003

 結局、その日は彼女に話しかけるどころか、まともに顔を見ることさえできないまま俺はとぼとぼと帰路についていた。

 彼女が転校生という称号を手放すまでは落ち着いて話ができそうもなく、がっくしと肩を落とす。

 まあでも、まだ高校生活は中盤だし、流石に卒業までに何かしら交流することはできるだろう。

 焦る必要はない、うん。

 なんて、無理やり自分を納得させていたら、突然前方からなにかがぶつかってきてバランスを崩した。

 驚く暇もなく俺はそのまま硬いコンクリートの上に自分の臀部を強かに打ち付ける。

 手に持っていたバッグが投げ出されて中身が地面の上で弾けるのが見えた。


「いっ、……つぅ」


 何が起きたのかわからず身体中を走った痛みに顔をしかめていると、俺の心臓の近くでさらりと何かが揺れていることに気がつく。

 それが何なのか気が付くのには少し時間がかかってしまったが……俺の膝の上でぱちくりと瞬きをしていたのは、俺がずっと恋い焦がれていた、あの真っ白い少女だった。


「……っ!」


 どうやらぶつかってきたのはこの少女だったらしく、勢い余って縺れながら二人一緒に転んでしまったらしい。

 殆ど面識のない人間同士が見つめ合うにはあまりにも近すぎる距離に彼女がいる。

 少女のルビー色の瞳は薄暗い空間の中できらきらと輝いていて、口をぱくぱくとさせて驚いている自分の顔が反射していた。

 運がいいことに、俺は夢に見るほど片思いをしていた少女とまるでラブコメディのような再会を果たしてしまったのである。


「……あ、の」


 突如舞い込んできた一大イベントに、ここしかないと覚悟を決めた俺は震える声を絞り出したが、彼女はすぐはっとしたように体を起こし、背後を振り返った。

 その様子に釣られて、俺も彼女が飛び出してきた曲がり角の向こうに視線をやる。

 途端。

 ぞわりと全身を悪寒が走った。

 曲がり角の向こう、暗闇に包まれたその空間から、まるで獣のような唸り声が聞こえてくる。

 その声の主が"何か"はわからないが、少なくとも人間が遭遇してはいけないものだということはなんとなく本能で察した。


「こっち」

「えっ、ちょ」


 理解の及ばないものの気配に怖気づいていた俺の手首を少女は無表情のまま掴んだ。

 彼女の白い手に引かれるがまま走り出す。

 待って、なんだこの状況。

 何が起こっているんだ。

 やっとこの子と再会できたというのに宵闇のなかで輝く白い髪に見惚れることしか出来ないなんて……。

 よし、ここは一発コミニュケーションを取ってみよう。


「あの、一体なにが……」

「黙って」

「……ハイ」


 黙ってって言われた……。

 塩対応に傷つきつつ何の気無しにちらりと背後を振り返る。

 ものの数秒で俺は振り返ったことを後悔するのだけど。


「ひっ」


 思わず小さく悲鳴が漏れる。

 俺の背後、手を伸ばして届くか届かないかぐらいの距離に居るのは、黒い靄のようなもの。

 どうやら先程聞こえた唸り声の主は"それ"だったようで所在なさげに時折形を変えながら着実に俺たちに迫ってきている。

 闇雲に走っているだけでは追いつかれてしまいそうだ。

 とはいえあんな良くわからないものと遭遇するのは初めてだし、どうしたらいいのかなんて皆目見当もつかない。

 縋るようにして前方に視線を戻すと少し先に立入禁止の看板が見えた。

 どうやら工事現場らしいその空間に少女は俺の手を引いたまま迷いなく飛び込んでいく。


「ちょ、待っ……ここ、危ないんじゃ」


 そんな俺の弱音も聞こえているのか居ないのか、工事現場の中心でやっと足を止めた彼女は俺を物陰に押し込んだ。

 

「隠れてて。死にたくないなら」


 ぼそりとそう呟いて、彼女は物陰からゆっくりと離れていく。

 そして工事現場の入り口を睨みつけた。


「気をつけていたのに、まさかあんなところに小石があるなんて。……貴方が置いたの?」


 誰に話しかけているんだろう、と思う間もなく、彼女の言葉の直後に俺たちを追いかけていた黒いモヤのようなものが姿を表す。

 相変わらず所在なさげに形を変えているが、頻繁に犬のような形を形成しているように見えた。


「無理やり転ばせようとするのはルール違反。それに私は"お腹が痛くてしゃがんだだけ"だったのに、それを勝手に転んだって解釈して襲ってくるのもルール違反」


 会話、してる……?

 あの黒い靄と?


「時代のせいで存在が危うくなってしまってるのには同情するわ。でも、だからって貴方の糧になるわけにはいかないの」


 ざわりと、黒い靄が少しずつ大きくなっていき、唸り声にも次第に怒りのような強さが込められていく。

 同時に今すぐこの場から逃げ出せと本能が警鐘を鳴らした。

 逃げたいという本能と、せっかく彼女と出会えたこの機会を無駄にしたくないという欲、そして彼女を置いて逃げることなんてできないという身勝手な正義感がせめぎ合う。


「私はね、ただ平和に日々を過ごしたいだけ。だから」


 彼女がそう言った途端、先程感じたのとは比べ物にならないほどの悪寒が背筋を伝った。

 心臓がどくどくと煩い。

 足元から這い上がってくるようなこの恐怖は、一体、"どちらに感じているもの"なのか。


「邪魔しないで」


 目の前を、羽が舞った。

 白いハトでも飛んできたのかと思ったが違う。

 工事現場の真ん中、無骨な空間の中で、白い少女はその背に大きな翼を生やしていた。



 ◆ ◇ ◆ ◇



 何が起こったかわからなかった。

 白い少女から翼が生えたという異常事態にただ呆然としている間に、あの黒い靄は姿を消していて。

 元通り、普通の少女に戻った彼女が俺の顔をじいと覗き込んでいた。


「……地面がそんなに座り心地がいいとは思えないけれど」


 彼女に生えたあの翼は確実に衣類を突き破ったはずなのに、制服には一寸の解れも見当たらない。

 今のは、夢だったのだろうか。

 それとも幻覚?


「私の"あれ"を見て逃げ出さなかったのは貴方が初めて」


 細められた瞳から感情は読み取れなかった。

 わかったことといえば彼女の背から翼が生えたということは事実だということぐらい。

 彼女はそのままゆっくりと俺に手を伸ばす。


「それとも、足が竦んで逃げられなかっただけ?」


 細くて、白い指が頬を伝った。


「貴方、今日、クラスにいた人だよね」


 その言葉に心臓がばくんと音を立てる。

 これでやっと白い少女と転校生の"暁しづく"が繋がった。

 だけど……それ以上に気になることが、聞きたいことが多すぎる。

 先程の黒い靄は一体なんなのか。

 昼と夜とで髪と瞳の色が違うのは何故なのか。

 そして、君は、何者なのか。

 しかし彼女の瞳にはありありと"何も聞くな"と書いていて、ただ声も出さず彼女を見つめることしか出来ない。


「今日のこと、面白おかしく騒ぎ立てたら」


 頬を伝っていた彼女の指は、いつの間にか俺の喉を鷲掴みにしていた。

 見た限りでは、綺麗に手入れされた女の子らしい爪だったはずなのに、まるで鉤爪のような痛みが食い込む。

 握る力もまだ余力があると思わせるほど力強く、彼女の中に詰まっている"得体の知れない何か"は決して夢でも幻覚でもないのだと痛感した。


「殺すからね?」


 そう言い、彼女は無表情のまま、こてんと可愛らしく首を傾げるのだった。

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