第68話.影
北部雑居地に仮の国境が引かれ、土地は南北に引き裂かれた。ルシヤ領と日本領、北の大地は二つの国に分割統治とされた。
それに伴いルシヤ領の日本人、日本領のルシヤ人はお互いの領土に移動することとなった。表面上はあたかも簡単に事が運んだかのように国内では報道されているが、実際には一悶着も二悶着あった。
人が移動すれば済むという話ではない。生活の基盤を全て失い、新天地に放り出されたもの。ルシヤと日本の混血の問題もあり、家族が引き裂かれたものもある。
土地と共に暮らしていた彼らにとっては、死活問題である。それはまさに文字通りの難民として両国に溢れた。
……
11月。
北部雑居地日本領、札幌。
本格的な冬の足音が聞こえ始めたある日。真新しい、いぐさの香る室内であぐらをかいた男が二つ、向かい合っていた。
「閣下、こんなところで油を売っていてよろしいのですか」
「くははは!そう邪険にしてくれるなよ、土産も持って来てやったろう」
「そういうつもりではありませんが。中将閣下はお忙しい身分でありましょう。私などにお時間を割かせるのは忍びない」
度々、浅間中将が我が家に来るものだから、その相手をしていると何もできやしない。少しばかりの皮肉を込めてそう言った。
実は中将と赤石校長は旧知の仲であった。その赤石の娘をめとったという事で、彼奴(きゃつ)の義理の息子ならば俺の息子に同じだなどと言って、結婚してからは良く通ってくれるようになった。
「ははは。相変わらず口が達者だな、いやそれが面白いんだが」
「お褒めに預かり光栄です、しかし私のような一少尉の所に通うというのは……。閣下には立場がありますから、本当に心配しておるところでもあるのです、御用であれば呼びつけて頂けたら参りますので」
「うむ。しかしな」
そうして彼は、すっと視線を斜め上に向けた。天井のシミでも数えてくれているのだろうか。しかし、次の言葉は天井とは関係のないものだった。
「それでは明子の料理が食えんではないか。あんなに美味いモノを毎日とは、幸せ者だな君は」
「はぁ」
明子は料理が上手だ。それだけでなく、家事一般については得意である。それは女学校で叩き込まれたというのもあるし、彼女の新しい事を吸収しようという好奇心旺盛な性格にもよる。
和食洋食にこだわらず、私が「こういう料理があってな」と言うと、必ずメモを取ってそれを作って見せるのだ。
前世の記憶から教えてやったのもあるし、陸軍で出た料理を話してやったものもある。
まぁ、たまに失敗するときもあるが、おおよそ材料の許す限りなんでも作って見せた。身内贔屓だが、彼女の料理は街の食堂のレベルではない。
「あれは誇って良いぞ」
そう言いながら、中将は懐をまさぐって煙草を取り出した。ふぅと一息、煙を吹き出したあと表情を厳しく一変させ、再び口を開いた。
「それとな、戦争がある」
「ついに露助(ルスケ)と、ぶつかるのですか。しかしそうなると、今度は小競り合いではすまないでしょう」
「そうだ、大きな戦いになる」
現在は日露、両国とも国境線となる川を挟んで睨み合っている形である。
「ルシヤ領に潜伏中の特務機関からの報告で、向こうから近日中に仕掛けてくる事がわかった」
「そんな情報を、私に知らせて良いのですか」
「構わんよ。俺はこの戦争で君を使おうと思っているんだ。日露(にちろ)戦争という国難を乗り越えた、そんな世界(にほん)を見たという君を」
「私の知識と経験が、役に立てば良いのですが」
「立つさ。そして弱気はいかんよ。俺の記憶が戦局を打破して日本を勝利させるんだと、それくらいの気持ちでいてくれねば」
中将は鋭い目でこちらを見た。本気だという事だろう、その表情から読み取れる。
「ルシヤはやる気だ。雑居地を足がかりに本州まで占領する気でいる」
彼は自分の煙草の灰が崩れそうになったのを見咎めて、一度灰皿を叩いた。気がつけば何の気なしに、その様子を目で追いかけていた。
「海軍は青島(チンタオ)を出たというルシヤの艦隊を潰す段取りだ。補給を断てれば、来たる決戦で彼奴等を撃滅できる」
「しかし国力が違います。短期的に見れば勝ちは拾えるだろうが、長期的に見て勝利するというのは難しい」
「それはそうだ。現実的にはいくらか噛み付いて、耐え凌ぎ、落とし所を見つける他ない。政治家は始める前から、戦争を終える方法ばかり考えているよ」
「……」
「だが俺達(りくぐん)はそんなことは考えずとも良い。どう勝つか、それだけを考えろ。やると言ったら絶対にやる、やれない時は国が終わる時だ」
「はい」
確かに。こうなっている以上、評論家気取りをしてもしようがない。それ見たことか、では国は救えないのだ。
勝たねばならない。首から上と首から下と、両方使ってなんとでもせねば。
……
玄関を出ると、はらはらと雪がまばらに降っていた。まだ積もるほどでも無いが、我が家にとっては初めての冬だ。
「穂高君、それではな。明子はもう入りなさい」
そんな浅間中将の呼びかけに小さな声で返事をして、一礼したあと明子は家に入った。
長話をしていたつもりは無かったのだが、辺りはすっかり暗くなっていた。
「そこまでお伴(とも)します」
彼は和装に帽子という和洋折衷スタイルが様になっている。背の高い中将と並ぶと、身長差はまるで大人と子供である。
「そうかね」
二人並んで、石畳。
月明かりも頼りない今日は、人通りもまばらである。ここは静かで、平和だ。
戦場は遠く、札幌(ここ)にいるかぎり、ルシヤの脅威を身近に感じる事はない。
ガス灯の明かりに、ほのかに照らし出された道を歩く。
「……」
「……君は」
中将が何か言いかけた時に、暗がりからふらりと二人組の男が現れた。二人とも下を向いて歩いているが、妙だ。
妙に、歩調が、揃いすぎている。
そう思った瞬間、彼奴等は懐から何かを取り出してこちらに駆けてきた。
いかん。
「閣下!」
男と中将の間に立ち塞がるように、前に飛び出る。男達の懐から出たのは拳銃。二十六年式に似ている、リボルバーのような外観の銃だ。
パンパァン!パァン!!
夜の静寂を、引き裂くように三つ、銃声が響いた。
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