長い雨

朝河 修治

第1話

夏の雨脚は次第に強くなり、五十嵐はウインカーを切った。


煙草でも吸おうかと思ったが、少し長い深呼吸を続けて、マンションの二階の、クライアント、悠一の部屋を運転席から眺めていた。


今日はどうしようか。社会福祉士の彼は、この五年間彼に掛け合っている。

特別な感情を抱えるのはよそうと思った。


 自分のクライアント、に対しては、決して特別ではなく、一人の人間として耳を傾けることから始める。

 

 立ち上がることについては、本人の作業であり、こちらは手を貸すだけ、という彼なりの信念があった。

 

 悠一は高校を中退して以降、殆ど社会から接点を断って、小説を読んだり、窓の外からぼんやり世界を眺める生活を続けている。


五十嵐は、クライアントを弱いとか、そういう思いに至ったことはなかった。


 いい具合に足を外に向けてくれればいいのだけど、車のドアを開け、マンションの二階へ向かった。


 少し五十嵐のレインコートが濡れて、インターホンの乾いた音が鳴った。

今日も出ないだろうか。でればいいのだが、二回鳴らしてしばらく、考えていたが、


 事前に用意した五十嵐の手紙を郵便受けに挟んで入れようと思った。


 何も言葉の無い付き合いもないだろうと思ったので立花さん、と悠一の名前を呼んだ。立花さんと、インターホンの音よりはっきり、大きな声で呼んだ。


 声に出したら、郵便受けに、予め書いた手紙を記して、投函した。

すると内側から、鍵を開ける音が聴こえた。


 悠一だ。確かに自分の呼ぶ声に彼は反応した。名前を呼んだ甲斐があった。ドアは開いた


「お久しぶりです。」五十嵐は微笑んでいた。

臆病な、繊細でやせ細った、悠一の顔が見えてくる。少し痩せた狐のようかもしれないと思った。


「部屋少し片づけようか。」ゴミが散乱していたので少しでもお世話焼きであるがかたずけてやろうと、その機会に悠一の部屋の変化を捉えようとした。

 

五十嵐は、はっとした。以前は太宰治や有島武郎や、ジョルジルオーの画集があったがあったが、今回はあからさまに違うのは、水彩画が部屋の奥にあることである。筆と絵具。前向きな異変と言ってよかった。


「絵を描いているんだね。」その時初めて、悠一は、五十嵐の言葉に関心を寄せた。

関心を寄せたというのは、今まで他人の言葉に関心を寄せるという、心を開くことが悠一にとって大きな変化のように、五十嵐は手ごたえを感じた。



「よかった、絵を描いているんだね。絵の具買ったんだね。一歩外に出れて、安心したよ。約束だよ。今度また絵を描いて見せてね。絵描きになってね。」

五十嵐は最大限励ましたつもりでいた。



 悠一はその時、すこし顔を曇らせて、なにか言おうとしたのである。その声をはっきりと訊こうとしなかったことに、あとで五十嵐は後悔した。




 あれから2年近く経つ。五十嵐は現在、自閉症児の健太と関わっている。

健太のほうが楽だと一番良くないことを考えてしまうことに、少し自己嫌悪を抱いてしまうことがある。


結局あの雨の日の数日後、悠一は失踪してしまった。


母親の泣き続ける姿に何と答えていいのか五十嵐は分らなかった。


水彩絵の具は、悠一の母親が買って来たのであった。

最後に、五十嵐は、悠一の自尊心を傷つける、余計な一言を言ってしまった、、、。


優しさは、時折、人を駄目にしてしまうと、つくづく思うのであった。


五十嵐の手元に残ったのは、あの日の服を着た、五十嵐の顔の絵であった。

一生懸命、悠一の書いた痕跡がある。


その横の方に、イガラシさんありがとうございました、と律儀に悠一の字が書いてあった。五十嵐は後日母親から貰い受けて、ずっと棚の引き出しの奥にしまっている。


もう一生見ないかもしれない。

それでもいちいち、悔やまないと、煙草に火をつけるのであった。


雨の日なるとあの日の事が頭によぎるので忘れようとする。あの日は吸わなかったのに。


いちいち後悔して返ってくる来るものがあるのであれば、一生懸命後ろを向いて生きろと、自分に対してはせめて、厳しく言い聞かせるのであった。



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長い雨 朝河 修治 @takecha

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