砂漠の鷹は望郷の涙を流すか
歌川ピロシキ
高原の鷹
シェミッシュの高原を渡る風は若葉のにおいをはらんで柔らかに僕の身を包んでくれた。どこかで花が咲いているのだろう。雨上がりのぬるい空気の中、かすかに甘い香りが漂っている。
抜けるように澄んだ空には雲一つなく、大きく翼を広げた影だけがくるりくるりと輪を描く。それが唐突に地上めがけて隕石のように落ちてきた。かすかに響く小動物の断末魔。
だだっ広い赤茶けた草原を見下ろす崖の上、腹這いになった僕の戦闘服にじっとりとした湿気がじわじわとしみ込んできて気持ち悪い。雪解けの高原はいたるところが泥だらけだ。
でも今は身動きするわけにはいかない。僕の獲物はまだ影も形も見えぬのだから。
どのくらい経っただろう。かすかなエンジン音が僕の鼓膜を揺らした。
ついにその時が来たようだ。
「来たぞ」
隣に伏せた
百年前に作られた木製の銃把はしっくりと手に馴染み、心地よい重みが与える緊張感が、波立ちかけた僕の心を鎮めてくれる。
僕の頼りになる相棒。生まれた時からずっと一緒の魂の片割れ。
名狙撃手なんて言われているが、僕がどんな任務も確実にこなすことができるのは、彼がいてくれるからだ。『獲物』を確実に屠れるのは、彼が正確に目標と周囲の状況を伝えてくれるから。無防備な体勢で
常に
……いや、彼なら僕がいなくてもうまくやっていけるかも。
彼はいつだって完璧だ。彼に守られながら、彼に導かれるまま、はるか彼方の敵を狙い撃つしか能のない僕なんかと違って。
しょうもない思いが心をよぎる間にも僕の脳は着実にカウントダウンを続けていて、指は自動的に引き金を引いた。乾いた音が響き渡る。
銃身に取り付けた
「
観測器を覗いた彼が低い声で告げる。寄り添って伏せている僕の耳にようやく届く程度のかすかな声。それは任務完了……すなわち誰かの生命の終わりを意味していた。
今日終わったのは遠い海の向こうからやってきた背広の男。こんな所までのこのこと来なければ、もう少し長く生きられたかもしれないのに。
これが僕たちの日常だ。
いつものように冷えたばかりの薬莢を回収すると、そっとポケットに入れた。絶対に落とさぬようボタンを留めると、頷きあって後退する。
――
そんな教えの通り、ゆっくり時間をかけて這いずって、大きな岩陰に入ったところでようやく身を起こす。護衛たちが今頃になって放ち始めた見当外れの発砲音をよそに、僕たちは互いの肘をすり合わせる、故郷に伝わる合図と共に声を立てずに笑いあった。
振り仰げば抜けるような空は相変わらず雲一つなく、山肌にへばりつくように生えている木々が、青々とした葉を風にそよそよと揺らしている。
ただ硝煙の臭いだけが先ほどの出来事を物語っていた。
緑の芽生えが美しい峡谷を目の隅で見下ろし、僕は自分たちのちぐはぐさに思いを馳せて苦笑する。
僕の持つ銃は百年以上も前に北方の雄と恐れられるリリャールで作られた木製銃床のボルトアクションライフルだ。中身は砂漠の国に住んでいるティルティス人ガンスミスのおじいさんが、手に入る部品すべてを組み上げて、どんな最新型にも負けない精度と操作性に改造してくれた。世界中どこを探しても二つとない、僕の大切な宝物だ。
ついさっき僕の耳を守ってくれたサプレッサーは
彼の武器はリリャールで五十年も前に作られた骨董品の自動小銃で、照準器は世界最北の内陸国ヴィトラント製。これは故郷から持ち込んだ形見の品。
肌身離さず持ち歩いている装備だけでも、どこの国のものやら判断に困る。
僕たち自身もそう。
五百年前の戦争で起きた魔法の事故で、僕たちのルーツのシュチパリアは壊滅的な打撃を受けた。その後、世界中で続いた魔獣災害で世界中の秩序が壊れて、一時はだいぶ文明も後退したという。
祖父の代に流れ着いたダルマチアは長く続いた民族紛争が落ち着いたばかり。戦争が終わったはずの村々は、わずかな耕作地と飲み水をめぐり、いまだ部族ごとに血で血を洗う争いを続けている。
政府が機能しない国の法律に効力はなく、誰もが数百年前の部族法に従って生きている。そこでは誰かが誰かの仇を討てば、その誰かの仇を誰かが討たねばならない。
僕も彼もそうして仇を討って、その次に誰かの仇となった。もはや二度と故郷の土を踏むことはかなわぬ僕らは、ダルマチア人でもシュチパリア人でもない。寄せ集めの部品で捏ね上げたちぐはぐな殺人人形。どこの誰ともつかない僕たちにはそんな呼び方がふさわしいかもしれない。
そして故郷から何百キロも離れたこのシェミッシュの高原で、いつから始まったともつかぬ紛争に身を投じている。
背信者の独裁に苦しむ同胞が圧政に抗い、自由と独立のため必死に闘っている。
同じ神を崇める兄弟姉妹を守るため。俗悪な人間の定めた世俗の法や国境を超え、神の定めたもうた掟のもと、悪しき輩と闘おう。そして虐げられたか弱き同胞を独裁者どもの魔の手から救い出し、正しき神の法の下に理想の国を作るのだ。
全世界から同志が集い、数百ものゲリラ部隊を形成した。ある時は連携し、またある時はばらばらに、神の名を汚す裏切者どもと闘っている。
でも、僕にとってそんな建前はどうでもいい。
結局、僕たちは戦場でしか生きることができない。
血と硝煙と鉄と焔と、そして土。それらのにおいに囲まれて、殺すか殺されるかの緊張感の中にいなければ生きてはいけないのだ。
さもないと、自らの手で奪ってきた命を数えたくなってしまうから。
もう魂の底まで血で染まっている僕たちには、平和な世界のどこを探しても居場所なんて見つからない。
ひとつの身体の中で、いくつもの大きな正義と小さな感情たちが、あるいはせめぎあい、あるいは融けあいながらひしめきあって混在している。
――戦争とは暴力をもって行われる政治の一形態――
そんな普遍的な事実もどうでもいい。
僕たちは、戦士という名の
戦士の役割は、ただ効率よく殺すこと。殺して殺して殺し続けて、最後に自分が殺される。その時、いかに効果的な死に方をして仲間に利益をもたらすのか。そこまでが戦士の役割だ。
そこから先は知ったことじゃない。
ただ、その終わりの時、彼があまり苦しまなければいい。
そよそよと吹き渡る高原の風に、ふとそんなことを願った。
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