第6話 違和(4)


 気が付くと、講堂にはほとんど人がいなくなっていた。僅かに残っていた学生も参考書や筆記具を抱えて出ていくところだ。


 マティアスも急いで荷物を片付ける。


 ペン先の余分なインクを布で拭い、木の箱に入れてから革で包む。

 慌てていて、汚れを取った布が机から落ちてしまった。一度フワリと空中で静止したかに見えた布は、マティアスの手をすり抜けてあっさりと床に着地した。それを追いかけて椅子から降りて、腕を伸ばす。


 そこに誰かの足が出てきた。

 通路に身を乗り出したのだから仕方がない。相手は驚いて声を上げ、マティアスも咄嗟に避けようとしたが、相手の爪先とマティアスの顔の横が、わずかに接触した。


「ヒィッ……‼︎」


 自分の喉の奥から発せられた悲鳴に、自分で驚いてしまう。

 ただ少し足が当たっただけだ。蹴られたなんて、大袈裟なものじゃない。


「おっと、大丈夫かい? そんなに強くぶつかったかな」


 足の主はレイモン神官だった。彼も片付けを終えて講堂を出るところで、その行き先にマティアスが飛び出してしまったのだ。


「す、すみません、大袈裟な声を」


 マティアスは爪先がかすめた箇所を押さえて俯いた。人より少し長く伸ばしている髪の下、右のこめかみにうすく残る傷跡を無意識に指でたどる。


「悪かったよ。でも、君が急に屈んだから、私も気付かなくて」

「いえ、大丈夫です。本当にすみません……」


 落としたままだった布を素早く拾い上げ、マティアスは頭を下げた。

 目の下の皮膚が引きつるように震えた。呼吸が浅い。倒れそうなほど脈が早く、泣き出しそうなほど胸の下が痛んだ。

 マティアスが必死にその不快感を飲み込んでいると、レイモン神官が顔を覗き込んできた。


「おやおや、顔の痙攣、脂汗、呼吸の乱れ……これはストレス反応だね。随分とお疲れかな?」

「いえ、大丈夫で」

「奥で休んでいくといい。私はここに部屋を持たせてもらってるんだ、遠慮することはないよ」

「いえ、あの」

「私は医学の教授だよ。専門家の言うことは聞いておくものさ。まずは水を飲むべきだ。水を飲むだけで呼吸は整い、安らかになる。水くらい飲む時間はあるだろう?」


 神官の提案に、マティアスは喉の渇きを自覚した。昼食のあと時間が経っていることと、急に滲んだ脂汗のせいだろう。


 荷物を抱えて、案内された部屋へ入る。

 室内は薄暗かったが、レイモンがすべてのドアと窓を目いっぱい開けると、その全容がよく見えた。

 小さな寝台と、椅子が二脚。壁はいっぱいの書籍で埋め尽くされており、大きな机の上にも紙の束が積み上げられている。レイモンの研究用の部屋のようだ。


 椅子を勧められ、神官自ら水差しの水を注いでくれた。


「ありがとうございます」

「あまり冷えていないが、勘弁しておくれ。水をいちいち汲んでくるのは面倒でね」


 部屋の隅には水甕も置かれていた。研究に没頭したらなるべく動きたくないという、典型的な学者の部屋だ。

 マティアスはほとんど一息にカップの水を飲み干した。確かにそれだけで呼吸は深くなり、肩の力が抜ける。


「落ち着いたかい」

「お気遣いいただき、すみません」

「なになに。神官として、医師として、当然のことをしたまでさ。それに、よかったら少し話を聞かせてくれないかな。君の体調について」


 レイモンは机の上の紙をガサガサと雑に寄せて、余白のある一枚を探し出した。机の隅に置かれたままのインク壺に、ペン先をどっぷりと漬ける。


「話といっても、本当に思い当たることがなく」

「君の普段の生活を教えてくれたらいい。私の研究は、文字通り『記録』にある。まずは事実を記録しなければ始まらない。そして、それはできれば多くの人間の記録を取るのが望ましい」

「普段の生活……」

「今朝何を食べて、どんな行動を取ったか。昨日はどうだったか、その前は、といった具合だ。私は自分の生活をすべて記録しているし、他の神官たちにも協力してもらっているんだ。あと、付属の療養所の患者もね。そうして書き溜めた記録から、意外な一致や法則性が見つかったりするんだ。面白いよ」


 レイモンは話しながら、紙の一番上にマティアスの名前を書いた。


「えーと、君はゼブラノール家の第三子だったね。七歳で同門のジュスタイン家から養子になった。うち以外にいくつか私塾に通ってたね。法学、神学、数学、天文学……あと、古文書だったかな?」

「暗記されているんですか」


 レイモンが諳んじたのは、マティアスが最初の受講の際に提出した書類の内容だ。


「うちは受講生が少ないからね。先月からずっと通ってくれてるのは、君とあと数人だもの。覚えるのはわけないさ」


 名前の下に、マティアスの経歴が簡潔に記された。隅に今日の日付も書き足される。


「そんなに講義に走り回っていたら、疲れるのも仕方がないね。君の家だと、父上の手伝いだとか、馬術の稽古だとか、いろいろと忙しいだろうに」

「それは、ありますが、大したことでは」

「忙しくしている人間ほど、大したことないと言うものだ。これは私の感想ではなく、記録の上でも確かだよ。本人だけが気付いていないものさ」

「はあ」


 だが、それでもみんな忙しいのだ。暇な貴族ほど無様なものはない。

 ガーランドは騎士の家系だ。王家と伯家に忠誠を尽くし、領土を守り、治安を維持してきたからこそ、今のゼブラノールやジュスタインの家がある。暇こそ貴族の優雅さという一部の候とは立場が違うのだ。

 マティアス自身も、ガーランドの教えこそ人の道だと思っている。家名に恥じない男にならなければ、と。


「目の下の痙攣は、強いストレス反応から起こるものだ。ストレスについては、以前講義で説明したね?」

「はい。ストレスとは睡眠不足、過労、または精神的なものに起因する心身への負荷のことで、この負荷が過大、もしくは蓄積することによって不調をきたします」

「その通りだ。私の話をきちんと聞いてくれていて嬉しいよ。人間生きていればストレスから逃れることはできないが、あまり負担が大きければ参ってしまう。では、ひとつずつ確認をしていこう。マティアス君は、昨夜はよく眠れたかね?」

「はい。よく寝ました」

「何時に寝て、今朝は何時に起きた?」

「え、昨夜は……」


 何時と言われても、覚えていない。

 オッドが帰宅したのは昼前だったはずだ。その後、自分はどうしていただろう。まさか、ずっと眠っていたとは思えない、そんな長い時間。

 マティアスが押し黙ると、レイモン神官は椅子に深く座り直した。


「おやおや、重症だね。よく寝たというのに、いつ寝たのか分からないとは」

「いえ、違うんです。昨夜は少し」


 体調を崩していて、眠っていたから覚えていなくて、普段はこんなことはなくて……。

 いくつかの言い訳が浮かんだが、どれも正解とは思えない。事実、今朝起きた時には、昨日の記憶が抜け落ちていたのだ。そんなこと今までなかったのに。


――今まではなかったのか?


 そう思い至った瞬間、右目が引き攣った。意図せずこめかみに力が入る。この、傷は――思い出す限り、ずっとマティアスの顔の横についている細い裂傷の痕は、一体いつできた傷だろう?


「マチュー」


 聞き慣れた声にハッと顔を上げる。振り返ると、開けたままにされていた戸口にオディロンが立っていた。


「オッド? どうしてここに」

「おや、お迎えかな」


 突然現れたオディロンに驚く素振りも見せず、レイモン神官はひょこひょこと戸口の方へ向かった。マティアスも一歩遅れてそれに続く。


「やあやあ、初めまして。レイモンと申しますよ」

「オディロン・ゼブラノール・ド・ガーランドです。表で待っていたのですが、こちらにいると聞いて案内していただいて」

「ああ、ガーランドの新しい騎士様だ。叙任おめでとうございます」

「ありがとうございます」


 レイモンはそのじっとりとギラついた目で、オディロンとマティアスの顔に素早く視線を走らせた。


「そうか、ガーランドのゼブラノール……君たちが噂の義兄弟か」

「噂?」


 マティアスとオディロンは揃って首を傾げた。


「尼僧は噂話が大好きでね。中でも騎士や貴公子の話ほど、彼女たちの心を捉えるものはない。君たちは人気者だよ。ずっと以前から、盾の誓いをしてる恋人同士だそうだね。盾の誓いを、それも故郷の恋人と交わすなんて、確かに古風でロマンチックだ」

「古風、なんでしょうか……」


 マティアスがレイモン神官に問いながら、オディロンを見上げる。オディロンは視線を受け止めてはにかんだ。


「古いというか、少ないみたいだ。家同士の縁談があれば、わざわざ盾の誓いとは言わないからな。ただ、騎士同士の盾の交換は盛んですよ。騎士団の中には盾兄弟がたくさんいると、尼僧の皆さんに教えてあげてください」


 後半をレイモン神官に語りかけ、オディロンは片頬を上げて笑ってみせた。


「貴重な情報だ! ご機嫌取りが必要な時に使わせてもらうよ」


 レイモン神官は本当に嬉しそうに、呵呵と笑い声を上げて手を叩いた。尼僧のご機嫌を取らなければならない場面は、なかなかに多いようだ。


「それで、どうしてわざわざ迎えに?」

「思ったより早く昼食会から解放されたんだ。久しぶりにドミティア神殿に挨拶もしたかったし」


 言いながらオディロンはマティアスの背中に腕を回す。レイモンがニヤニヤと不躾な視線を寄越した。


 マティアスは普段、人に注目されることは得意ではない。それが良いことでも悪いことでも、他人の視線を集めると、居た堪れない心地になる。

 だがオディロンとのことにおいては、急に心が広くなるのだ。彼の隣にいれば、視線も噂話も心地よいそよ風に変わってしまう。


 気付くと、目の周りの痙攣も、胸の下の痛みも治まっていた。まるで何事もなかったかのように。


 マティアスが堂々とオディロンと寄り添っていると、レイモンが大袈裟に肩をすくめて手を広げた。


「いやいや、当てられてしまったね」


 どうやらマティアスが照れるか慌てるか、なんらかの反応をすると踏んで、わざとあからさまな態度を取ったようである。

 何に付けても変わり者の神官だが、こんな振る舞いも俗物的だ。他の模範とは言えないだろう。


「じゃあマティアス君。また何か質問があれば、いつでも声をかけておくれ」










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