アパートの鉄階段

 心理的瑕疵という言葉がある。

 これは、過去にその場所で殺人や自殺などがあり、その場所に住もうとする者にとって嫌悪感を抱かせる可能性がある状態のことである。

 つまるところ、事故物件ということだ。

 私はこれまでに数多くのアパートに住んできたが、幸いにも心理的瑕疵に該当する物件には住んだことがない。

 しかし、心理的瑕疵があるかどうかは、誰かが一度でもその部屋に住み、問題なく退去できていれば告知義務はなくなるそうで、もしかすると私もただ告知されていなかっただけなのかもしれないが。

 もう10年以上も前になるが、旭川市のとあるアパートに住んでいた時の話。

 そのアパートは二階建てで計8世帯分の部屋があった。

 私はそのアパートの102号室に住んでいたのだが、その部屋というのがちょうど二階へ上がっていく鉄階段を目の前にした部屋であり、お世辞にも正面の窓から見える景色が心地いいものとは言えなかった。

 一階で、階段があるため人通りもある。

 そんな部屋だったため、一年中レースカーテンは閉じたままだったし、土日になれば遮光のカーテンすら開けないということもあった。

 ただ、家の中には特別変わったことはなく、そのアパートに住んでいて何か恐ろしい目に遭っただとか、変なものを見た、ということはなかった。

 少なくとも、部屋の中では。

 アパートの二階へ上がるための階段は2箇所あるが、今思えば私の部屋の目の前の階段を使う人は少なかったように思う。

 やはり他人の部屋の前だからと遠慮するからなのか、その階段を上がっていく人を部屋の中から注意して見るということはしたことがなかった気がする。

 その日は土曜日で昼近くまで寝ていた。

 特に外に出る予定もなく、家にいてずっとテレビゲームをしていた。

 昼を過ぎると西陽でテレビの画面が見えづらくなるので遮光のカーテンは閉じたままだった。

 何時間、テレビの画面に齧り付いていたのか分からないが、カーテンの端から差し込む光がいつの間にか見えなくなっているのに気がつき、仕方なく夕飯の準備をし始めた。

 台所にいると窓の様子は見えないが、鉄階段を上がっていくがんがんがんという音は部屋のどこにいても聞こえるほどである。

 この日は珍しく何度か私の部屋の前の階段を行き来する音が聞こえていた。

 恐らくは、荷物の多くなるような買い物をして部屋に近い階段を使いでもしたのだろうと思った。

 一人暮らしらしく簡単な料理を一品だけ作って、寂しさを紛らわすために大して興味もないニュースを見ながら食べていた。

 その時、また私の部屋の前の鉄階段をがんがんがんと誰かが上っていく音が聞こえた。

 普段なら気にも留めない足音に、その日は違和感を覚えた。

 アパートの外にある階段であるため、14段以上はあるはずなのだが、聞こえた足音はせいぜい7、8段分くらいだった。

 一段飛ばしで駆け上がればその程度の段数で済むかもしれないが、聞こえた足音は駆け上がるような激しいものではなく、ただ淡々としたものだった。

 遮光のカーテンを閉めているため、外の様子を窺い知ることはできないが、階段の7、8段目の中途半端な位置に立つ人影は容易に想像できた。

 何をしているんだろう、と、ただそう思った。

 階段の途中で上の階の人と話でもしているのだろうか。

 もしそうだとしたら、上の階の人からしてみれば、階段から顔だけを出しているような状態になるだろうななどと考えると、何だか可笑しく思えた。

 しかし、階段を上がる足音が聞こえてから10分ほど経っても、上がりも下りもする様子がない。

 かといって何か話し声が聞こえてくるわけでもない。

 自分の部屋の前にある階段に知らない人が居座っていると思うと、段々と気味が悪くなってきた。

 カーテンを開けて階段を確認をするのもなんだか恐ろしい気がしたが、何も分からないままでいるのも釈然としない。

 仕方ないが、ほんの少しの好奇心もありカーテンの隙間から階段の様子を覗き見てみることにした。

 果たしてそこには誰も立ってはいなかった。

 誰もいなければいいのに、と思っていたはずだったが、言いようのない寒気がした。

 私はしばらくの間、階段を睨みつけていたが、誰の姿を見ることもなく、階段は玄関の常夜灯に照らされているだけだった。

 足音が聞こえなかっただけでその誰かは階段を上がりきっていたか、途中で折り返して何処かに行ったのだろうと思うようにした。

 結局、3年間そのアパートに住んでいて再び中途半端な足音を聞くことも、その正体を知ることもなかった。

 ましてや、怪異に遭遇するなどということも。

 そういえば、私の部屋の真上の部屋はどたどたと大変足音を響かせる人が住んでいたようだが、その姿を見たことは一度もなかった。

 上の階の住人が階段を中途半端に上るあの誰かと関係があるかは今となってはもう分からない。

 もしかすると心理的瑕疵があったのは上の階だったのだろうかとも想像したこともある。

 そして、例え自分の住む部屋に心理的瑕疵がなくとも、隣接する部屋に心理的瑕疵があれば、壁や床、天井で区切られていたとしても、それらと関係なくして染み出してくることもあるのだろう、とも。

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