バドミントンの幽霊

ヤ糖明美

バドミントンの幽霊

   1


 わたしが日岡先パイと思いがけず再会したのはある夏の日のことだ。

「灯織!」

 とわたしの名前を呼ぶ声がして振り向くと、そこに日岡先パイが立っている。

 いや、立っている、というのは間違いだ。何故なら日岡先パイには足が無かったのだから。だから、正確に言うなら、日岡先パイは浮いている……というか……漂っている?

 とにかくわたしは日岡先パイがそこにいるのを見て、きっと目にゴミでも入ったのかなと思って目を擦る。

 日岡先パイはそこにいる。

 頬をつねってみる。そこにいる。

 この暑さにやられておかしくなったのかもしれないと思って水を飲んでみる。そこにいる。

 頭を冷やそうと思ってその水を全身にぶっかける。スクールバッグが少し開いていて化学の教科書が少し濡れてしまう。最悪。日岡先パイはそこにいる。

 やるだけ無意味と分かっているけれど鼻をつねってみたり、制服をバサバサあおいだり、動画サイトで流行ってる踊りを踊ってみたりする。

 なにをしても日岡先パイはそこにいる。

 わたしはようやく日岡先パイの可能性がある足のない誰かに近づいて声をかける。

「ほんとうに、日岡先パイですか?」

「そうだよ」

「ほんとうに、ほんとう?」

「ほんとう」

 自然と涙が溢れて来る。日岡先パイの声だ。

「わた、わたし、日岡先パイに、もう一度、う、会えると、うう、お、思ってなくて、うううう」

「悪かったな、寂しい思いさせて」

 その言葉を聞いて、ええいもうどうにでもなれ、と思って、わたしは自分が泣いているのをいいことに日岡先パイに抱きつこうとするけれど、わたしの身体は日岡先パイの身体をすり抜けてしまう。

「どうした、灯織」

「なんでもないです」

 急に恥ずかしくなって、涙も引っ込んでしまう。


「おれ幽霊なんだ」と日岡先パイは言う。

「そりゃあ、そうですよね」とわたしは言う。

 そりゃあ、そうですよね。


 あの時、わたしは高校一年生で、バドミントン部の冬合宿に参加していた。

 わたしの高校のバドミントン部は県内でも五本の指に入る強豪だ。とは言っても私立高校に比べると環境面ではどうしても劣ってしまう。そんな中でどうして私立高校を張り合えるのか、って言ったらそれは練習の量と質で対抗しているってことで、つまりそういうことで冬合宿は毎日キツかった。普段からキツイ量の練習が、いつもの五倍ぐらいあった。翌日筋肉痛でボロボロの体を動かして、さらにいつもの五倍ぐらいのメニューをこなす。こんなキツイことしてるのにバドミントンが上手くなれないなんて嫌だ、と部員の誰もが思っていて、不思議なことにそう思っているとそんな風になっていくもので、未だにわたしの高校はバドミントンが強い。これだけ強ければもう少し部費を増やしてくれてもいいんじゃないかとわたしは思うけれど言わない。言ったところで増えないからだ。どの高校もそうって訳でも無いかもしれないけれど、少なくともわたしの高校では、運動部の部費の大部分は野球部で溶ける。仕方がないのだ。高校野球は運動部の花形だし、野球応援は楽しい。

 と言うのはさておき、この時わたしはバドミントン部の女子の中で七番手、一年生の割には健闘しているけれど普通に補欠で、日岡先パイは二年生で男子の大エースだった。


 普段の五倍ぐらいあるキツイメニューをどうにかこなすことが出来たのはそれが高校の部活だからで、練習時間の外では滅多にないような楽しい催しが待っていたからだ。

 練習が終わったあとは常識の範囲内で基本的に自由だった。それでわたし達はひとつの部屋に集まってみんなでトランプをしたり──合宿でやるトランプはどうしてこんなに特別なんだろう、とつくづく思う──恋バナをしたりした。

 その日もそうした自由時間に、部の中で一番タイプなのは誰~? みたいな話になって、それでわたしが「日岡先パイ」と軽い気持ちで言ったら突然チームメイトの女子たちが色めき立った。一年生が先輩の、それも大エースのことを指名してしまったばっかりに暴走がはじまったのだ。あれよという間に、わたしと日岡先パイは夜に二人きりで宿泊所の外を散歩することになってしまった。


 緊張する私を他所に日岡先パイはラフな格好で出てきた。スポーツシャツに短パン。既に風呂上がりでいい匂いがした。

「よっす」と日岡先パイは頭をかいた。

「ご、ごめんなさい、こんなことになってしまって」とわたしは謝った。

「いーよ、暇だったし」と日岡先パイは言った。「じゃあ、じっとしてても寒いだけだし、少し歩こうか」


 わたし達は二人で道路を歩いた。合宿所は山の中にあって車も少ない。歩いている間、わたしはずっと日岡先パイの隣にいて、でもそれだけだった。ずっと黙っていた。何を話せばいいのかも分からなかった。憧れの先輩と二人きりで冬の夜の道を歩くというのは誰だって緊張するものだろう。日岡先パイも黙っていた。日岡先パイにしたって、こんな後輩といきなり夜の道中に放り出されて、どうしたらいいか分からなかったはずだ。


 寒いね、そうですね、と言った短い問答がいくつかあって、けれどもそれらは話を広げる糸口には繋がらなかった。緊張で身体は熱く、裏腹に外は寒かった。その温度差に当てられて少しおかしくなってしまったわたしは、とにかく何か話さなきゃ、と思って、

「先パイって、好きな人とかいるんですか?」

 と聞いて、しまった、と思った。この状況でこの質問が来た時、最終的な結論はひとつしかない。

「いないけど」

 という答えが来て、わたしはいよいよ後にひけなくなって、ええい、もうどうにでもなれ、日岡先パイならオーケー、振られてもまあ仕方がないか、と思って、

「じゃあ、わたしと付き合ってくれませんか?」

 と言った。日岡先パイにしてもそう来る流れってことは分かっていたはずで、けれどもそれが全く予想外だったような表情を浮かべた。

 わたしは立ち止まって、日岡先パイに向き直った。

「わたし、先パイのことが、ずっ」

 けれどもわたしの告白は大きなクラクションが消し去ってしまって、次の瞬間には日岡先パイの身体は宙を舞っていて、そこから先のことは思い出せない。


 日岡先パイの幽霊はそこにいる。紛れもなく。服装はあの時と全く同じだ。幽霊の服装は死んだ時のものらしい。

「ごめんなさい」とわたしは言う。「日岡先パイは、わたしが殺してしまったんです」

「そんなこと言うなよ」

「でも、わたしが連れ出してしまったばかりに、日岡先パイは」

 死んでしまった。

 事故のあと、わたしはバドミントン部をやめた。日岡先パイはわたしが殺したのだ。わたしがあの恋バナで日岡先パイの名前を出してしまったばっかりに、成り行きで外に誘ってしまったばっかりに、告白をして道路上に足を止めてしまったばっかりに、日岡先パイは死んだのだ。部員のみんなも「わたしが日岡先パイを殺した」と思っていて、と言うかそうとでも思わないと大好きな先輩の死を誰も受け入れることが出来なくて、わたしもそれ以来バドミントンのラケットを握るだけで涙が勝手に出てきて、とてもバドミントンなんか出来なくなってしまった。間もなく学校にも行けなくなって、一年留年した。

 それでもどうにか高校に行けるぐらいには立ち直って、今は三年生で、とりあえず理系の大学に進みたかった。相対的に女子が少ないからだ。


「ごめんなさい、日岡先パイ」

 とわたしはただ泣きながら繰り返すだけだ。自責の念と言うのは残酷で、誰かが許せば救われるってものでもないし、きっと許されるべきものでもないのだ。

「いや、いいんだよ、本当に。おれがあの場所で死んだのは、なんと言うか、そう決まってたことだったんだよ」と日岡先パイは言うけれど、そんな運命みたいなことで死んでいい人じゃないのだ、日岡先パイは。

 わたしが一向に泣き止む様子がないので日岡先パイは困った顔をしてしばらく考えていたが、

「じゃあ、こうしよう」と言う。

「おれは灯織のことを恨んでなんかいないよ。でも灯織は自分のことが許せないんだろ? おれは今、成仏することを望んでいて、そのためにはおれの未練になっているものを見つけなきゃいけない。灯織にそれを手伝って欲しい。灯織がおれを殺したと思っているなら、代わりにおれの望みを叶えて、それを灯織の罪滅ぼしってことにして欲しい」

「お手伝いさせてください」わたしは二つ返事で了承する。

 こんなことしたぐらいでわたしの罪滅ぼしになるとは思っていないけれど、とにかく先パイのために出来ることなら何でもしたい。

「あ、そうだ」とわたしは言ってびしょ濡れのスクールバッグから携帯を取り出した。最近の携帯はすごい。ちょっと水をかけられるぐらいどうってことはないのだ。

「日岡先パイ、せっかくの再会ですし、一緒に写真撮りませんか?」

「いいよ」

 わたしは内カメラを構えて、極力小顔に見える画角を探して、日岡先パイとの距離感は少し離れたままで、パシャリ。

 けれども日岡先パイは幽霊だから、カメラに映らない。

「あはは、一人しか写ってないわ」日岡先パイは笑う。


   2


 わたしは日岡先パイの隣を歩く。

 思い返せば日岡先パイと歩くのはあの日以来だなあ、とわたしは思うけれど、よくよく考えたらそれは当然のことで、わたしは少しだけ怖くなる。わたしの隣を歩くことで、また日岡先パイが痛い目に遭ってしまうのではないかと考える。けれども実際にはそんなことはなくて、日岡先パイはこれ以上酷い目に遭いようがない。

 あの頃と違うのは、わたし達には日岡先パイを成仏させるっていう共通の目的があるってことで、だからこうして隣を歩いていても、わたし達は話題に困らずにいられる。

「何か心当たりってあるんですか?」わたしは尋ねる。

「うーん、分からない」と日岡先パイが言う。「とりあえず、おれの家に行こう」

 家に行く、と聞いて一瞬わたしはどきりとするけれどそれを表に出す必要はない。


 わたし達はここからそう遠くない日岡先パイの家まで二人で歩く。正確には歩いているのはわたしだけなのだけれど。

 この時期はどこに行っても蝉が鳴いていて、静かな場所なんてものは基本的に存在しない。

「先パイが亡くなって二年ぐらい経ちますけど、この二年間何していたんですか?」とわたしが聞くと、

「うーん、よく覚えてないんだよなあ」と日岡先パイは言う。「目覚めたの最近だからなあ」

 日岡先パイが言うには、死んでそのまま成仏出来なかった場合、幽霊となって目覚めるまでにはブランクがあってその長さは様々で、先パイの場合それがつい一週間前までのことで、それから先パイには自分が何によって現世に縛り付けられているのかもよく分からないから、この街をただブラブラしていたらしい。

「この街もずいぶん変わったなあ」と日岡先パイは言う。

「そですか?」

「灯織はずっとこの街にいて、ずっとこの街を見ているから分からんのよ。街だって一気にドーン! って変わるワケじゃないからね。おれは二年間の街並みを見ていないから、ビフォーとアフターしか見てないから余計にそう感じるのかもね。アハ体験と一緒」

「そんなもんですかね」そんなもんなんだろう、多分。

「そういえば灯織もめっちゃ変わったなあ」と日岡先パイは言う。「髪昔はもっと長かったよな」

「切っちゃいました。邪魔だったので」

「二年前はロングじゃなきゃ嫌だって言ってたのになあ。二年もあれば人も街も変わるんだなあ」としみじみ言う日岡先パイは年寄り臭くて、わたしは笑う。

「何がおかしい」

「なんでもないです。ふふ。日岡先パイは全然変わってないですね」

「それはそうだよ、おれの時間は二年間空白だったからね」

「あれ、じゃあわたしの方が年上ってことになりません?」

「なるか?」

「オイ日岡!……ごめんなさい」

「ぶほ」日岡先パイが吹き出す。

 日岡先パイの家に着くまでに足元に蝉の死骸を三つ見かける。近づいた途端動き出すのではないかとその時だけ歩調は遅くなるけれど、三つとも何もしてこず、わたし達はそれをただ素通りすることが出来る。


「日岡」って書いてある表札を前にしていよいよわたしは緊張する。なんとなくいけないことをしているような気分になる。

 日岡先パイが実体のない鍵をドアに差し込むと、ドアは開く。「お邪魔しまーす」と声を出すけれど返事はない。

「うちは共働きだから、日中は家に誰もいないんだ」と日岡先パイは言って、頭をかく。

 右手に曲がったところに和室があって、特に理由もなくそこに踏み込んでいったわたしは、まるでわたしが和室に吸い込まれたみたいだ、と感じる。わたしを吸い込んだものが何かといえば、そこにある仏壇だ。

 わたしはそこにある遺影の顔を眺める。学ランを着て無表情の日岡先パイ。

「この写真微妙だよな」って言って日岡先パイは笑うけれど、わたしはああ、日岡先パイは死んだんだ、とこれまで毎日のように考えていたことを反芻する。

 わたしはこれまで一度も日岡先パイの仏壇に手を合わせたことが無かったし、日岡先パイの家を訪ねたことも無かった。実家を訪ねるのが怖かったのだ。

「ごめんなさい」と言ってわたしは手を合わせる。二年分の祈りを込めて。当事者が後ろにいるのに仏壇にお祈りするなんてちょっと変な感じもするけれど、そんなことはここではどうでもいいのだ。


「さて、」日岡先パイは言う。「探し物をします」

「探し物?」

「この一週間全く家に帰らなかったんだ。おれにはこの街の全部が懐かしく見えたから。そうやって一週間ずっと街をぶらぶら歩いたけれど、これだ! ってものはなんも見つからなかった。だから、結局のところここにあるんだろうなあ、って思ったわけだ」

「なるほど」

「と言うわけで、いろんなものを見てまわろう」

「分かりました」


「先パイって一人っ子なんですか?」わたしはリビングの壁に並べてある本を眺めながら聞く。家庭の医学、テレビ雑誌、よく分からない洋書。

「兄貴がいるよ」日岡先パイは言う。「大学四年生かな? 今頃必死こいて卒論書いてるだろーよ」

「仲良しでしたか?」聞きながらわたし何聞いてるんだろう、と思う。

「まあ悪くはなかったけど、家じゃあんまり喋んなかったな。趣味とかも合わなかたし」

「そうなんですか」と言いながらわたしはガラスケースに目をやる。トロフィーが丁寧に飾られている。

「今更ですけど、先パイってすごいバドミントン選手だったんですね」

「オイオイ、おれのラケット捌き見てたろ?」と言って日岡先パイは笑う。「全中出たからね」

「すごいっすね」

「何その口調」


 ふとわたしの視界に大きめの冊子が目に入ってくる。

「あれ、これもしかして、先パイの中学の卒アルじゃないですか?」

「ほんとだ、なんでこんなところに」日岡先パイは目を細める。「おれの部屋に置いてあったはずなんだけどなあ」

「見てもいいですか?」

「いいよ、見ようぜ」

 わたし達は一旦捜索を中断して、しばらく日岡先パイの卒業アルバムを眺める。当たり前だけれど日岡先パイ以外にもたくさんの中学生が写っていて、名前も知らないこの人たちにもそれぞれの人生があるんだろうな、と思う。

 わたしと日岡先パイはもうほとんどゼロ距離になっていて、体が触れることはないと分かっていても少しドキドキする。先パイからはあの時と同じいい匂いがしているような気がする。もちろん幽霊に匂いなんてものはないし、もし今の状況を見ている人がいるとすれば、その人にはただ女子高生が他人の家で一人で他人の卒業アルバムを見ている、と言うふうにしか見えないはずだ。てか先パイのまつげ長いな。

 先パイの写真は結構あって、卒業アルバムだって全ての人の枚数が平等になるように作っているわけではないし、本当に映ってない人は全然映ってなかったりするけれど、やっぱり先パイは画になるんだなあ、とわたしは感心する。修学旅行(寺社仏閣の前でいかにも体育会系の雰囲気をまとった男子三人と肩を組んで笑っている)、体育祭(副団長をしていたらしい)、いろいろな場面の写真があるけれど、結局一番活き活きしているのは総体の時の写真だ。バスケットボールやサッカー、野球など色々なスポーツの場面が切り取られた写真の中で、シャトルを打つ先パイの写真は、ひときわ強い躍動感を放っている。

「先パイ、ほんとうにバドミントン好きなんですね」

 と言うと先パイはわたしのすぐ横で

「へへ」

 と笑う。先パイのことを可愛いと思うのは初めてだ。


 間もなく「捜索」を再開したわたし達だったが、とうとうそれらしいものを見つけることは出来ない。

「あとは倉庫だなあ」と先パイが言う。

「倉庫?」

「ほら、あったじゃん、庭にさ」

「ああ、あれ」

 あれ、と言うのは、日岡先パイの家の庭にある物置のことだ。

「でもなあ、多分汚いんだよなあ」と日岡先パイは言う。「あんまり女子高生を入れたくはないなあ」

「平気です」わたしは言う。「何でもします。どこにでも行きます」

「そうか、じゃあ、見てみようか」

 と日岡先パイは言う。


 果たして日岡先パイが言う通り倉庫は汚い。ドアは軋んで金属同士が擦れ、黒板を爪で引っ掻いた時のような嫌な音をたてる。砂埃が舞い、わたしは少し咳き込む。日岡先パイも少し咳き込む。幽霊なのに。

 倉庫の中にあるものは様々で、けれどもそれらに共通していることは全て「使われないもの」であるということだ。幼稚園児ぐらいの子供が砂でお城を作る時に使うカラフルなプラスチック製のシャベルとバケツ、ところどころ模様が剥がれたサッカーボール、プラスチックの野球バットと子供用グローブ、さびたスコップと工具類、立てかけられている長い角材……もう使われることのない者たち、あるいは暫定的な役割を失って、とりあえずここに居場所を与えられたまま放置されている者たち。わたしは土埃の臭いの中から、そうした者たちの年季の臭いを嗅ぎとる。

「うへえ……すごいですね。もう長いこと開いてすら無かったんじゃないですか? この倉庫」

 と言って日岡先パイの方を見ると、日岡先パイはじっと黙って、倉庫の中のある一点を見つめている。

 あれ?

 と思って視線を日岡先パイに合わせると、その先にあるものがわたしの目にも入ってくる。

 否が応でも時間の経過を感じずにはいられないプラスチックのおもちゃや古びた工具に混じって、不自然なほど新しく見えるそれに、日岡先パイは黙ったままで近づいて、手に取る。そして静かに泣く。それがどれほど長い時間だったかわたしには分からない。けれどもわたしもそれを見てもらい泣きしそうになる。

「灯織、バドミントンしよう」

 と日岡先パイが言う。


   3


 わたし達は歩いて学校に向かう。バドミントンのラケットを持って。

 なんとなく言葉数が少ないのはおそらくこれが最後になるだろうと分かっているからで、そういう時にどんな会話をしたらいいのか分からないからだ。


 午前中に続いて今日二度目の登校。夏の学校は午前と午後で全く異なる表情を見せる。自習室だった校舎の中からは吹奏楽部の個人練習の音が聞こえる。野球部は打撃練習をしていて、金属バットが白球を打つ音が学校中を響く。こんな軽い音でボールはどこまでも飛んでいくのだ。

 わたし達は体育館を覗いてみるけれど、バスケットボール部が練習をしていて使えそうにない。

「あらら」日岡先パイが笑う。


 諦めてわたし達は家の近くの運動場に向かう。体育館の半分を2時間で1000円。高くはないけれども安くもない。

 手続きを済ませ、ネットを張って、準備運動をしてから、わたしはバドミントンのラケットを握る。この感覚は三年ぶりだ。

 もうラケットを握っても涙は出ない。

 何回か素振りをしてみる。一年ぐらいやっていただけだったけれどあのキツイ練習で嫌というほど反復した動きをわたしの身体はしっかり覚えていて、自分の腕は鈍っていない、と言う確かな感覚をわたしは得る。ラケットがしなって空気を切り裂き、ぱひゅっ、と言う音がする。この音がわたしは好きだった。わたしは制服のままで、スイングした時に少しスカートが舞っている気がするけれど構わない。誰も見てやいないし、今は日岡先パイ以外のことなんかどうでもいい。


 わたしはネットの向こうでラケットを持っている日岡先パイを眺める。ラケットを持った日岡先パイは別人に見える……と言うか、別人だ。日岡先パイはラケットを、それが生まれた時から備わっていた自分の器官のように扱う。

「21点、2ゲームね」日岡先パイは言う。

「ハンデ下さい」

「3点あげる」

「5点下さい」

「いいよ」

 と言っていきなり日岡先パイはサービスを打つ。わたしは咄嗟のことに反応できず、シャトルはわたしの頭上を通過して、コート内にポトリ、と落ちる。

「1-5ね」

「ずるいです」

「ずるくないよ」

 と言ってまた日岡先パイはサービスを出す。最小限のラケットの動きだけでシャトルは勢い良く飛び、わたしの頭上を超えようとする。けれどもわたしも同じ手に連続で引っかかるほど鈍くはないのだ。

 わたしは一度頭上を超えたシャトルを手を伸ばして打ち返す。けれどもそれは打ち返しただけになってしまって、ゆるい軌道を描いて相手コートに飛んで行ったシャトルを日岡先パイがスマッシュ。わたしは反応できない。

「これでハンデ3」

 と言って日岡先パイは笑う。わたしも笑う。

 楽しい。本当に。


 そしてわたし達はバドミントンをする。本気で。ラリーが長く続くこともあれば、日岡先パイがあっという間にスマッシュを打ち込んでしまうこともあって、わたしは第1ゲームをあっという間に取られる。8-21。ハンデで5点貰ったことも考えるとわたしは3点しか奪えなかったことになる。男女の体格差もあるし、わたしは制服だし、相手は全中に出るクラスなのだから、本当は3点取れただけで十分なのだけれど、それでも純粋にわたしは悔しい。


 小休憩をはさんで第2ゲームが始まる。

「灯織からサービスしていいよ」と日岡先パイは言って、わたしのコートに右手でシャトルを投げる。わたしはそれを左手に持ってラケットを構える。

「先パイ」わたしは尋ねる。「成仏するのって、怖くないんですか」

「何を言ってるの?」とラケットを構えた日岡先パイは言う。

「このまま現世に残って、わたしと二人でずっとバドミントンしてませんか」

「それは出来ないよ」

「どうしてですか」

「どうしてって……」

「わたしが先パイのこと殺したのにこんなこと言っちゃいけないってことは分かっているんですけど、わたし、先パイと離れたくないです」

 わたしの目から涙が流れる。

「灯織……」と言ってラケットを構えていた日岡先パイから、少しだけ力が抜けるその瞬間をわたしは見逃さない。咄嗟に放ったシャトルは日岡先パイの並外れた反射神経でもギリギリ追いつけない絶妙な位置に落ちる。

「6-0」わたしは言う。「実質ハンデ6点ですね。さっきの仕返しです」

「やってくれたな」と言って日岡先パイは笑う。


 それでも結局は日岡先パイにすぐハンデを追いつかれ、間もなく追い越されるけれどわたしも食らいつく。6-8、7-8、7-11、9-11、9-13、10-13、10-16。12-16。12-19。

 あと2点で日岡先パイの勝ち。

 日岡先パイは無難なサービスを打つ。わたしはそれをフォアハンドで打ち返す。そこそこのスピードが出るけれど日岡先パイはそれを上手く拾う。

 第2ゲームからわたしがスマッシュを打ち、日岡先パイがそれを拾う時間が長くなる。

 わたしはスマッシュを打ち込みながら、日岡先パイが手加減していることを分かっている。こんなスマッシュ、日岡先パイなら同じスピードで相手コートに返すことだって出来るのだ。全力でやって欲しいとも思うけれど言わない。それがこの時間を少しでも長くするためだと知っているから。

 しばらくスマッシュを打ち続けていると、先パイが拾ったシャトルがネットに引っかかる。13-19。

 その後もスマッシュを打ち込みながらわたしは尋ねる。

「日岡先パイっ……さっきした話は、……っ……わたしの本心ですっ……本当に、成仏っ……しなきゃダメなんですかっ」

「ごめん……ダメなんだ」

 内心では分かっていたその言葉にそれでもハッとして、一瞬気持ちがバドミントンから離れてしまい、日岡先パイが浮かせたシャトルを打ち込む手が遅れる。わたしの打ったシャトルはネットにすら引っかからずわたしのコートに落ちる。

 13-20。

 マッチポイント。あと一点。


「おれは成仏しなきゃいけないんだ」日岡先パイは言う。

「ごめんな。おれだって楽しいし、ずっと灯織とバドミントンしていられるならしていたい。でもダメなんだ。」

 汗が頬を伝っていくのを感じながら、いやこれは涙かもしれないな、とわたしは思う。

「マッチポイント。本当にラストだ」

 そう言って日岡先パイが放ったサービスをわたしはほとんど叩きつけるように返す。シャトルは日岡先パイのラケットの先を掠める。

 14-20。

「ラストにはさせません」わたしは言う。少しかすれた声で。「追いついて、このゲーム取って、次のゲームも取られたら取り返して、タイブレークに持ち込んでやります。終わりになんかさせません」

「いいね」と先パイは言う。


 わたしはサービスを打つ。シャトルは先パイの背後を取るが、先パイも素早くコートの深いところに入っていって、それをドロップで打ち返す。わたしも素早く軌道に回り込んで打ち返す。

 広い体育館の一角を、シャトルを叩く乾いた音と、シューズの擦れる音だけがこだましている。長い長いラリーが続く。わたしは先パイが打つ全てのシャトルを全身全霊で打ち返す。この時間が永遠に続いてくれたらいいのにと願いながら。


   4


 けれどもその願いは叶わない。

 先パイが打ったシャトルがネット付近に落ちる。上手く打ち返そうとして少しだけラケットの角度がずれてしまい、シャトルはネットに引っかかって揺れる。

 14-21。

 ゲームセット。

 ああ、全部終わってしまったんだ、と思いながらわたしは座り込む。満足感にも似た疲労感の中で、しかしわたしは寂しさをぬぐい去ることは出来ない。

「もっと練習しないとな」

 と言って日岡先パイはわたしに手を差し出す。わたしはその手を取ろうとする。当たり前だけれど取れない。試合のあとの握手も出来ないのだ。

「先パイ、行っちゃうんですか」

「そうなるだろうね」と日岡先パイは言う。「おれはやっぱりバドミントンがしたかったんだ」

 先パイはわたしの隣に座る。

「灯織、本当にありがとう。最後に灯織とバドミントンが出来て、本当に良かった」

 そして日岡先パイの身体が消え始める。

 わたしは口を開く。

 本当はこんなことは許されないって分かっている。けれどもいよいよ日岡先パイが逝ってしまうという段階になって、わたしは自分自身を止めることは出来ない。

 わたしはエゴの塊なのだ。

「先パイ、最後にもし良かったら、あの時の答え、聞かせてくれませんか」

 日岡先パイの身体は上半身だけになっている。

「わたし、日岡先パイのことが、ずっと好きでした。付き合ってください」

 と、わたしはこれからまさしく成仏しようとしている幽霊に告白する。止まっていた二年間が動き出す。

 日岡先パイはにっこりと笑う。仏の顔って言うのはこういうのを指すのだろう。

「ごめんなさい」

 と日岡先パイは言う。

 わたしは笑う。どうしようもないほどぐしゃぐしゃになった顔で。

「ありがとうございました」と言うわたしの声はか細い。日岡先パイは

「ありがとう」と言って、そのまま消えてしまう。

 本当はわたしは日岡先パイに許して欲しかったんじゃなくて、ただ日岡先パイに振って欲しかったのだ。こんなどうしようもないわたしを。


 日岡先パイがいた場所をわたしはじっと立って眺める。すべてが終わってしまうと、さっきまでの出来事がすべて夢だったような気がしてわたしは笑う。けれども本当にここには日岡先パイがいて、わたしを振って、いなくなったのだ。そう思った途端にフッと力が抜ける。


 足元を見るとそこに私の足はない。


 ああそうか。

 そうだった。

 あのとき車にはねられて死んでしまったのは、日岡先パイだけじゃなかったんだ。

 わたしはバドミントン部を辞めてなんかいなくて、留年もなにもしていなくて、それは全部、死んだ後も現世にしがみついていたわたしの、でっちあげだったんだ。

 日岡先パイに許しされるための。

 日岡先パイに振られるための。


 わたしの心はどこまでも清々しく晴れ渡っていた。もう何も残すことはないって、こういう感じなんだ。ああ、気持ちいいなあ。

 でも、本当は、本当は少しだけ、日岡先パイの恋人になりたかったなあなんて、思っちゃったりもしてます。

 本当にわたしはどこまでもエゴの塊なのだ。あはは。

 来世でも日岡先パイに片思い出来たらいいな。


 誰もいない体育館に夏の爽やかな風が吹いてきて、床の上に重ねられたふたつのラケットがカタカタと揺れた。その音はどこか笑い声みたいに響いた。〈了〉

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バドミントンの幽霊 ヤ糖明美 @yottottoAKm3

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