第87話.雪兎
晴れぬ硫黄色の雲。未だ敵陣地は深い雲の底にあり、生ける者は何人もそこを通ることは出来ないようだ。
空を飛ぶ鳥さえ、上空を横切ることも避けている。
この観測所に到着して数日。
同居人のウナとも打ち解けつつあり、いくらか話もするようになっていた。そんなある日、昼過ぎの事だった。
コンコンコン。
部屋で休んでいると、扉がノックされた。
「穂高殿!お届け物です」
「おい、タカ。客だぞ」
ウナがいち早くノックに気がついてそう言った。
「うん、入れ」
配達員は二人だ。失礼致します、と大きな声で挨拶をして入ってきた。大きな木箱を二人掛かりで運んできたようだ。幅はそうでもないが、長さは人の背丈よりも長い。
「誰からか」
「はいっ!浅間中将閣下よりお荷物とお手紙です」
「閣下からか、一体何事だろうな。ご苦労、下がって良いぞ」
そう言って、配達員らが部屋から去ったのを見届けてから先に手紙の封を切った。
手紙の内容には良い知らせと悪い知らせがあった。
悪い知らせはこうだ、セヴェスクに艦隊が集結し、ルシヤに増援が間に合った。正確な数は不明であるが、少なく見ても四万ものルシヤ兵が待機しているとの事であった。
対して日本側も、内地からの増援につぐ増援により北部雑居地の兵力は五万を超えている。ここまで兵を膨らませると、会戦以外に決着の余地はない。
毒ガスの雲が晴れ次第、正面衝突が起こるであろうという事である。どう転んでも大量の血が流れる結果になる。
「タカ、なんだこれは」
ウナが目を輝かせながら、落ち着きのない様子で問うてくる。長い木箱のことだ。
ちなみに穂高と呼べと言ったら、いつの間にかタカになっていた。そう呼ばれたのはいつ以来だったか、少し懐かしい気持ちで受け入れることにしたのだ。
「まあ待て」
手紙の話に戻そう。
良い知らせはこうだ。私を中尉に昇進させるということだ。こんな前線土壇場で星の数が変わっても素直に喜べないが、事実として受け入れる。恐らくこの会戦で、私も戦働きを求められる事になるのだろう。
そして最後の良い知らせ。
プレゼントだ。
床に置かれた木箱に目を落とす。物が物だけに、慎重に開封していく。
「なんだこれ?」
「鉄砲だな」
予想外のブツに拍子抜けしたのか間抜けな顔をしているウナに、適当な相槌を打った。艶のない黒に染まったそれは、鉄砲だ。
ただの鉄砲ではない、我々がいつも使っている小銃とは比べものにならない大きさと重量感。
両手で抱えるように取り出したそれはさらに強大な力を感じさせた。
「うおおっ!すげえな!」
「ああ、これは。すごい」
全長は私の背丈よりも遥かに長大であり、持ち上げるだけでも苦労する。目方は普段使いの小銃の三倍は優にありそうだ。
ただの鉄砲ではない。対戦車ライフル、いや対物(アンチマテリアル)ライフルと呼ぶべき兵器。
明而陸軍の新兵器として開発されたものだ。
今はまだ試作品の段階であり、実用実験を行うようにとの事である。今は私の専用品だ。
ある識者が音頭を取り、各部パーツは刀鍛冶らが機械よりも正確な指の感触で削り出した一品。銃弾も機関銃と同口径であるが、一発ずつ職人が手作りしている。
まさに科学力と技術の粋である。
手紙によると職人らは、「2000メートル先の兎にでも命中させうる精度を持つ」と太鼓判を押しているそうだ。射手の腕が確かならばという条件付きで。それで鉄砲の扱いが巧みだという私の元へよこしたという事だが。
「なぁ、こいつはなんて名前なんだ?」
おもむろにウナが言った。名前か、銃に名前をつけるというのは良くある事だ。戦場ではたった一人の自らを守ってくれる味方になる時もある。
「名か、銘だな。……2000メートル先の兎にも命中させる。本当にそんな代物ならこいつは雪兎だ」
「雪兎?こんな長大で黒い鉄砲なのに?」
「そうだ、雪兎いい名前だろう。試射してみるか」
私はウナを伴って雪兎を担ぎ出し、試し射ちをしてみることにした。
2キロ先の兎に命中できる精度があるとは大きくでたな。誇大広告でないのならば、こいつの実力見せて貰おうか。
悲惨な戦場にあっても、この時は新しいおもちゃを与えられた少年のように、少しだけ心が騒いでいた。
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