまうのはふつうでしぜんなことなのだろう。外見にも分かる一部身体の機能不全。これまで何度も好奇な視線に晒され、相手の無神経な態度に嫌な思いをしてきたこと、軽くはない苦悩に苛まれてきたこと、想像するに難くなかった。でも、やさしく配慮の利いた彼女からしてみれば、そういう違和感を相手に覚えさせること自体、余計な心遣い、気遣いを強いてしまう結果となり“ごめんなさい”ということなのだろう。不具合、機能不全を晒すことで相手に不快感を与えてしまう、挙句の果てにその場の空気を壊してしまう、そんな思いがあるようだった。気づかれないように、明るく振る舞うことが健常者へのマナーとでも思っているのか。表現として適切かどうか分からないが、それが「不具者としての矜持」のつもりなのだろうか。

 これも、言葉として不適切かもしれないが、その結果として、奥ゆかしさというか、何事にも控えめなところに正直、引かれるものがあった。哀れみや同情心から来ているのではないと言い切れない、おのれの不遜な思いに複雑なものを感じていた。ことは、善悪とか真偽とか相反的で二項対立的な価値に回収できない、敢えて言えば美的な眼差しに関わるような、両義的で曖昧なものに支えられているのではないか。もっと言えば、何かが欠落しているがゆえの美しさ、良質さ、奥深さ。満たされている者にない特異性、優越性、そして可能性。意識や思考を無理に反転させてそう感じ、思うのではなく、彼女の存在自体が僕の中の何かを刺激し、動かし始めていた。欠落から来る、豊穣さというか、持てる者の卑しさ、貧しさから一番遠いところにある至高な部分に。勝手な思い込みは承知の上で、そういう彼女に賭けてみようと思った。

 付き合い出したころは、彼女の右手・右腕代わりになろうと前のめりになって、空回りすること度々だった。かえって彼女に欠落感を意識させる結果となり、そのたびに反省し自然体の大切さに気づかされた。重たいものやかさ張るものを代わりに持ったり、前を回ってドアを開けたりするのは何も問題はなかったが、彼女の右側を意識するあまり、必要以上に先回りしてかえって不自然な情況をつくってしまいがちだった。欠けているところを埋めようとする人間の本能なのか、外部から過度に補おうとすると反作用を起こしてしまい、結果不首尾に終わってしまう。障害を補い、健常に戻そうと右往左往すること自体、不遜極まりないと自覚するには結構な時間を要した。ましてや欠落、欠如を反転させて美的にどうのこうのと自分勝手に思い込むこと自体、不遜で彼女の人格を傷つけるハラスメントだと気づくには、さらに時が必要だった。

 「ただ右側に居てくれるだけいいの」。彼女にそう言われて僕はこれまでの考えがけっきょく自分本位だったこと、彼女の身になって、と思ってやっていたことが的外れもいいところだったと、遅ればせながら気づかされた。どれだけ思い合っているのか、その程度が分からないだけに、たんに居てくれるだけでいいと率直に吐露されて、僕という存在の多くが肯定されたような気がした。その何の衒いもないフレーズに、彼女の僕への思いをあらためて感じて、さらに愛おしくなった。日ごろから感情を抑えがちな彼女の言葉だけにインパクトが強かった。これをきっかけに“障害を持つ彼女だから…”という意識から抜け出せた気がした。


 少なくとも週に二度、土・日曜のいずれかと、週半ばのお互い合わせやすい曜日に会うようになった。休日はどこかへ出かけた後、彼女の手料理で食卓を囲むことが多かった。料理は基本的に両手を使う作業だと思い、当初は負荷がかからないよう外で済ませようとしたが、こちらの懐具合を慮ってか、自宅へ来るよう言ってくれた。彼女は料理が上手だった。僕の見るかぎり、彼女は小さくないハンディキャップを感じさせなかった。左手ひとつ、左腕一本で下処理から味付けまで器用にこなした。「わたし、料理するのが好き」。そう言って楽しそうにキッチンに立った。

 “それと、好きな人のためだから…” そんな顔が赤くなるような言葉を口にする彼女ではなかったが、表情や立ち振る舞いからそうしたかわいい心根がにじみ出ているように思えた。広くはないがこざっぱりとした彼女の部屋は、絵に描いたように二人の世界へ染まっていった。そこには面倒な外部がなく、ただ二人のために内製されたモノどもコトどもが周りをやさしく囲み包んでいた。二人が積み上げつつあるもの、これから創り上げていくもの、いくつもの萌芽が、角のとれた柔らかい襞が、合わさって豊かな厚みを重ねていく。カタチを成さない、成る前にしぜんと崩れてしまう、繊細にして可能性に満ちた流動体。けっして表層に現れ出ない、深層にさまよう虚弱な浮遊物。僕は彼女の中で漂っていた。雑音のない、心安らぐ純化のプロセス、母胎に守られ育まれるように。

 もともと、周りにプライベートなことを話す方ではなかったが、彼女についても会社関係や両親はもちろん、数少ない比較的仲のいい友人にも言っていなかった。前の彼女の時も、隠していたわけではなかったが、何かの拍子に発覚するまで周りに伏せていた。べつにこれといった理由があるわけでなく、ただ知れたら何かと面倒なのと、二人のあいだに何か媒介物が入ってくるのが嫌なだけだった。結婚の話も出ていないのに親に紹介したり、友人の彼女を交えて四人で楽しくなんてことも考えられなかった。当時の彼女への思いがその程度だったと言えばそれまでだが、自分のように愛想のない男はそういうものだろうと思っていた。でも、今回は少し、いやだいぶ違っていた。こちらから前のめりに話そうとは思わなかったが、ちょっとしたきっかけでぽろっと話してしまいそうな、彼女のことを話したいという、こんな欲求、初めてだった。彼女が普通の彼女でないから? 障害を持っているから? それなら逆に隠そうとするのではないか。それとも、自分ひとりで抱えきれないから? 内側にとどめておくには重過ぎるから? いろんな思いが頭をよぎった。

 「気を遣わないでね」。彼女は事あるごとにそう言って申し訳なさそうな顔をした。付き合い出してだいぶ経っても、その言い振りは変わらず、癖のようになっていた。そのたびに僕は軽く笑顔をつくって首を振った。彼女の右側を意識し、しぜんサポートしようと動いていたし、とにかく会っている時ぐらい彼女のためにいろいろとしてやりたかった。でも、そうした思いがけっきょく彼女に気を遣わせる結果となり、二人の関係性の難しさを感じずにはいられなかった。事故に遭ったのが五、六歳のころだから、右手・右腕が不自由になってもう三十年余り、僕が思っているほど生活全般で困っていないのかもしれない、でも…。二人のあいだの小さな齟齬にすぎなかったが、これがかえって関係性を深める要因になっていたのか、それとも綻びが兆していたのか、そのときはわからなかった。

 ウイークデーに会う時はたいてい、会社近くの喫茶店で落ち合った。ちょうど互いの会社の中間あたり、大通りから少し入った路地に面した昭和テイストな外観が二人とも気に入っていた。彼女は定時に退社して僕の来るのを待つあいだ、奥の席で小説を読むのが習慣となり、リラックスできるひと時になっているようだった。たいして残業をしない僕でも一時間以上待たせることがあり、そうした時は駆け足で向かったが、勢い余って喫茶店へ飛び込んで来るものだから、彼女はそのたびに「そんなに急がなくても」と言った。そして少し間を置いて「ずっと待っているのに」。このフレーズを言う時の彼女の微妙な表情が好きだった。僕にとって心地よい日常のひとこまになっていた。

 付き合って半年が過ぎたころだったろうか。少なくとも三日に一度は連絡を取り合っていたが、一週間ほど音信が途絶えた。いつのころからか交互に電話なりメールするようになっていた。次は彼女の番なのに、なかなか連絡が来なかった。めずらしく仕事が忙しかったこともあり、気にはなっていたがそのままにしていた。明くる日にはきっと連絡してくるだろう、そう思っていたがそれもなかった。さすがに心配になって、その日の遅くに電話した。でも、彼女は出なかった。どういうことなのか、何が起こっているのか。悪い方へ悪い方へと考えてしまう。次の日の朝、思い余って会社へ行く前、彼女の自宅を訪ねた。まだ居るはずの時間なのに、何度チャイムを押しても、ドアを叩いても反応がなかった。もしかして中で倒れているのではないか、そんなことまで考えた。あたふたとするばかりで、もう会社どころではなかった。

 こうした時はどうしても、障害が原因なのではないか、連絡できないのは右手・右腕が利かないから、左手・左腕だけだからでは、と。通勤時に後ろから押されて転倒し、左手がふさがっていたため身体ごと地面に強く打ちつけられて、どこかの病院へ運ばれて意識が戻らず…とか。普段は、心配しているふうを見せないよう意識して振舞っている分、一人になると余計なことを、最悪のことまでいろいろと思いを巡らせてしまう。こうした僕の思いを察知し慮ってか、不都合があっても知らせない、連絡を寄こさないのではないか。何よりも僕に心配をかけたくないとの思いから、スルーしているのではないか、心配が募るばかりだった。我慢に我慢を重ねて、とんでもないことになってはいないか、気が気でなかった。

 そうした彼女の、相手を思いやる、奥ゆかしいところがけっきょく、問題を複雑にした。二人に限らず、関係性一般はシンプルであるに越したことはない。そうでなくても、その関係が長く深くなるにつれて絡まる糸の本数が増え、ほどく作業に時間がかかる。そこに情が濃く絡んでくると、さらにことは複雑になり、連立方程式よろしく難問が生じてくる、ひいては関係性を揺るがす事態を招いてしまうことも。僕は、彼女の障害に関わる、欠けた部分から生じる問題を否定的に捉えたり、必要以上に複雑にしてはならないと思っていた。右手・右腕の機能を失ったことをマイナスに考えるのではなく、逆に身体組成としてシンプルさが増して、ひょっとしたら新たな可能性を見出せるのではないか、そんな不遜な考えすら持っていた。関係性一般と身体組成・構造を同列に扱うべきではなかったが、複雑になる一方のリアルな状(情)況の中で、意識的にシンプルへ持っていく、無意味なものに加えて、かつては有意義であったものまでそぎ落とす、そうすることで逆にアジャストしやすくなる…。僕はただ、彼女との回路を分かりやすく、その関係性を出来る限り、ダイレクトに通じるようにしておきたかった。

 僕の中で勝手に起こした、彼女の“失踪騒ぎ”は、心配していた事故によるものでも、事件に巻き込まれたのでもなく、ホッと胸をなで下ろす結末を迎えた。僕の心配をよそに、彼女はたんに実家へ帰っていただけだった。都心から北東方面へ、特急電車とディーゼル列車を乗り継いで三時間余り、これと言った産業もなさそうな穏やかな感じの町が彼女の生まれたところだった。そこには定年間際の父親と専業主婦の母親が二人暮らしていた。彼女が実家を出て一人暮らしを始めたのは五年前、それまでは地元の信用金庫に勤めていた。子供のいない叔父のつてと、障害者枠ですんなり採用されたという。

 両親にしてみれば、結婚できない可能性が高い娘を手元に置きながら、自分たち亡き後も出来るだけ不自由なく生活できるよう環境を整えておこうと、その一念だったに違いない。そんなわが子が突然、家を出て行くという、これまで離れて暮らすなんて思ってもみなかったのにどうして? そんな思いだったろう。彼女がその決意を伝えた時、母親が一緒に行くと言ってきかなかったのも無理なかったし、一人娘を思う父親の心情はいかほどであったか、ましてや障害のある娘をどれほど心配していたか、想像に難くなかった。そのあいだの親子の葛藤について、突っ込んで話したことはなかったが、自立のために実家を離れたエピソードは、僕のこれまでの彼女のイメージを変えた。

 父親は彼女が実家を離れる時、多くの条件をつけて渋々送り出した。二、三カ月に一度は顔を見せること、二、三日に一度は電話を寄こすこと、小さな出来事でも何でも報告すること、少しでも体調が思わしくない時は必ず報せること、彼が出来たらすぐに紹介すること…。今回の帰省も、すでに三カ月はとうに過ぎていたとはいえ、約束の履行、親孝行の一つだった。彼女が、こちらへ戻る特急電車の中で寄こしたメールには、余計な心配をかけた謝りの言葉とともに、彼女にとって実家へ帰ることの意味、普通に地方から出てきた女子とは少し違う感覚、両親の変わらぬ特別な思いへの戸惑い、そして…。率直な思いがつらつらと記されていて、安堵するとともに、彼女を取り巻く状況が浮かび上がってきて、複雑な思いだった。僕と彼女はこれからどうなるのか。そのときは行間に込められた意味を、正確にすくい取ることができずにいた。


 ちょうど出会って一年が過ぎようとしていた。秋の深まりを前に、彼女と郊外のテーマパークへ出かけた。都心から車で一時間半ほど、動物園も併設する、小さい子ども向けのレジャー施設のようだった。来場者の多くは若いファミリー層で、子供をはさんで親子三、四人、楽しそうにしている姿が目を引いた。二、三の乗り物を試した後、ベンチでそうした光景をぼんやりと眺めていた。「子どもって好き? かわいいと思うけど…」。彼女はそうつぶやいた。僕はどう返せばいいのか迷ったが、あまり間を置かずに「どうかなあ、実感ないし…」とだけ答えた。視線の先には、走り回り跳びはねる子供たち、じゃれ合う若いお父さん、はたで微笑むお母さん…。目に映る光景は同じでも別のことを考えていたような気がした。彼女が抱えているもの、捨て去りたいもの、得たいと思っているもの。それが何なのか、貧しい想像力で考えていた。

 高速道を走っていると、気持ちの高ぶりが抑えられ、ときに思考が滑らかに動き出す。外部の音が心地よく遮断され、車窓を流れる風景が思いのほか緩慢に過ぎ去っていく。日ごろの雑念が取り払われ、意識の一部がクリアになって心地よい。これまで複雑に絡み合っていたモノどもコトどもが、目に見えない内心のどろっとした粘着物までも、フラットなところに整然と並んで解決を待っているようで。それはイマージュ、それこそ錯覚に違いなかったが、ちょっとした可能性を垣間見せてくれる、そうそう訪れることのない得がたい瞬間、特異な時のひとこまだった。身体から分離し、上方へ浮遊した自分の本質らしきものが、現下で繰り広げられている些末事を俯瞰しているような、そんな感覚。此岸からの超越、現実から不可視の世界へ、同時にそれは可能性への扉となって…。僕のガイストが、魂が、精神の一部が漂っていた、彷徨っていた。運転を誤って側壁に接触し、制御不能になった車がガードレールを突き抜けて、死の淵にいても、彼岸へ迎え入れられていたとしても、気づかなかったかもしれない。いまどこにいるのか。そう、シンプルに、この肉の塊を脱ぎ捨てて、精霊とともに…。

 「いま、どの辺り?」。彼女の声で呼び戻され、ハンドルを握り直した。車は高速道の降り口付近に差しかかっていた、慌ててアクセルから足を離し、ブレーキを軽く踏んだ。「もう近くまで戻って来ているよ」。だいぶ前から起きていたのか、ついさっき目覚めたのか、僕は彼女の顔へチラッと目をやった。横顔が視界に入って来ると思っていたので一瞬ドキッとした。「どうしたの?」。彼女は、不安げな表情をして僕の方を見ていた。「いや…」。僕は言葉をにごした、というよりそれ以上答えられなかった。きっと彼女は物憂げな表情で、仕方なく前へ向き直ったことだろう。僕は運転をいいことにずっと前を見据えていた。車は、彼女を拾った駅前のロータリーへ向かっていた。行きと同じようにコンビニに寄って帰るのだという。「今日はありがとう」。彼女は車から出るタイミングを計っているようだった。「じゃあ」。僕は、そっけなくそう言って彼女を見送った。

 彼女が車から降りると、すぐに発進させた。もう一度、高速道に乗って遠くまで行きたい気分だった。雨粒がフロントガラスに幾筋か流れをつけていた。ワイパーをオートにセットし、同時にライトを点けた。ロータリーを出たあと、自宅と違う方向へ車を走らせているのに気づいたのはしばらく経ってからだった。いつの間にか街中を抜け、外灯が疎らな地域へ入っていた。小山を切り開いて整備した、どこにでもある住宅街のようだった。さらに車を走らせているとバスターミナルとそれを囲むように数軒の店舗が見えてきた。

 この辺りが中心エリアのようだった。コンビニの中に数人いたほか、傘を差した住民四、五人がターミナルの端に並んでいた。僕は側道に車を止めてエンジンをつけたままライトを落とした。待っていた住民が、着いたばかりのバスへ乗り込んでいく。バスは後ろの扉を開けたまま発車時刻を待っていた。コンビニで雑誌を見ていた高校生らしい三人組がバスへ駆け込むと、ブザーの音とともに扉が閉まりバスが動き出した。ターミナルに人影がなくなり、辺りの静けさが増した。また次のバスが来て同じような光景が繰り返されるのだろう。僕はハンドルから手を放し、シートに身体をゆだねた。訳もなく苛立っている自分を抑えるように強く目をつむった。

 彼女の存在が重荷になっているわけではなかった。無風の中にいるより、程よい負荷をかけられているほうが、何かを強いられている感覚がしっくり来ていたし、そのお陰でいわゆる、ぼんやりとした不安を感じずに済んでいた。一服の清涼剤というフレーズはきっと失礼な言いぶりなんだろうけど、彼女は僕にとってちょうど言い具合に内心を充たしてくれる存在、これも不遜な言い方だが、過不足を感じさせない希少なコンテンツだった。彼女の、右手・右腕の機能不全は、僕にとってもイレギュラーでそれなりに負荷のかかるものだったが、彼女という全体、その良質な心身から差し引いて余りあったし、大きな問題じゃなかった。彼女とその取り巻く状(情)況が僕にとって精神衛生上、たんに心地いいだけでなく、日常を送るにあたり都合がよかったのかもしれない。内側の襞に沿って染み入ってくる不安や悲しみ、嘆きを鎮めてくれた。不可抗的なモノどもコトどもを回避できた。時間の経過と空間の変化によって生じる関係性のずれ、心身の歪みを修復・修正する力が働き、僕を元へ戻してくれた。

 「今日は泊っていくんでしょ?」。彼女がキッチンから声をかけてきた。そういえばこのところ、正確には一カ月半近く、たとえ次の日が休みでもそっけなく早々と引き揚げていた。僕はすぐには返事をせず、コントローラーを持ったままテレビを見ていた。意味なくチャンネルを変えているのに気づいて、コントローラーをテーブルに置いた。「お風呂、沸かそうかと思うんだけど。シャワーの方がいい?」。気のせいか、責められているような、そんな口調に聞こえた。「あぁ、うん…」。言質を取られて困るわけではなかったが、曖昧な言い振りになっていると、彼女は料理をする手を止めてお湯を張りに行った。この部屋に長く居るのが嫌なわけでも、彼女を避けているのでもなかったが、ちょっとしたタイミングも含めて、いたるところに妙な間(ま)ができて調子が狂ってしまう、そんな感じだった。キッチンに戻った彼女はハミング程度だったが、鼻歌を口ずさんでいた。

 付き合いも一年が過ぎると…。どこにでもころがっている、彼・彼女関係に大きな不満があるわけではなかったが、いっしょに歩いているとしだいに道が細くなって狭まっていき、いずれ行き止まりに当たる…そんな感じというか、予感? 風呂から上ると、新しいトランクスと薄いグレーのスウェットが上下揃えられていた。「何か飲む?」。バスタオルで頭を拭きながらリビングへ入っていくと、彼女は炭酸入りのソフトドリンクを持ってこちらを向いていた。夕食のとき以外、お酒を飲まないのを知っているので何も不思議なことではなかったし、先へ先へと動いてくれるのも嫌な方でなかったが、ときに機嫌の加減で不愉快になった。「ありがとう」。そう言ったが気持ちの入っていないことぐらい、かんたんに察知できただろう。でもこういうとき、彼女は気づかぬふりをしているのか、これ見よがしに無視しているのか、たんに感情の変化を察知されたくないのか。彼女は淡々と振る舞った。このあと、録画した映画を観るのがいつもの流れだった。

 「どうする、二時間半ほどあるけど」。彼女は十年近く前に上映された邦画のタイトルを挙げて観るかどうか聞いてきた。ひと昔前に話題となった恋愛映画ということぐらい知っていたが、もちろん観ていなかった。そもそも邦画を観る習慣がなかったし、単純にアクションものの方を好んだ。だからといって、二人で仲良く観るのを拒む理由にはならなかった。間接照明だけにして彼女とソファーに並んだ。画面に映る若い男女の喜怒哀楽を静かに眺めていた。ストーリーは追うほどのものでなく、主人公二人の感情の機微、ちょっとした駆け引き、すれ違い、立ちはだかる現実、乗り越えようとする意志、予想通りに訪れる挫折、未来への微かな望み…。ペアの数だけ恋愛模様はあるのだろうが、類型化すればそれほど多くのパターンがあるようには思えなかった。成就するか、破たんするか。二本の幹から枝葉が分かれ、どれほどのバリエーションが示されるか。そのプロセスに意味があろうがなかろうが、結果は厳粛に受け止めなければならない。もちろん、それは僕と彼女の関係性においても例外ではなかった。

 僕はその夜、彼女を抱いた。もちろん映画の一シーンのようにはいかなかったし、前戯のパターンを変えて工夫するのも面倒だった。いつもの手順で淡々と進めた。それどころか、途中意識がどこかへ行ってしまって引き戻すのに苦労した。行為自体に意味があると思い込ませて、規則的に律動を繰り返した。それだけを求めているわけではなかったが、摩擦による物理的な快感が低減していたし、排出時に訪れる恍惚感も薄れていた。その一方で “男性”の大きさ・形に合わせてフィッティングしてくる“女性”のスケール、その受容力、包み込む感じがしっくりし出し、良い悪いは別にして安心感をもたらしていた。相手への思いが強く深くなるにしたがって“男性”へのホールド感が増すのは生理的で本質的なことなのだろう。その強弱は別にして、彼女の正直なセクシュアリティが伝わってきて、痛々しくも愛おしかった。即物的な快感と引き換えに、しだいにかけがえのないものがしみわたっていく、そういうことなんだろうとへんに納得した。それに加えて、彼女には例の特徴があった。

 右手・右腕が利かないのは、たいして影響があるように思えなかった。ただ、それはあくまで僕がそう思っているだけで、彼女はきっと強く意識していただろうし、表情や素振りで感じないでもなかった。付き合いが長くなると、些細なことなのか重大なことなのか、よく分からない問題が二人のあいだにまま生じてくる。僕と彼女にとって前戯がその一つだった。端からから求めようとしない僕に対する申し訳ない気持ち、普通の女の子のようにしてあげられない後ろめたさ、気まずさ。それが原因でぎくしゃくして相手の性欲を減退させ、いずれ愛想を尽かれるのではないか、彼女から焦りのようなものを感じることがあった。かりに、友人からこういう話を聞かされると、互いに向き合ってじっくり話し合う機会を持つべきだと、第三者的に助言するだろう。でも当事者にとっては、相手の反応が想像できない相当ハードルの高い問題、アンタッチャブル・マターといっても過言でなく、かんたんに答えの出るコンテクストではなかった。

 いわゆる肉欲でなく内的なつながり、精神的な結合がヒューマニティーの由縁、その本質だとは限らないし、本能に基づいて生を処するビーストが、野卑で下等だと決めつけるのもどうか。必ずしも科学的というわけではないが、脳髄の作用、その高度化に伴う意識の形成・発達、社会からの外的影響、文化の生成・醸成がことを左右していると言えないか。生理医学的で文化人類学なアプローチが、多くの関係性を顕かにするのは確かだろう。そこで問題となるのが、進化と本能の関係性、前者が後者の減退を招くこと、その不可避性、不可抗性。それが人類のプロセス、けっきょくデスティニーなのだろうけど、得るものより失うものが大きいように思えてならない。遺伝を繰り返すたびに、かけがえのない能力が削がれていく、知らぬうちに飼い慣らされ、気がつくと本質的なものまで失い、いつの間にか複雑・過剰なものを背負わされ、腑抜け同然になってしまう。こうした致命的な負のスパイラルを、しなやかな弾性で巻き戻し、眠れる潜在力を顕現させ、未来へと、そのベクトルを可能性の中心に据えなければならない。訓致化された精神の流れを圧し止め、本能を回復させる方策・道筋は見つけ出すには…。

 本来あるべき機能を失うこと、欠損した部分を意識すること、どこかに代替機能を求めること、心身のバランスを保とうと努めること…。これら厳粛なプロセスのキーになるのはやはり、精神の力だろうか。それは、無形で神通力に近いもの、気休めの域を出ないものなのか。それとも、あるべき機能と欠如・欠損の隔たりを橋渡しし、埋め合わせる力を持っているのだろうか。彼女はどう理解しているのか、信じているのか、その力を。一方では、負から転じる特異性、その潜在力、欠けたものから横溢するエネルギー、可能性へ向けた正のベクトル。気づいているのか、与えられているのか、その力を。それに、僕と彼女の関係性、そのプロセスの中で…。失われたものを超える力、僕は彼女の可能性を支えられるだろうか、その中心にいられるだろうか。たんに埋め合わせるだけでなく、その上に新たな層を積み重ねていくような、そんな二人の関係性を。僕は、何かを振り払うように彼女を強く抱いた。

 「えっ、もうお昼? 起きなくちゃ」。久しぶりにぐっすり眠れたと言う彼女はいつになく声のトーンが高かった。眩しそうに目を細めただけで寝返りを打つ僕を残して寝室から出ていった。自分のベッドでも簡単に寝付けないのに彼女と一緒で熟睡なんてあり得なかった。心身ともに疲労感、倦怠感が重たく広がっていた。目を開けていると天井がぐるぐる回ってくるので、しばらくのあいだ、そのまま横たわっているほかなかった。

 「もう出来たよ、早く顔洗ってきて」。彼女は寝室の戸口でこれまた一段と高いテンションで呼びかけてきた。小さなダイニングテーブルには、色違いのランチョンマットにサラダを添えたベーコン&エッグのプレート、冷たいミルク、フレッシュジュース、パンの取り皿。テーブルの中央には浅めの籐のバスケットにフランスパンが切り並べられていた。彼女は至極機嫌が良かった。声のトーンは頂点に達しているように思えた。「今日はどうする? このまま一日じゅう家にいる?」。僕は朝食を結構な勢いで口へ運んだ、でも相槌を忘れず。


 “この前はありがとうございました。また、ご一緒させてくださいね”。

水商売のお姐さんのようなメールを送って来たのは総務部の、前髪を下ろした二十歳前後の女の子だった。高卒で入社してまだ二年ほどしか経っていないから、ぎりぎり未成年かもしれない。ほとんど貢献していない、あるプロジェクトの打ち上げで彼女の方から声をかけてきた。そう広くはない会議室に寿司桶が5、6枚、から揚げやフライもの、ちょっとした中華などケータリング料理が並び、ビール、ウーロン茶、ソフトドリンクが用意されていた。彼女は総務部の先輩お姉さん方の指示を受けながら、ホステスでもコンパニオンでもないのに男性社員にそそくさとドリンクや料理の給仕していた。

 プロジェクトで中心となった者たちが盛り上がっている中、僕は隅でソフトドリンク片手にぼんやりしていた。同じ企画部に属している者に見えなかったに違いない。「同じものでいいですか? お酒じゃなくて」。彼女はステンレスの丸盆に何種類かのドリンクを載せて傍らに立っていた。彼女の顔をまじまじと見つめているのに気づいて、ハッと我に返って「ありがとう」とだけ言って、同じソフトドリンクを手に取った。“なんでこんなことまでやらされているのか?”。表情からそう読み取ったのか、彼女は一瞬真顔になって「仕事の一部なんで。残業代もつくんですよ」と笑った。さらに続けて「いまビール持って来ますね」。僕がアルコールで飲めるのは唯一ビールぐらいだった。

 かたちだけの宴であっても後半に入ってくると、給仕していた総務部の女子も加わり、程よくアルコールもまわって全体に盛り上がり感が出てくる。三、四人の輪がいくつかでき、声も手振りも大きくなり、騒がしさが増していく。隅にいる僕のところへ同僚の何人かが声をかけて来たが、ぎこちない笑顔であしらってどの輪にも加わらず、引き続き一人佇んでいた。ただ、無為に過ごしていたわけでなく、無意識のうちに彼女の姿を追っていた。若い子に特有なドライな感じがなくて、人懐っこい笑顔をふりまく彼女は人気者のようだった。中締めもなさそうなのでそろそろ帰ろうかと思い、空いたグラスをどこへ持って行けばいいか、うろついていると、彼女が賑やかな輪から抜けてこちらへ歩み寄ってきた。「もう帰られるのですか」。彼女がそう言うのでうなずくと「少し待っていてくれますか」。“えっ、どういうこと?”。虚を突かれて言葉を返せなかった。“いっしょに帰るってこと? なんで僕と…”。急ぎ足で会議室を出て行く彼女を見送るだけだった。

 彼女と一緒に駅へ向かいながら、どういうつもりで声をかけて来たのか、そのことばかり考えていた。ちょっとした好意ぐらいは持ってくれているのだろうか。かりにそうだとしても、どういう種類のものか、どの程度のものなのか、見当がつかなかった。いや、好意ではなく何かのたくらみ、不自然に近づいて来ること自体、そもそもおかしなことではないか。ひと回り以上も歳の離れたおじさんを、たんにからかっているだけなら笑って済ませるが、変な思惑がどこかに隠されていたのなら…。安っぽいテレビドラマの汚れ役に彼女を仕立て上げようとしている、その妄想に苦笑した。「こちら側のホームでいいのですか?」。気がつくと駅の改札を通り過ぎていた。勝手に頭の中でつくり上げた彼女の負のイメージをすぐに払拭できず、硬い表情のままうなずいた。

 「よかった、一緒ですね」。こちらの病んだ内心をよそに、彼女は明るい声を放ち、笑顔を向けてきた。ホームのどの辺りに、どんなふうに立ているのか。彼女の横にいるのをうまく認識できないままぼんやりしていると、電車がホームへ入ってきた。扉が開いたので車内へ足を踏み入れようとすると、彼女が胸の辺りに腕を伸ばしてきた。降りる客を待つことすら思いおよばない精神状態の中年男って? 彼女にきっとそう思われているだろうと気分が落ち込むとともに、やっと通常の意識を取り戻し途端に恥ずかしくなった。みっともない身体の一部を見られたようなバツの悪い表情を浮かべている僕に対し、彼女は変わらず笑みを向けてくれていた。そのとき、僕の内側に変化があった、初めての感覚だった。内側で徐々に氷が溶けていくような、柔らかなものにまとわれているような、温かいものが心地よく染み入っていくような、そう、手触り感がしっくりくる隔たりと穏やかな時の流れの中で…。僕は、とり止めのない形容に、フレーズに浸りながら吊り革をつかんで前を向いていた。車窓を流れる灯りがやさしく見えた。

 最寄り駅より三つほど手前だった。彼女は降りる仕草をし出した。「今日はありがとう」。僕はそう言って見送ろうとすると、彼女は少し頭を下げて照れくさそうに扉の方へ進んでいった。ホームへ出た彼女を目で追っていた。階段へ向かっていた彼女が途中こちらへ振り向き、軽く会釈した。僕は車窓越しに小さく頭を下げた。手を挙げて明るく見送ってあげればよかったが、そこまでの器量は僕になかった。できそうにないことを思い浮かべたり、妄想したりする癖を疎ましく思った。一人吊り革にもたれながら、僕は何に対して“ありがとう”と言ったのか、考えをめぐらせた。“じゃあ”くらいの軽いあいさつでもよかったが、それでは冴えない中年のおじさんに気を配ってくれたお礼のニュアンスが伝わらないような気がした。彼女はどう受け止めてくれただろうか、やはり気になった。

 “この前は、ぼんやりしててすいません。いろいろ気を遣ってもらったのに…”。彼女が送ってきたメールにあった“また、ご一緒させて…”のフレーズをどう解釈すればいいのか、いろいろ考えても埒が明かないのでけっきょく、無難にそう返信した。彼女は間髪入れずに“変に思われていないかと心配していましたが、そう言ってくれてホッとしました。わたしの方は…”と返してきた。好意とまではいかなくても、少なくとも悪い印象を与えていないようでホッとした。でもこのあと、どうすればいいのか。メールの次のフレーズがなかなか出てこなかった。このまま一往復で終えるのも愛想がないというか、さりとて図々しく食事に誘ったりするのもおかしいし…。極端に振れるばかりで、真ん中あたりの、程よいコミットの仕方が思い浮かばなかった。考えに考えた末に送った文面が“今度、お昼でも一緒に行きましょう”だった。夜ならデートっぽくなってしまうが、同じ会社の社員同士なのだから、たとえ歳が離れていても、お昼に連れだって食事に出てもそれほど不自然でないと思った。

 メールでは気楽に誘ったふうに装っていたが、実際にはどのタイミングで、どんな表情で、何と言って誘えばいいのか。会社の通路でバッタリ鉢合わせした時に? ミーティングが終わったあとにちょっと声をかけて? 会社を出て駅へ向かう彼女を呼び止めて? いろいろと考えているうちに、面倒くささも相まって気持ちが萎えていった。“うれしい! 楽しみにしています”。彼女が返してきたメールが肩に重くのしかかっていた。会社の女の子を昼食へ誘うぐらい何でもないこと、大したことではないと思えるマインドというか、その程度の度量もないのかと気が塞ぐばかりだった。企画部と総務部はフロアが違い、そうそう顔を合わすこともないと安心していたからか、ぐずぐずしているうちに彼女とメールをやり取りしてから一週間が経とうとしていた。こうなればいっそのこと、このまま何もなかったことにしてしまおうか、お昼に誘ったのはよくある社交辞令で、口先だけの大人の会話として約束を反故にしてもたいして問題はないのではないか。そう都合のいいように、自分に言い聞かせようとしていた。彼女もそうとってくれればいいのだけれども、と思う反面、面倒くさがり屋のいい歳の男がやりそうなことで、でも本質的にはやってはいけないことのように思えて、割り切れなかった。身体全体に薄く嫌悪感がまとわりつき、軽い自縄自縛に陥っていた。

 いまさら連絡しても…と思える時間の経過に、やっと呪縛から開放される安堵感を覚えるとともに、どこか寂しさも感じていた。第三者からみれば些細なことでも当事者の心の内では、かみ合わせの悪い不愉快なズレというか、気がつけば陥ってしまっている身の置きどころのなさというか、潜在していた出来の悪いモノどもが、カタチを成そうとうごめき出して来るというか―。意識の表層には現れないコトどもが知らぬうちに心身へダメージを与えている、そんな負のイメージ。人の思い、感情を軽くみて何度か苦い経験をした三十代半ばの男が、同じように若い彼女の心を弄んではならない、この程度で人間不信に陥りはしないだろうけど、こんなことで嫌な思いをさせてはいけない。そう思う反面、こうして意識をこね回しているのもけっきょくは自分が傷つくのが怖い、そんな甘ったるい感情の揺りかごから抜け出せないでいるだけではないのか。行ったり来たり、逡巡も極まれば、どこかで思考停止し、シンプルな答えに従った方がいいに決まっている、のに。

 僕は休み明けの昼過ぎ、遅ればせながらもいいところだったけど、意を決して彼女に謝りのメールを入れた。“いまさら、と思っているでしょうが…”。きっと無視されるだろうと覚悟していたが、五分もせずに返ってきた。“忘れられていると思って。でも、うれしいです”。取りあえず短く“ありがとう。それなら…”と打っていると彼女から続きのメールが届いた。“だいぶ遅くなったついでに、お昼じゃなく、二人で飲み会はどうですか?”。“ついでに”でなく“つみほろぼしに”とか“バツとして”じゃないかと、突っ込みを入れる余裕は一応あったけど、これまた彼女の誘いに戸惑うも救われた気分だった。うれしいのやら面倒くさいのやら、正確な感情を把握するのが難しく恥ずかしかった。居酒屋やレストランとかで長く差し向かい、緊張が持続するのはうっとうしく嫌だけど、そういうところから生じる感覚や思いを味合うのも悪くないと、そのときはなぜか思えた。このあと何回かやり取りをして、週末に会社から少し離れたお店で落ち合うことになった。

 何となく彼女のペースでそうなってしまったが、これって付き合っている彼女がいる身にとってやはり問題じゃないか、お昼ぐらいなら会社の業務の延長と言えるけれど…。若い女の子と夕食をともにするからといって何がどうなるわけでもないし、せいぜい別れ際に手を振って「今日は楽しかった。ありがとう」と言うぐらいだろう。でも、当然付き合っている彼女には言えないし、知られては困る、それはその通りだった。少しでも後ろめたさがあるのならダメなんだろうけど、今回のケースは本当に瓢箪から駒、こちらが意図していたわけでなく事の成り行きに近いものだし…。当初はそう深刻に受け止めていなかったが、週末が近づくにつれてしだいに気持ちが重くなっていく。よく女子の間で交わされる、どこまでが浮気かの議論では肉体的な関係はもとよりキスや手をつなぐことも論外だろうけど、横になって楽しそうに歩くとか、それこそ向き合って食事するのはどうなのか。いいおじさんがこんなことを考えるのもへんなことだけど…。


 付き合い始めたころと違って、会う頻度も週二回から一回、さらに隔週になることもめずらしくなかった。それでいうと、今週末に会わなくても隔週のパターンにならって、べつにかまわないだろうと連絡もせずにやり過ごそうとしていた。ただ会って食事するだけなんだから、と後ろめたく感じるのを抑え込もうとしていること自体、食事だけを意味しない、微妙な心の動き、それこそ疚しい心持ちがどこかにある証拠だった。“今週末はめずらしく残業で遅くなりそうなので、せっかくだけど…”。一週間近くも連絡を寄こさない彼に対し、業を煮やしてぎりぎり週半ばにメールしてきた彼女にそう返信し、これ以上機嫌を損ねないよう、あらためて来週半ばにいつものイタリア料理店で食事する約束をした。彼女が少し屈み加減に、左手でパスタを口へ運ぶ姿が浮んできた。フォークにスプーンを添えてクルクル丸めて食べる、女性らしい所作が叶わないのを本人はどう思っているのか。そのときの哀切な情感と薄く影のさした情景が心のうちに広がっていった。

 ある程度は予想していたが、週末が近づくにつれてウキウキするどころか暗い気持ちになっていった。普通に言えば、付き合っている彼女に対する罪悪感、別の女の子とこそこそ会うことへの嫌悪感なのだろうけど、加えて彼女の場合には申し訳ない気持ちを増幅させる、あの要素があった。五体満足な若い子と一緒に食事することの意味。そう意識すること自体、障害をもつ彼女に失礼なのだろうけど、どうしても比較している自分がいた。“相手は健常者なので仕方ない…”。自嘲気味に下を向く彼女の姿が繰り返し頭をかすめた。憐憫の情というか、哀れみを感じさせる、処理するのに厄介な感情が立ち上ってくるのを抑えられなかった。恋愛感情に同情や悲哀、それこそ慈悲の念は本来そぐわない、ちょっと違うような気がした。そういう哀れみとか慈しみとかを、恋愛に持ち込むのはある意味ルール違反ではないか。愛情も情の一つなのだから、いろんな思いや感情が絡み合っているのは仕方ないのだろうけど、ほかの情に比べて純粋であるべきというか、余計なものを削いでいって、不純なものを極力取り除いていく行為、愛とは美しい核のようなものを目指すプロセスなのではないか。そういう意味で彼女との関係性はどうなのか…。だからと言って、澄ました顔して若い女の子と会っていいわけはなく、隙あればおのれの思いを正当化しようとする卑しくも浅ましい心根に吐き気を覚えた。

 「仕事、大丈夫だったのですか? 企画部のみなさん、いつも遅くまでいるようなので」。僕は、出された前菜に添えられた野菜をうまくフォークですくえず、彼女の話をうわの空で聞いていた。「休みの日はどうされているのですか?」。仕事の話はNGと思ったのか、当たり障りのない話を振ってきた。「平日にできないことを、淡々とこなしているという感じかな」。僕は別のことを考えていたが、質問にはちゃんと答えた。「洗濯とか掃除とか?」。だいぶ前に前菜を食べ終った彼女は両肘をテーブルにつけて何かを見定めるように聞いてきた。「まあ、そんなところ。やることないから…」。ウエイターが皿を引く短いインターバルのあと、続けて「…ひとり暮らし? 実家から通っているの?」と僕の方から聞いた。「ひとりなので、休みの日は同じように洗濯して掃除して。買い物とか料理はどうされているのですか」。彼女はメーンの肉料理にナイフを入れ、一切れを口へもっていった。「一人で食べに行くのが面倒なので自炊することが多いかな。それも面倒なんだけど」。僕は苦笑しながらそう言った。

 彼女はすかさず「今度作りに行ってもいいですか。こう見えても料理、得意なんですよ」と直球を投じてきた。真顔になって返す言葉に困っていると、彼女は「ごめんなさい、もっと後の話ですよね、押しかけ女房みたいで」と今度は変化球を投げてきた。きっとワインが効いているのだろうと、真に受けていないような顔で一般論にかこつけて「押しかけ女房って。若いのに古い言葉知っているんだね」と返した。すると彼女は「なんか、そういうの、憧れるっていうか。でもけっきょく、ジコチューなんですよね」と屈託のない笑顔を見せた。ここまで来ると“ああ、そうか。おじさんをからかう域に入っているんだ”と逆に気が楽になった。僕はこれまでと違うトーンで「どこのおじさんも、そういう自己中なら大歓迎じゃないの。若い女の子が押しかけて来るのなら」と調子に乗って言ってしまった。彼女は乗ってくれて気を強くしたのか、「じゃあ、次の週末でも行っちゃおうかな」と言いながら、ホワイトソースが絡んだパスタをクルクルとスプーンを添えて丸めはじめた。

 デザートはプレーンのジェラートに二種のフルーツ、まわりには鮮やかなフランボワーズソースが敷かれていた。「本当に楽しかったです。なんか、今日はいろいろとこちらの話を聞いてもらって…」。これまでと違ってどこか神妙な感じで言ってきたので少し戸惑っていると、続けて「また誘ってくださいね。今度は飲みすぎないように気をつけますから」。正直、四十にも手が届く年齢でこうした機会が訪れようとは思っていなかった。ひと回り以上も下の子と楽しく会話しながら食事をする、妄想の世界やホステスとの同伴以外、現実にはあり得ないと思っていた。頭のどこかに昔で言う美人局、このあと店を出ると怖いお兄さんが待っていてちょっと顔貸せと…そんなことまで考えた。彼女を改札口まで送り、軽く手を振って別れた。お店を出てから、彼女は終始饒舌だった。すべてワインのせいだろうが、寄りかかって腕を組もうとするし、自宅へ付いて来ると言い張るし。「冗談ですって。そこまで困らせようとは思っていません」。そう言って小悪魔っぽい笑顔をこちらへ向けてきた。こういうのは初めてだったが、悪い気はしなかった。

 彼女からメールは来ていなかった。もちろん、いま別れたばかりの彼女でなく、静かに部屋にいるだろう彼女、ときにメールの着信を気にしながら取り立てて今夜する必要のない用事をしているだろう彼女、右手・右腕が使えない分、何事も時間をかけて根気よく丁寧にこなそうとしているだろう彼女から…。僕はスマホの画面を見ながら意識が流れるまま、電車の規則的な振動に身を委ねていた。途中、横やりを入れられることも入れることもなく、ただ脳裏をかすめる断続的でサイレントな映像を内側から眺めていた。周期的に訪れる浄化のプロセス、心身をリセットするファンクション、それはこれから訪れるであろう情況へのアクション、同時に死滅していく細胞を意識する負のトランスポーテーション…。時間も空間も当てにならない、円環を回っているのでもない、ただらせん状に流転していくしかない異なる次元。近接するも微妙にずれて距離のある現象と本質、それらがきれいに合わさって、ものごとの真の姿が見えてくるような、神々しい感じ。それはきっと錯覚に違いなかったが、どういうわけか、信ずるに足るもののように思えた。

 僕は、途中下車してホームの隅にあるベンチに腰を下ろした。脳裏のスクリーンには先ほど別れた彼女の手元が映し出されていた。事もなげにフォークとスプーンを巧みに操ってパスタをクルクル丸めていく。その映像が何度も繰り返され、なかなか消えなかった。僕は何を求めているのだろう? 潜在していたものごとが半透明の膜から微かな音を立てて徐々に顔をもたげて来ていた。僕は何から逃れようとしているのか。ゆるい粘度の、その流動体は何に沿ってどこへ向かおうとしているのだろうか。心身の合一、嘘のない真実の世界へ? 僕はきっと、残酷な道行きを辿っているのだろう。ずっと抑えていたものが溢れ出し、何かを満たそうとしていた。僕はたぶん、罪を犯し、罰を受けるつもりなのだろう。散らばる赤い飛沫を背中に浴びながら、どこへ立ち去ろうとしているのか。僕はまだそのとき、それほど遠くないところに“死”が待っているとは思っていなかった。


 合鍵を渡していた。それが彼女にとって何を意味するのか、わかっているつもりだったが、どう捉えているのか、想像するに限界があった。ただ、関係性の度合いを、ある程度あらわす徴(しるし)にはなるだろうと思っていた。渡される側が抱く合鍵への思いを、渡す側がどう受け止め、そのあとの関係性に反映させていくか。余ほど変わった事情がない限り、彼から合鍵をもらってうれしくない彼女はいないだろうし、今後自信をもって関係性を深めてもいいサイン、もっと距離を縮めてもいい合図と捉えるに違いない。一緒に暮らす一歩手前の重要な儀式、あわよくば結婚への扉を開く鍵になるかもしれない…。彼女の場合もそうなのか。ずっと後になってからだったが、控えめながらも一緒に住みたいと意志表示して来たのだから、きっと同じような思いでいたのだろう。障害がある身だからこそ結婚に対する思い、憧れが捩れたかたちで強くなるのは想像できたし、だからと言って普通の女の子のように素直にリアクションを起こせない。そういうことなのか。

 彼女は慎重だった、安易に合鍵を使おうとしなかった。こちらの意図や思いを汲み取ってくれていたのかもしれない。渡した時にそれほど嬉しそうな素振りを見せなかったし、当初は話題にするのを避けているようにさえ見えた。控えめな彼女の性格からすれば、遠慮しているだけかもしれないが、普通の女の子ならこれを機に少々図々しくなってもおかしくない。そうした彼女と思い込んで安心していたのか、合鍵を渡した記憶がたんに薄れていただけなのか。ある晩、自宅のベランダ越しに点る灯りを見て、何のことやら、しばし意味が分からず混乱した。泥棒? 実家の母親? それとも…。状況を把握するのに少々時間を要した。マンションのエントランスを抜けてエレベーターに乗り込み、頭を巡らせてやっと合鍵を持つ彼女へと行き着いた。チャイムを鳴らして彼女にドアを開けてもらうのも、ちょっと違うなと思い、いつものように鍵を使って中へ入った。

 「お帰りなさい。勝手に上ってごめんね。ご飯作ろうかと思って」。先週末に会社の彼女と会って間のない週始めの月曜日。彼女はちらりとこちらへ視線を向けると、すぐに手元に目を戻し料理を続けた。僕はかける言葉が見つからず、そのまま彼女の後ろを通り過ぎてリビングのソファに腰を下ろした。気がつくと、テーブルの上のコントローラーを並べ直したり、所在なげに立ち上がって窓のカーテンを閉めたり開けたり…。完全に調子を狂わされていた。「お風呂、先に入るんだっけ?」。普通にキッチンから投げかけられた言葉にドキッとし、振り返るもすぐに気を取り直して小さく「うん」とだけ答えた。彼女は数えるほどしか部屋に来ていなかったが、風呂から上るといつも着ているスウェットの上下を洗面台の空きスペースに揃えてくれていた。リビングのテーブルには和食中心の料理が並んでいた。バスタオルで頭を拭きながら、利き手でもない左手一つでよくもまあ段取りよく調理できるものと、あらためて感心していると「ビールはどうする? 月曜日だけど」と彼女。冷蔵庫の扉に手をかけてこちらを向いた。僕はいつもの声のトーンに戻って「じゃあ」とだけ答えた。

 彼女は、食事の後片付けをしてすぐに帰るつもりでいるようだった。エプロンをきれいに畳んでバッグへしまった後、もうここですることはないといったふうに前を向いていた。お手伝いさんや家事代行の業者でもあるまいに。「帰るの? 泊っていかないの」。僕は彼女の素振りを見て自然にそう言った。彼女は黙ったまま下を向いていた。僕はお構いなしに「お泊りセット、持って来てないか…」と軽く振った。それでも彼女はうつむいたまま黙っていた。こうした気まずい膠着状態をうまく解きほぐす術を持ち合わせていなかったし、かける言葉もなかなか見つからなかった。不自然な間(ま)が続いたあと、やっとのことで「とりあえず、こっちに来れば」。締まりのない言い振りに自分でも嫌気が差した。彼女は所在なげにキッチンとリビングのさかい辺りに佇んでいた。さすがにこの雰囲気で彼女を帰すわけにはいかなかった。僕は彼女のそばへ行き、肩を抱き寄せた。

 そう頻繁には覚えない微妙な違和感、遠いのか近いのか距離感のつかめないアンバランスな情況。薄いベールが全体を覆い、不安感を増幅させていく。相手へと深く沈静し、一体化していくにつれて感じ見えてくるもの、その過酷な現実。まだ気づいていない内心の移ろい、流動、そしてしだいに凝固していく軽薄なリアル。様々な解釈を許さない、一なるもの、無慈悲にも突きつけられる揺るぎない、その真なる…。僕は彼女の中で、彼女は僕の中で、どこへ行くともなくたゆたい、感じていた。彼女は時折、声を上げて背中につめを立てた。僕はそのたびに反応し、華奢な体躯を壊れるほど強く抱きしめた。厳粛なる交感、どこまで感じるか試してでもいるかのように。それは確かなもの、いや信じていいものなのか。真なるものと偽なるもの、たぶらかしかどわかす二項対立。超越の先の風景は? 穏やかなエターナル? それは…。

 かたわの彼女は、僕の“愛人”だった。愛している人という意味ではなく、性愛の対象、言ってしまえば愛玩物の一つとして。不遇の肉体を偏愛し、その造形を含めて変異した機能に興奮すること、欠如・欠落・欠損へのエクスタシー。劣勢と戯れる、優位性のエレクション? 猟奇性やサディズムに範疇化される変質的なキャラクター? 一部壊れた玩具を愛好する偏執的なセクシュアリティ? 僕は奥底で彼女をどう扱っていたのだろう。想念とは言え、ヒューマニティに劣る卑しい眼差し、内心に薄く張り付く粘着質の穢れた流動物、のぞき込むに勇気のいる醜悪な裏面、放って置けば成長して御しがたくなる悪性な腫瘍…。そう言ったものだろうか。内心では彼女を不具者として蔑み、おのれの欲望のために利用しているだけなのではないか。嫌悪と快楽が入り交じった脱力感、跡形もなく消し去り、先へ彷徨う行き止まり感、媒介物を振り払い、曖昧な直接性に依拠する自同律、エゴイスティックな律動の後に漂う寂寞感…。僕は彼女の右半身に舌を這わせた。

 “昨夜はごめんなさい、連絡もせずに突然押しかけて…”。翌日、彼女のメールは饒舌だった。“遅刻しなかった? ちゃんと朝食も作れなくて…”。はっきり言い当てられないもどかしさ、しだいに不安へ転じていく負の連鎖、心身の剥離とともに揺籃する真偽、自己を騙し引き戻す肉体の交わり、幻影でしかない現実へリセット、そしてリフレーン…。全身を覆う不安感から解放されて彼女のテンションは上向き、めずらしくおしゃべりな女子と化していた。こちらもそれほど鬱陶しく感じることなく、彼女の調子に合わせて“そっちこそ、大丈夫だった? お泊りのつもりじゃなかったのに”と返信した。僕の偏向した性癖が、サディスティックな強勢が、彼女の自己確認に、すべてを受け入れている証左に、機能の欠落した肢体を含めて愛の深さを示す哀切も崇高な行為として…。そう思っているのだろうか、もしそうなら僕は救われている、この意識のずれに。


 「これ、歌えます? 入れますよ」。カラオケのコントローラーをこちらへ向け、微笑みかけてきた。僕がうなずくと、彼女はエントリーしてすぐにマイクを握り直し、画面へ向かって歌い出した。いつの間にか食事の後のカラオケが定着していた。彼女が歌い終わると、先ほど僕に合わせて入れてくれたデュエット曲が流れ出した。入れ替わるパートで交互にやや前傾姿勢になったり、ソファーを背にして声のトーンを上げたり…。テーブルを挟んで微妙に顔を寄せ合うように歌った。目の端に入る彼女の横顔がまぶしく、若さゆえの神々しさというか、大仰でなく近くにいるだけで細胞の死滅を止めてくれるような錯覚に陥るほどだった。肌のきめ細かさやバランスのいい顔の造形、ツヤのある髪のふくらみ、あごから首筋にかけての繊細で、それでいて意志の強そうなライン…。といった、こまごましい特長は言うに及ばず、もっと全体的な、俗に言うオーラ、真新しい透明なベールが彼女を包み、際立たせていた。手垢のついた一切のものを拒む、アンタッチャブルな聖(ひじり)。僕は彼女の顔が近づくたびに、内心に疼くものを感じた。

 カラオケはいつも一時間と決めていた。そのあいだに何曲歌えるか、エクササイズ感覚で歌い続けた。彼女の顔に薄っすらと汗が光って見えた。希薄な蒸気に混じって甘い香気が漂い出し、僕を刺激し不安にさせた。今夜はけっこう早い段階から、僕の聴覚には何も響いていなかった。無音の中、目の前の彼女が揺れ動いていた。画面に向ける横顔、グラスに触れる口元、こちらへ向ける人懐っこい笑顔、時折見せる少し不安げな表情…。微妙に時空間がずれていく、ひびが入り剥がれていく。不規則にたゆたう時間と鈍く捩れ歪んでいく空間。身体が床に押し付けられ、動かそうにも制御が効かなくなっていく。目を開けているだけで不安が募り、動悸が激しくななっていく…。遠くから彼女の声が断続的に聞こえて来るだけで、しだいに外界との接点がなくなり、どの空間に身を置いているのか、定かでなかった。

 「気がついてよかった、大丈夫ですか」。例の発作だった。「どうしようかと迷ったんですが…」。僕は彼女とタクシーの中にいた。「救急車を呼ぶほどでもなさそうだし、電車じゃ無理だし」。タクシーは彼女の自宅へ向かっているようだった。「迷惑かけたね、近くの駅で降ろしてもらえれば…」。彼女に力なくそう告げた。「心配だから。とりあえず私の家に」。少し語気を強めて僕の言葉を遮った。「少し休んでから…」。彼女はやさしくこちらへ顔を向けた。「今夜は言うこと聞いてください」。タクシーが止まった。「ちょっと待っててくださいね、わたしが先に降りますから」。彼女はそう言って、車の後ろへ回り込んで右側のドアを開けた。「ゆっくり、そろりと…」。年寄りを気遣うふうに腰の辺りに手を回し、抱き起こそうとした。「もう大丈夫だから。心配かけて…」。彼女の髪が顔にかかり甘い香りが鼻腔に広がった。「ありがとう、本当に大丈夫だから」。僕が身体を引き離そうと動きを止めると、彼女は僕の顔を睨みつけた。「足元、気をつけてね。一歩ずつ…」。彼女は僕を抱きかかえ、階段に足をかけた。

 「こういう時は、エレベーターが必要ですね」。彼女は、二階の端にある部屋のドアを開けてこちらへ振り向き、申し訳なさそうな顔をした。昔で言うコーポというのか、小ぢんまりとしたかわいい感じの外観が彼女らしかった。「狭いところですが、ゆっくりしていってください、いまお茶入れますから」。キッチンでの立ち振る舞いがどこか楽しそうで微笑ましかった。通された部屋には大きなクッションと白い丸テーブル、その上にパソコン、端にローチェストがあるだけだった。「やっぱりテレビも必要ですね、こういうときは…」。今度は声を上げてうれしそうに笑った。僕はくつろいでいた、初めて上がる部屋と思えないぐらいに。急須を使って緑茶を入れてくれた。むかし実家にあったような純和風な茶碗は不釣合いのようで不思議としっくり彼女に合っていた。パソコンに取り込んだ写真を見せてくれた。旅先で撮ったという写真は田園風景や海岸線、神社仏閣、子供の遊んでいる姿などバラエティーに富んでいた。趣味というだけあってどれもアングルに凝った、なかなかのタブロー、精緻な絵画のようで趣があった。

 「あれで撮っているの? 本格的だね」。僕はチェストの上に置かれた一眼レフカメラを指差した。「写真の専門学校にでも行ってたの? どれも構図がすばらしいし、素人目にもいいってわかるよ」。褒められて恥ずかしいのか、彼女は大きく首を振った。「一人で旅行する時って、あまりいい精神状態じゃないし、そのままの心象風景がリアルに出てしまうので…」。そう言って下を向いた。「だから素晴らしいんじゃないの、潜在している内面が出るというか」。追い打ちをかける、こそばゆい言葉だったようで、このあと黙り込んでしまった。これまで感じていた彼女とは違う一面が垣間見られ、内心の距離が縮んだような気がした。「遅くまでお邪魔して。今日は本当にありがとう。助かりました」。僕は彼女の方を向いて頭を下げた。「これって怪我の功名って言うのかしら。えっ、もしかして私、見当違いで失礼なこと言ってる?」。彼女は、言い繕おうとして焦って顔を紅潮させた。「いや、ぜんぜん。それよりそんなことわざ、よく口をついて出てきたね」。僕は思わず笑ってしまった。彼女の率直な気持ちが伝わってきて、悪い気がしないどころか、うれしかった。

 狭い玄関口で押し問答となった。彼女は駅まで送ると言ってきかなかった。「だって心配だもの、途中で気分悪くなったらどうするの」。険しい表情でこれまた有無を言わさぬ感じだった。「送ってくれた後、こんな夜中に一人で帰らすなんて。もしものことがあったら…」。こちらも一歩も引かぬ前傾姿勢で対抗した。「本当なら、最後まで送って行きたいぐらいなんだから。言うこと聞いてよね」。彼女は本気で怒っているふうに口を尖らせた。その顔を見て吹き出しかけた。こっちの負けだった。「もう大丈夫だよ、一人で歩けるよ」。階段を前にして身体を寄せてきた。「じゃあ、腕を組むだけならいいでしょ」。小悪魔を思わすフレーズに身体の力が抜けた。駅への道すがら、どんな話をしようかと構えていたが、予想に反して彼女はずっと黙ったままだった。こうして腕を組んでいるだけで充たされていた、僕も彼女も互いを感じていた。駅の改札口の灯りが見えてきた。気のせいか、どちらともなく足の運びが緩やかになった。

 明るく健康的な彼女と定期的に会うようになった。からだの関係はなかったが周りから見れば付き合っているように見えたかもしれない。会社で顔を合わすことはほとんどなかったが、エレベーターが彼女のいる総務部のフロアに止まると少し緊張した。吹き抜けのエントランスフロアで遠くから彼女を見かけた時は鼓動が早まり、身体がほんのり熱くなるのを感じた。“今日はどこで待ち合わせる?”。彼女からのメールはたいてい絵文字も使わず愛想のないものだった。“じゃあ、いつもの喫茶店で”。こちらは習慣で語尾に笑顔の絵文字。“じゃあ、待っている”。秒速で返ってきた。終業時間すぐに出ようと思えば出られたが、自主的に一時間ほど残業することにした。いまさらながら彼女に忙しいところを見せたいのか、約束の時間まで楽しく時間をつぶしているという彼女を気遣ってか、彼女と会うのにいまだ心の準備が必要なのか…。僕は時計を頻繁に見やり、パソコンをぼんやり眺め、何度かトイレへ行って、ただ、時間をやり過ごしているだけだった。

 「中華料理って、やっぱりおいしいね」。彼女は中華に限らずいつも食欲旺盛、いい喰いっぶりだった。脂肪を排出するというサプリメントの小袋を取り出しテーブルの上に置いて「すぐ飲むの忘れちゃうので」。そう言ったあと、照れ隠しなのか「男のくせに小食なんだから」。こちらを引き合いに自分を正当化しようとする素振りが妙に可愛らしかった。こうなると、べつに劣勢でもないのに「もう歳だからなぁ、油っぽいのとか…」。言い訳がましく、少々自虐的になった。「これって、杏仁豆腐? 口がさっぱりしておいしい。グロス塗ったみたいだったけど、これで唇の油も取れた?」。口を突き出し、声を上げて笑った。“こうして一回り以上も下の子と楽しげに会って…”とわれに返り、軽く嫌悪感を覚えるも、彼女の方が上手というか、うまく合わせてくれていたのだろう。若い感覚を適宜引っ込めながら、ナチュラルな間合いで違和感なく相手をしてくれた。

 カラオケへ行くものと思って歩き出すと、彼女が足を止めた。振り返ると下を向いていた。「いつもワンパターンだものね。今日はラウンジにでも行く?」。これも代わり映えのしない提案だったからか、なかなか答えが返って来なかった。“女の方から言わすの…” 肝心なところで鈍な僕も、さすがにその素振りからそう感じないわけではなかった。でも気づかないふりをしてやり過ごそうとした。ここで一線を越えてしまうと、付き合っている彼女との関係が名実ともに潰えてしまう、常識的にそう思った。見方によれば、というより女子の感覚ではこうして若い子と二人で食事するだけでアウト、浮気であり二股と判定されるだろうが、最後まで行っていないのだから、ぎりぎりセーフと都合よく解釈していた。もちろん、遊び人を気取るつもりは露ほどもなかったし、成り行きとは言えこうなってしまったことに良心の呵責を感じないわけはなく、自分を蔑む気持ちは当然あった。ここまで来てしまったことに自責の念を感じていた。

 外灯の仄かな明かりが、下を向いたまま動かない彼女を浮かび上がらせていた。先へ歩き出した僕との距離は二㍍ほどになっていた。彼女のそばへ戻る以外に選択肢はなかったが、かける言葉が見つからず、なかなか足が向かわない。逡巡している場合じゃないと分かっていたが、気が焦るばかりでどう言い繕っても何をしても空回りしそうで怖かった。意識ばかりが先へ行き、身体が付いて来ない、よくある感覚だった。吐き気すら覚えて両膝に手をやる始末。逆にその姿を見て慌てて彼女が駆け寄って来た。この前の発作の再来? 屈み込む僕の右腕に両手をかけて持ち上げようとした。「大丈夫? 立てる?」。いつもの発作ではなく、軽い目まいのようだった。「大丈夫、大丈夫」。彼女の両手を押し返すように身体を起こした。「いまタクシー拾うから。ここにいてね」。彼女は大通りへ向けて駆け出した。

 「ここからだと、私の家の方が近いし。いいでしょ」。彼女の有無を言わさぬ感じに慣れてきたせいか、心地よい無力感というか、少しマゾヒスティックな諦念と言えばよかったか。タクシーの中で黙ったまま、ずっと手を握り合っていた。何かに触れていないと不安だった。手のひらを介して温かいものが僕の中へどんどん入ってきた。それはセクシュアリティなものではなく、心身に広がる穏やかな感じというか、身も心も委ねて心地よく揺らいでいる感覚だった。一体化する前の交感、それは理想的な前戯なのかもしれない。彼女は真っ直ぐ前を向いていた、僕より握る手に力を入れて。歳の差は関係ない、とはこのことだと思った。精神年齢がずっと上の、年下の彼女を本当に頼もしく思った。「先に降りるから、そのままで」。彼女はこの前と同じように小走りで車の後方へ回ってドアを開けた。「今度は本当に大丈夫。一人で歩けるから」。僕はそう制してタクシーから降りた。階段の手すりをつかむと彼女は後ろから支えようと身体を寄せてきた。言葉とは裏腹に拒む理由はなく、その感触に安心感を覚えた。と同時に、男性としての感覚が漲るのを抑えることができなかった。僕は彼女の身体を引き寄せ、強く抱きしめた。

 「ちゃんと眠れました? こんなものしかできないけど」。ハムエッグとロールパンがそれぞれ二人分、小さなテーブルに用意されていた。彼女はブラウスの袖を上げてコーヒーを淹れていた。キッチンに差し込む、真新しい陽光が彼女を特別な存在に変えていた。「さあ、食べましょう。あまり時間ないし」。彼女はペアのマグカップをテーブルに置いて、絨毯の上のクッションに正座し手を合わせた。「いただきます」。僕も同じように手を合わせ、幾何学的な細い線の入ったマグカップへ手を伸ばした。ソファーに座ったままでは食べづらいので、テーブルとのあいだにお尻をストンと落とし、絨毯にあぐらをかく形となった。その姿を見て前の彼女が声を上げて笑った。「むずかしい顔して、おもしろいことするんだから」。目線が同じになり、狭い部屋の中でさらに彼女を身近に感じた。僕はきっとこれまでにない自然な笑顔で彼女を見ていただろう。「早く食べないと、遅刻しちゃう」。いつもは食べ始めの合図のように箸で卵の黄身をつぶすが、何か無作法な感じがして躊躇していると、彼女が事もなげに勢いよく黄身に箸を入れた。僕も心置きなく、黄身をつぶした。


 「ごめん、そろそろ帰ろうかな。今日は…」。もっと上手に理由を付けるべきだったが、うまく言葉が出て来なかった。“今日も、でしょ…”。なんとなく結婚を意識するようになって続けざまの土曜夜の退散、敵前逃亡? 彼女にケンカを売っているようなものだった。ことさら不自然な感じにしてしまい、あたりに嫌な空気感を漂わせてしまっていた。でも、彼女は黙っていた、理由を聞こうとしなかった。最近の僕の態度に、その変わりように、微妙な、いや明らかな違和感を覚えている、きっと。取って付けたような理由であっても、わざとらしくなっても、見え見えでも、彼女のために、しっかり言葉をつなぐべきだった。「ここでいいよ。今日はごめんね」。“何度もごめんって。そんなに謝ること、あるの?”。繰り返さなくても見ればわかるし、言葉少なでもいろんなふうに解釈できるし、心当たりがないとは言えないし…。玄関先で下を向いたまま、黙っている彼女の心の声が聞こえてきそうだった。

 僕は彼女を引き寄せて軽くハグした。めったにしないことをして墓穴を掘っているのはわかっていた。でも、この場面で他に思い浮かぶリアクションはなかった。抱き締めるのではなく、あいさつ代わりの軽いタッチ…。彼女のぶらりとした右腕をホールドする左腕に、しぜんと意識がいった。力を入れすぎると、抜け落ちそうで、ちぎれてしまいそうで、元に戻せなくなりそうで…。僕は、彼女の傷ついた心を癒し慰めるようにやさしく包み込んだ。彼女を愛おしく思う気持ちに変わりはなかった。たんに時空間を共有しているだけで普通に関係は深まっていくものだし、内面の結びつきが強まればしだいにかけがえのない存在になっていく。僕と彼女も、どの辺りかは別にして、真っ当な愛のプロセスに、その厳粛なレールの上に乗っていたし、そこから外れてしまうなんて考えも及ばなかった。ただ、二人にとってゴールがどういうものなのか、それがほんとうにあるのかどうか、そもそも同じ方向をむいているのか、分からなかったし、自信がなかった。きっと、これまで大勢の彼・彼女が通って来た道を、少しバリエーションを変えて辿っているにすぎないのに、そう意識するとなおさらどこか、内心に引っかかるものを、ズレが生じて来ているのを、感じずにはいられなかった。

 抱き合ったまま、時間だけが過ぎていく。ここで離れてしまえばもう元へ戻れない、取り返しのつかないことになってしまう、そんな強迫観念が働いていたのだろうか。同じように彼女もそう感じ、恐れていたのかもしれない。ただ、相手への思いに微妙なズレが、ベクトルの向きが違うことに気づいていたのは僕だけだろうか。彼女はこの情況に対し、しごく真っ当な思いを抱いて僕に身を委ねていたし、実際そう伝わってきた。すべては僕の方に瑕疵があり、彼女に不自然なところは微塵もなかった、そう、悪いのは僕の方だった。僕はだいぶ前から腕の力を緩めていた、こわれものに被さるように、そう距離を置いてすっぽりと。でも、彼女はそれに反応しなかった、強く身体を圧し付けたまま、離れようとしなかった、自ら壊れようとするかのように。

 「メールが入ったみたい」。それをいいことに、このタイミングで玄関から出て、そのまま駅へ向かうこともできた。彼女から身を離し、別れも告げずに出て行けばよかったのか。でも僕は、キッチンを通ってリビングへ戻った。どういう意識が働いたのか、ただそのまま帰ってはいけないと思った。「コーヒー、もらおうかな」。スマホから顔を上げるとキッチンにいる彼女の後ろ姿が目に入った。どんな表情をしていたのか、見ずに済んでホッとした。ソファーに座りながら、あらためて部屋を見まわした。彼女の性格そのままに、取り立てて愛らしいものや全体のバランスを崩すような目立つものはなかった。すっきり整然とした雰囲気が心地よかった一方で、何かもの足りない感じがした。これまでも内心のどこかで、そう感じていたのかもしれなかったが、はっきりと違和感を覚えるのは初めてだった。スマホに目を戻していた僕の右側から、すっとコーヒーが差し出された。いつものマグカップではなく、地味な花模様が入った来客用のカップ&ソーサーだった。

 「こっちに座ったら…」。彼女は、微妙な雰囲気になった時に位置取る、キッチンとリビングの境目にいた。一瞬ピクリとした後、重い身体を引きずるように暗い表情でソファーの端に腰を下ろした。彼を引き止めたことで、反って時間を置かずに向き合う羽目となり、別れを早めてしまうのではないか、そう後悔しているように見えた。彼女の心の内を漏らさず、正確にすくい取るのは無理でも、感情の起伏、特に谷の部分の落ち込みを感じ取るのは難しくなかった。逆らいもがいても、いくら努力しても、どんな言葉をかけても、いずれ別れ話を持ち出される―。彼女はそう思って構えていたに違いない。別れる理由は一つしかない、敢えて聞くまでもない、と。恐れていたことがとうとうやって来た、それだけ…。付き合い始めた時から、いつ告げられてもおかしくなかったし、覚悟は出来ていた。そのときは言われるままに身を引けばいい、お互い傷つけ合わず、後腐れなしに…。僕はスマホから目を離し、彼女の横顔を見た。蛍光灯の白い明かりが彼女を無機質なものに変えていた。表情のない彼女を見るのは辛かった。

 「コーヒーもう一杯、もらおうかな」。ほぼ間違いなく彼女が思っているだろうことを今夜、口にするつもりはなかったし、たぶん彼女が想定していた悲観的な事態より、僕はずっと手前にいたように思う。ここ数週間、彼女の思いとは裏腹に、その心の動きを想像し丁寧にたどろうとしなかっただけでなく、うつつを抜かして意識的に忘れようとさえしていた。でも、この場面ではそうした意識のズレ、不整合が逆に正面から彼女と向き合うのを避けさせ、ぎりぎりのところで僕をこの狭い空間に押し止めていた。だからと言って、おのれの心の向きを強引に変えさせる、そんな力業が残っているかと言えば…。どちらに転ぶか、どういう結末になるか、ちょっとした偶然やさじ加減で、今後の展開が大きく左右されそうだった。彼女と同じように身体が硬くなるのを感じていた。

 「コーヒー、飲まないの?」。一人だけ喫していた不自然さに気づいてそう言うと、彼女は少し緊張を解かれたように「うん」とだけ言って、キッチンへ引き返した。「あれ、これどこを押せばいいの?」。僕はテーブルにあったテレビのコントローラーを持って彼女に聞いた。彼女はドリップパックへお湯を注ぐ手を止めてこちらを向いた。「一番左上の赤いボタン」。でも、何度押しても反応しなかった。「えっ、点かない?」。いつもの表情に戻りつつあった彼女が眉間にしわを寄せて近づいて来た。「ごめん、主電源入れてなかった」。少し口を尖らせて不満げな表情を見せる僕に、彼女は微妙な笑みを浮かべて前を通り過ぎ、無造作にソファーに置いていたジャケットをいつものところへかけ直した。

 僕と彼女はテレビの前でしばらくのあいだ無言だった。でも、ついさっきの居たたまれなかった感じは消えていた。「バラエティー見るんだ、知らなかった」。点けたら偶然やっていただけで、好んで見たことはなかったが、話の腰を折るのもどうかと思い「深夜にときどき」と答えた。「ドラマも観るけど、私もけっこうお笑いが好きで…」。若手のお笑い芸人を何組か挙げて「自虐ネタは好きじゃないけど、一人ツッコミなんてできればなあって…」。彼女が真面目くさった顔で一人ツッコミしている場面を想像し、思わず吹き出しそうになった。「おかしい?」。僕は、どんなことがあっても人前でやらないよう進言した。けっこう本気なところがあるので、一応言い含めておいた。

 その日はけっきょく、彼女の部屋に泊った。セミダブルのベッドで二人並んで、肌と肌が触れ合うこともなく、それぞれ眠れない夜をいろんな思いを抱きながら…。多くのペアがそうであるように、努力してもなかなか重ね合わせられないズレ、一致を拒む隔たりはあるもので、それをなんとか埋めようと、あれやこれやと動く、そのプロセスに意味があり、醍醐味であるのだろう。ぴったり合わせるのでなく、その隔たりを、寂しくもその距離を、ある意味楽しむくらいでないと長続きしない、そこを乗り越えないと、愛は成就しない、きっとそうなのだろう。でも、この先どうなるのか、どうすればいいのか。暗闇のなか、僕は何度も寝返りを打ち、彼女はずっと壁の方を向いたきりだった。

 時の流れが変化を運んでくる、そんなことがあるかもしれないし、突然雷に打たれて意識がリセットするかもしれない、そのあと思考が逆回転して違う答えを引き出してくれる可能性だってまったくないとは言えない。でも、こうして添い寝しているだけで奇跡を呼び込めるわけでなく、その僅かな可能性に賭けるほどイデアリストでもなかった。僕にとっての彼女とか、僕から見た彼女とか、僕に対する彼女とか…。そうした見方、対し方しか出来ない限界を感じていた。それぞれがかけがえのない尊い人格を持つとはいえ、関係性を取り結ぶには相手を対象化、相対化、それこそ物化せざるを得ない。どんなものごとも、その関係性も、そう前提しないかぎり、始まらないし、成就しない。そう、けっきょくはリアルを前にして…。

 こうした現象面、さまざまな表象をスムーズに内側へ、内心へとつなぎ、心身の合一へ向けて全体を動かしていく。そうした理想的な道筋、そうかんたんに実現しそうにないプロセスに期待しようにも、そこに可能性を見い出そうにも、天から啓示でも降りて来ないかぎり、どうにもなるものではないと思っていた。それに引きかえ、彼女はどうだろう。二人の関係性においてずっと深く、それでいて極めてシンプルなもの、こちらと質的に次元の異なる属性、いわゆる至上の愛? そういうものを内側に持っているからだろうか。彼女から発した思いは僕を経由して、また彼女へ戻っていく、それは僕のように一方向でなく、しっかり自分自身へ還ってくる、円環を描いて。彼女にとって確かな、信ずるに足る思いということなのか。

 ものや対象の次元に漂い、もがく僕と違って、彼女は遥か遠く、物象を超えた、太刀打ちできそうにない、純化されたレベルにいたように思う。カタチあるものの意味、それを失うことの悲哀、無形への嫌悪、そして達観と恍惚、リアルへの怜悧な眼差し、それに矜持…。彼女が失ったものと得たもの、在るはずと思っていたものと無くなって初めて気づき分かるもの、世情の些細なものと確固とした内心の真実、失った右手・右腕ともう一人の新たな自分…。彼女は実際どう思っていたのだろう。僕のように常にものごとを、形而上と形而下に分けて、こねくり回し複雑にしてしまうのではなく、ただシンプルに感じたこと、思ったことをストレートに考えに反映させる、その強み。行き着く先、収斂する先はさほど変わらないのだろうけど、プロセスの違い、それに伴うコンテンツ、内容の差は歴然だった。カーテンのすき間から差し込む線状の明かりが、彼女の痩せた背中を浮かび上らせていた。

 「おはよう、起こしちゃった?」。もう昼前だった。身体にのしかかるような、いつも覚える倦怠感がなく、頭の中も比較的すっきりとして澱んだ感じがなかった。彼女はいつの間にか洗濯を済ませ、ブランチの用意してくれていた。「シャワー浴びる? 先に食べる?」。起きがけの二者択一も難問に思わず、返事と同時に身体が動いていた。浴室から出ると、新しい下着と昨日着ていた服がきれいに畳まれていた。「すぐに食べる? ビールどうする?」。休みとはいえ昼からアルコールを飲む習慣はないのに、なぜ今日に限って聞くのか、と思ったが、同じく今日に限って、それ以上考えないよう努めた。

 彼女は、マグカップを引っ込めて缶ビールをトレーにのせてリビングへ持ってきた。いつものようにタブを引いてグラスに注ぐだけの状態にし、キッチンへ戻って行った。何の苦もなく当たり前のように、左手一つで缶ビールを開ける手際は見事だった。「これ、先につまんでて」。ゴマ油の香りを効かせたキュウリの酢漬けをテーブルに置いて、またキッチンへ。左手だけで支えているためトレーに載せる品目に限界があり、何度もリビングを往復しなければならなかった。

 「朝からよく作ったね、休みとはいえ…」。旅館の朝食と見まがうほどの品数の多さに感心した。“よくも左手一つで…” このフレーズを使わなくなって久しかったが、褒め言葉としてつい口を突いて出そうだった。「どこかへ出かける? ゆっくり家にいる?」。どちらに傾いているか、だいたい想像はついたが念のために聞いた。彼女はあえて、身体を使うスポーツやレクリエーションをやろうとした、右手・右腕が利かないのをお構いなしに。

 失敗するかもしれない、格好悪いところを見せるかもしれない、嫌われるかもしれない、けど…。そんなこと十分承知の上で僕を誘う、そういうところが好きになった点でもあった。「それじゃ、この前言ってたアミューズメントパーク、行く?」。午後三時以降なら安くなるし、夜のパレードも余裕をもって見られそうだし…。意外にも、そのアミューズメントパークに好きなキャラクターがいるらしく、思った以上の反応にこちらが引くほどだった。「でも、いまビール飲んでいるから電車になるけど」。“ノープロブレム”と言わんばかりに、小さな顔の前で左手を大きく振った。

 いそいそと出かける準備をする彼女を目で追っていた。何も変わっていなかった、出会ったころから、少なくとも彼女は…。右腕がだらりと下がっている彼女が僕にとっての彼女だったし、それは初めから、そして今も当然変わらない。彼女は、片腕をもがれた人形ではなかったし、そうだから捨てられる定めにあるわけでも、必要以上に庇護されるべきでもなかった。身体の一部が欠如している、機能が一部不全だからといって、とうぜん人格まで否定される謂われはないし、障害者への根強い偏見があるとはいえ、それゆえの優しい眼差しが全くの偽善だとも思えなかった。そもそも健常者との対比自体、その比較優位性を前提している限り、考え方として稚拙で劣性だし、それこそ新しいものを生み出す行為、無尽の創造力を阻害しているように思えた。

 ただ、そうした理屈や一般論に、どこかついて行けない部分があるのも確かで、奥底にコントロールできない、どろっとした違和感というか、彼女に対するネガティブな何かが棲みついているのも否定できなかった。その嫌悪すべき生理的な部分が、いつどんなかたちで顕在化してくるか、想定しようがなかったし、立ち現れた時にどう対処すべきか、想像もつかず、怖かった。「お待たせさま」。気がつくとソファーの横に支度を済ませた彼女がいた。僕は、勝手に背負っていたものを、はねのけるように勢いよく立ち上がった。

 別れる理由を探すのに大して労力はかからないし、思ったほど辛い作業とも思えなかった。彼女の方に分かりやすい理由があればなおのことだった。ひとこと、その意思を伝えさえすれば、それ以上説明はいらないだろうし、ドライに体裁よく別れられるような気がした。思い止まるために、慈善活動のごとく情けや哀れみをかけるのは論外だったし、それは二人の関係性においてルール違反に思えたし、たぶん彼女の戸惑いを増幅させるだけだろう。一時的に少しの慰めになるかもしれないが、それで彼女が救われることはないだろうし、こちらが意に反してとどまる方がけっきょく、二人のためにならない、そんなふうにも思っていた。

 ただ、僕にとっての正論がたんなる言い草であり、言い訳に過ぎないことも頭のどこかで分かっていた。だからこそ、思考のベクトルをほかへ向けて跳躍させたり、躊躇させたりしないよう、もうこれ以上、弄ばないように努めた。本当のところ、彼女がどう思っているのか。あのあと、不意に「一緒に住みたい」と言った彼女の真意がどの辺りにあったのか。普通に考えれば何気ないつぶやきであるはずはなく、けっこうな決意のもと結婚を意識して発せられたと捉えるべきだろう。そこで相手が怯むか、苦悩の表情を見せるか、その場から逃げ出すか、大きくも広くもない僕の器量を見定めようとしていたに違いない。行きつ戻りつの、この数カ月間、ついに答えを出す時期に来ていたのかもしれない。

 お互いそれぞれ可能性の中心にいるかどうか、そこに愛があるか、それは真実のものか。そうシンプルに問われていた。答えをどこに求めればいいのか。内心の、さらに奥底に漂う流動物に? 頼りなくも信頼すべく、カタチを成さない錯綜物に? これから到来するだろう、少しの可能性を秘めた混沌物に? そこは少々胡散臭く、濁った油膜が薄く肌に張りつく、居たたまれないところかもしれないし、それは不規則に運動する、自律神経に障る御し難いものかもしれない。世間や社会から働きかけを受けない、強制や歪曲が通じない解放区。二人の関係性を中心に、いや、それのみで巡り動いている唯一無二の時空間なのだろうか。限りなく続く水平線と、それを阻もうとする深甚な垂直線。広く果てなく、深く不分明に交叉する接合点。連続が断たれるとともに不連続が解かれる、弛緩した重層的な焦点、非連続の連続…。

 僕と彼女は駅へ向かっていた。並んで歩く時は彼女の左側にいることが多かったが、意図してか偶然なのか、今日は右側にいた。僕はだらりと弛緩した彼女の手を軽く触った。彼女は一瞬、怯えたような表情を見せ、身体を硬くした。感じたのか、見止めたのか。触れられたくないもの、そっとしておいてほしいもの、ずっと避けて通ってきたもの、自分でも忘れようとしていたもの…。僕は無神経にもずかずかと、禁忌な領域へ入り込み、彼女の手を握りしめた。今度は驚いたような顔をして、身体を引き離そうとした。

 彼女がどの程度感じていたか、僅かでも感覚があるのか、たんに視認による反応なのか。そんなことはどうでもよかった。僕はただ、彼女の右手を握り続けた。それは意味のないことだったのか。彼女にとってリアルなのかフェイクなのか。それは幻影、けっきょくバーチャルに過ぎないのか。明確な物象、現象かどうかさえ疑わしいもの、そこに象徴される負のイメージを反転させる術はないのか。彼女の苦しみの中心、彼女の右手を感じていた。

 「わたし、もう大丈夫だから」。彼女は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。僕は彼女の顔をのぞき込んだ。彼女は真っ直ぐ正面を向いたままだった。歩くペースは変わらなかった。僕はあえてその意味を解釈しようとは思わなかった。そのままにしておこうと思った。「何時ごろ、着くのかなぁ」。僕も独り言のようにつぶやいた。彼女は優しい笑顔をこちらへ向けた。僕たちは駅の改札口を抜けた。

 プラットホームに立つと、目の前に空高く、いわし雲が広がっていた。夜空にそれとわかる、薄く曇らすまだら模様。美醜、善悪どちらとも言えない両義的な情景、内心を照らす無彩色な光の交叉、深い青のタブローを乱す白い汚れ…。僕はずっと彼女の手を握っていた。右なのか左なのか、もはや分からなかったし、どうでもよかった。電車がホームへ入ってきた。僕と彼女は手をつないだまま扉の開くのを待った。三、四人の乗客が降りてきた。僕は彼女の手を握り直し、乗り込もうとした。彼女は僕の手を握り返してきた。弱い微かな感触だったが、それは確かなものだった。僕は彼女の右側にいた。

              ◆

 僕は、膝の上のカバンをそのままに座席から離れようとした。急行電車が最寄り駅に差しかかり、スピードを落としていく。つんのめるほどの揺れにもかかわらず、何だか心地よくて転ばぬ程度に身をあずけた。停車し扉が開くと、身体を持って行かれるようにプラットホームへ押し出された。同じように電車から吐き出された乗客がばらばらと改札口へ向かっていく。一人取り残された僕はしばらくのあいだ、その場に立ち尽くしていた。あとに続けばよかったが、駅舎からとは言え、外へ排出される感じがそのときの気分にそぐわなかった。薄暗がりのなか、カバンの隅の白い汚れが浮かび上って見えた。手で拭ってもきっと少し薄まる程度で、シミのように広がるだけだろう、きっと。

 ホームの端にベンチがあった。次の電車が来るまで静寂が保たれそうで、ほんの少し気分が和んだ。無慈悲にも反対側のホームへ電車がすべり込んで来たらそれはそれ、仕方のないこと、いつものように形而下の不可避事と片付けて諦めるほかなかった。意識の断片が、プラネットに降り注ぐ星屑ように頭の中に散らばり、収拾がつかない状態だった。不規則に点滅してこちらの気を誘うものもあれば、何度も上塗りした漆黒の闇へ手招きする不気味なものもあった。足がすくむように僕の中枢は怯んでいた。心身をどの方向へ持って行けばいいのか、迷妄に陥るごとく為す術がなかった。そう広くない丸みを帯びた仄かな明かりがベンチを照らしていた。僕はその中でカタチにならない影をつくるだけだった。存在を隠し、消し去ろうとする勢力に対峙する力はもう残っていなかった。

 ホワイトダート、白の領域へ意識が入っていく。コンクリートの壁に擦って付いたような白い汚れ。僕はカバンの隅に付け加わった汚れを、どういうわけか何かの欠如、欠落のように感じていた。それは過剰なもの、余計なもの、目触りなもの、もっと言えば忌み嫌うべきものとして、目の前に現れたはずだった。何かを仄めかし、示唆し、徴(しるし)になるほどのものではなかったが、すっと意識へ入り込んでくる不気味な表象だった。無造作に前触れもなく、付け加わってくるシミのような白い汚れ。そこに意味や意義を見出すのは無理でも何らかのニュアンスを感じ取ること、それこそカタチを成さない流動物と戯れること、無意味な迸りに心身を委ねて醸成を待つこと、隆起と陥没を繰り返し成形に向けて右往左往すること、そして欠如を含む新しいカタチの可能性を追い求めること…。僕は白い汚れを指でなぞった。

浄化の過程にあったのかもしれない。白の領域が僕を優しく包む。見ていたのは欠如、欠落でなく豊饒なる愛のカタチだった。白の汚点ではなく、不意に鮮やかに浮かび上がってくる、不規則だが厚みのある有機的な正の紋様。流動の中でカタチを生み出そうと懸命に蠢くエネルゲイア。僕は、若い細胞で構成された清廉な未知なものに寄り添い、笑みをたたえていた。初めて可能性らしきもの、求めていた新しい何かに触れたような気がした。奥底で時熟し、待ち構えていたモノどもコトどもが一斉に解き放たれた。間欠泉のように湧き上り、躍り出るデュナミス。それは、堅牢な表象、かたちあるもの、正のニュアンスに逆らって立ち上っていく。無際限に散らかって純度を高めていく。ホワイトダート、白の可能性。僕はそれにつかまり上昇していった、エンテレケイアを求めて。

 艶やかな白の表象、か細い流麗な彫像、滑らかに広がる透明な触感、潜在する鮮血と肉塊、無骨に組み合わさった分枝、形骸に挑む無形の相克、有意味に逆らう非意味の矜持…。失われた彼女の右手・右腕をこの腕に抱いていた。それはかけがえのないもの、不可能性の象徴ではなく可能性の中心だった。僕はこれまで、奥底の空洞を埋め合わせようと腐心し、表象に目を奪われていた。何も付け加えるものがない、エネルギーに満ちた横溢への憧れ。おのれを維持し癒すには過剰で充たす必要があると思っていた。カタチあるものの欺瞞、虚像でしかないものの澄ました立ち振る舞いに翻ろうされてきた。そこへ吸い込まれ、どっぷりと浸かる心身に嫌悪感を持つも、どうしても抗し切れなかった。

 一人では脱し得なかった、快適で柔弱、悪辣な蜜の園。そこから抜け出せる術を求めて彷徨い続けてきた。彼女との関係性が、見えないものを浮かび上がらせ、信ずるに足る、透き通った地平を目の前に広げ、僕を誘った。あとはそこへ足を踏み入れ、一歩ずつ進めばよかった。ずっと気づかなかった、欠如の形象。不安に打ち震える内心を励まし、奮い立たせる愛のカタチ。有るもの、存在するものにはけっして手の届かない至福を惜しげもなく分け与え、虚偽や悪弊、擬勢から救い出してくれた。あの世、彼岸にしかないもの、浄土から涅槃の境地、解脱と自由の享受、そして至上の愛…。それはもう、幻想ではない。異次元の中でしか成就しないモノどもコトどもをつかみ、ぐっと心身へ引きつける、この確かな感触。ホワイトダート、欠如のカタチ。

 急行電車がホームへ入って来た。静かに停止し扉が開いた。降りてきた乗客が一定方向へ進んで行く。僕はベンチから立ち上がり、彼らの後を追った。最後尾につこうと足を速めたが、なかなか合流できない。一人また一人と改札を抜け、目の前から消えていく。僕は一人、またホームに取り残された。もうホーム端のベンチへ引き返す選択肢はなかったし、外へ排出される違和感も消えていた。明るく照らされた改札口の先に暗闇が広がっていた。僕は先へ進むほかなかった。「どうしたの? めずらしいね…」。彼女からの電話だった。僕は改札口を通り過ぎていた。彼女の声に導かれ、暗闇の中を進んでいった。ホワイトダート、白い矢が放たれた。(了)

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欠如のカタチ オカザキコージ @sein1003

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