『映画を早送りで観る人たち』を読んで思ったのは、その人たちは『スパイダーマン:ノーウェイホーム』を観るべきという事。

山木 拓

『映画を早送りで観る人たち』を読んで思ったのは、その人たちは『スパイダーマン:ノーウェイホーム』を観るべきという事。

   ①はじめに


 私は最近、『映画を早送りで観る人たち』という本を読んだ。岡田斗司夫という評論家が話題に挙げており、自分も興味を持ったからだ。


 この本を読む中で私が一番感じたのは、


「早送りで観る人はみんな、『スパイダーマン:ノーウェイホーム』を劇場で観なかったんだなぁ」


 という事だ。『映画を早送りで観る人たち』を読み、尚且つ『スパイダーマン:ノーウェイホーム』を観た人からすると、私が今からどういう話をしようとしているのか察せられるかも知れない。これに該当する人たちは、可能であれば「わかるわ〜」と唸ってもらえると書いた甲斐があるので、是非とも唸ってください。


※なお、この文章では『映画を早送りで観る人たち』と『スパイダーマン:ノーウェイホーム』のネタバレ・感想をふんだんに含んでいるのでそれを理解の上でお読みください。



   ②かく言う私も…


 かく言う私も映画を早送りで観た経験がある。理由は簡単だ、好きな女性の話題についていきたかったから。彼女は『ゴースト/ニューヨークの幻』という九〇年代の映画がとても好きだ。対して私は、あの有名な男女がろくろを回すシーンを知っていたぐらい。なので「君と話すためにあの映画をしっかり観てきたよ!」「わざわざ私のために? ありがとう!」なんて話すためにもすぐさま登録済みのサブスクリプションを漁った。そして視聴を開始した。


 内容がつまらなく感じたとか、明らかに間延びしているシーンがあったとか、そういうのは全くなかった。しかしその瞬間の私の目的は、映画を観たという事実そのもの。そんな心持ちで早送りの存在を知ってしまうと、そりゃそうする。とてもお腹が減っていて、いち早く食事を済ませたい人間が、パンケーキの店の行列に並ぶワケが無い。それと同じだ。私は話の流れを覚えるのが得意な方だったので、早回しの一回きりで充分ストーリーは抑えられた。これで面白い映画を観たという経験、そして彼女との共通の話題も一つ生まれた。


 これとほとんど同じエピソードが『映画を早送りで観る人たち』に載せられていた。筆者が映画を早送りで観た経験のある若者たちに、その理由を調査したところ「友人との話題についていくため」「世間の流行についていくため」と回答していたのだ。


 これを読んだ時、また別の出来事を思い出した。私はMCUシリーズ映画の『アイアンマン』を少し前まで観た事が無かった。あまり興味が湧かなかったのと、同シリーズと世界観を共有している作品があまりにも多く、そのため単純に観る気が起きなかった。しかし全く別のコミュニティーのそれぞれの友人から、全く別の年齢の頃に勧められた。その当時は映画を観るにはDVDをレンタルするか買うしか無い時代だったので、重い腰は上がらなかったのだが、遂に四人目に勧められた際に視聴した。私はどハマりした。『アイアンマン』自体が面白かったのもあるのだが、何より続きが気になったのだ。


 その時も同じように、映画を観るきっかけが他人に起因されたものだったが、当時の私は早送りするつもりが全く無かった。『ゴースト』を観た時と比べてプライベートな時間が確保されていたのもある。だがそれ以上に、前者と後者で最も異なるのは、最終的な目的だ。前者は「話題についていく」、後者はただ単に「観る」。友人に勧められて観た後、感想を話す必要が無かった。話題についていく必要も無かった。この違いだけで私は映画をより長い時間楽しんでいた。


 それぞれのエンタメ作品は話題を共有するためではなく、それに触れて楽しむために存在している。映画は『観る』そして『観て楽しむ』ためにある。『ゴースト』を観た時の私はそれを忘れていた。



   ③『スパイダーマン:ノーウェイホーム』という映画について ※ここから先は『スパイダーマン:ノーウェイホーム』のネタバレが含まれます。


 私が何故2度も※の注釈を書いたのか、それは『ノーウェイホーム』を観た人ならばすぐ分かるだろう。この話の中でとんでもないサプライズが用意されていたからだ。結論から述べると、この映画は不可能を可能にした。


 少しマニアックな話なのだが、映画の『スパイダーマン』シリーズには複雑な事情がある。この作品は、キャラクターの使用権が譲渡される等によって新しいシリーズが何度か構築されてしまったのだ。なので、同じ主人公なのに映画が変わると別の俳優が演じてしまっている。日本的な例を挙げると、時代劇の水戸黄門の俳優が時代によって変わる、みたいな感じだ。


 さて、この歴代の水戸黄門の俳優たちが時代劇の水戸黄門の中でキャラクターの水戸黄門として共演する事はあり得るだろうか? いや、無い。絶対に無い。スパイダーマンも同じだ。同じ登場人物なので同じ役での共演なんてありえない。それに権利関係にうるさいアメリカで、キャラクター使用権を譲渡される前の俳優を用いてその役柄で登場させるなんて、きっと著作権かなんかにも抵触するだろう。アメリカ映画界における永遠に解決されないタブーだ。


 そんな中。『スパイダーマン:ノーウェイホーム』は、時空の歪のせいでパラレルワールドから敵がやってくるというストーリーだった。しかもその敵は過去のスパイダーマンシリーズに登場していた敵だった。このストーリーの情報は既に映画公開前に明かされていた。それを知った上で、私も映画を観にいった。そしてストーリーの中盤、目を疑う展開が起きた。


 過去の『スパイダーマン』シリーズの過去主人公たちが一堂に会し、ノーウェイホームの主人公と協力するのだ。よくよく考えるとパラレルワールドという設定から考えて、この話の流れは全くおかしくない。私は衝撃と感動で目玉が落ちそうになるほど瞼を開いていたと思う。


 これの何がすごいかというと、この衝撃が映画のストーリーとしての衝撃以上のものがあるからなのだ。歴代の仮面ライダーが映画版で集まったり、スペシャルコラボ漫画で名探偵コナンと金田一少年が一緒に登場したり、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』が完結した際に他の漫画家が自身の漫画のキャラクターを太眉にしたり。これに近しいものがあるのだが、それ以上に『スパイダーマン』シリーズの主人公たちが集まるのはあまりにも非現実的だった。不可能だと思われていた。夢のタッグ、夢のコラボなんていうがそんな比ではない。夢とは多くの人が想像し、多くの人が願っているものだ。しかしこれは多くの人が願いつつも、想像はしていなかった。これは夢以上の事が起きているのだ。夢以上の共演を実現した『スパイダーマン:ノーウェイホーム』はこの一〇年でもトップクラスに面白い作品であった。


 では、これが映画の早送りと何の関係があるのだろうか。それは次の章で語る。



  ④自分で知る悦び


 『映画を早送りで観る人たち』という本は、「内容や結論を手短に知りたいと思いすぎている」「つまらない映画に時間を割きたくないと思いすぎている」という事を語っている。決して早送りそのものだけについて話しているのではないのだ。では、どうすれば内容を手短に知り、つまらない映画に時間を割かずに済むか?


 彼ら彼女らは、要するに情報を知りたがっている。ネタバレを求めている。「その作品が最終的にどうなるか知ってから視聴したい」と考えている。ただそれだけなのだ。しかしこれは非常に残念な事だ。そんな考えではこの一〇年でもトップクラスに面白い作品の『スパイダーマン:ノーウェイホーム』を楽しめはしない。


 実はこの映画も、勧められて観にいった。勧められた際、こんな会話があった。

「あの映画って、昔の敵が出てくるんですよね」

「そうだよ。だからね、めっちゃ面白い。あとね、とにかく観に行って欲しい」

「そんなに面白いんですか?」

「うん、あの面白さはね、観に行かないと知れないよ」

 すごくネタバレに気を遣っているなと思っていた。「まぁこれから映画を観るという人間にストーリーを教えるなんて、当然そんな事しないよな」そんなふうに考えていた。しかしそれは違った。実際に観て、あの気遣いの理由が分かった。私自身『スパイダーマン』シリーズの大ファンという訳でもないが、過去にこれまでのものを一通り観ていた。その上でシリーズのおける権利的な事情を知り、続編が絶対に作られない事実を残念に感じていた。だからこそ、先述の展開をその場で知った時はものすごく楽しめた。


 私は映画を観終わった後、本作の宣伝動画やPV、レビュー動画、レビューサイトなんかも観た。当然ながらレビュー動画とレビューサイトはネタバレにものすごく気遣っていた。さらにその上で、宣伝動画やPVのコメント欄にはどのような内容が書かれていたか。”面白かったけど、その理由をここには書けない”なんてものがあった。他にも”何も考えずに語り合いたいのにネタバレを気にして自由に語れない”なんてのもあった。


 さらに私は、海外メディアが公開前に『スパイダーマン』前シリーズ主人公の俳優にインタビューしている動画を観た。そこでは「私はこの映画に出演していないよ」と語っていた。


 これはつまり、『スパイダーマン:ノーウェイホーム』のネタバレを世界中の人々が防いでいたのだ。しかも皆誰に言われるまでもなく自分で防いでいた。元々この映画は完成度が高く非常に面白かったのだが、それ以上にある意味でみんなが特殊な方向で一体になった映画でもある。

 みんな「ネタバレしたら感動が薄まる!」と分かっていたのだ。その時、その場所で、何が起きたのか、それをリアルタイムで知ると、とんでもなく興奮する。だからその興奮を他の人にも味わって欲しい…『スパイダーマン:ノーウェイホーム』を観た人たちはそう思ったのではないだろうか。そしてその人たちの心の中には、ネタバレ情報でサクッと全部を知った気になるつまらなさを感じ取ったのではないだろうか。


 昨今のライトノベル等ではタイトルやあらすじで作品の全容をしれてしまう形式を取るものが多く見受けられる。しかしそれでも本格的な小説ではそんな事はしていない。同じように、ネタバレ無しで読みながら理解していく面白さを作者も読者も知っているからこそ、その形式を必要としていないのだろう。

 他にもニュースサイトの記事では、冒頭に「この文の内容をまとめると〜」と全て書かれたりしている。読みやすくする工夫なのはわかるのだが、たった数十文字で複雑な事件を伝えようとしているは少し無理があると思われる。


 現代社会では、情報や内容を手早くスピーディーに享受する事に躍起になっている。しかしそれでは本当に享受した事になるのだろうか? 感動も衝撃も興奮も何も感じずに何かを知ったところで、意味はあるのだろうか?



   ⑤話題を共有する


 ②の中で、映画を早送りする理由には「友人との話題についていくため」「世間の流行についていくため」があると述べた。ではなぜそうする必要があるかというと、一人が嫌だからとか誰かと交流していたいからと答える。要するに、誰かと心を通わせていたいのだ。

 ではそもそも「話題や流行についていく」とは一体何か。それはただ単に友人や世間と共通項を作ったり見つけたりするだけではない。

 もし本当に、ただ同じ映画を観ただけなのだとすると…

「観た?」

「観たよ」

 一瞬だけこんな会話が行われるだけだ。しかし皆、ここで終わらない。「どう思った?」「どこが面白かった?」あるいは「ここは面白くなかったよ」「このシーンが好きだな」自然とそういう話題に発展していく。


 つまり話題についていくにはただ知っているという事実以上のものが必要といえる。そして話題を共有するとは、単に知っているのではなく、感動を分かち合ってこそ。その上でやっと会話は盛り上がっていくし、話題を共有していると言える筈だ。こうして、そこで誰かと心を通わせられる。


 別に同じ感動を味わう必要は無い。悪い意味で感情を動かされたのならばそれで良い。ただ目の前の情報を欲し続けるのではなく、それを得て何を想い何を感じたか、『知る』という行為の本当の意味は、そこにあるのでは無いだろうか。

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『映画を早送りで観る人たち』を読んで思ったのは、その人たちは『スパイダーマン:ノーウェイホーム』を観るべきという事。 山木 拓 @wm6113

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