13


『――ねぇ。花火は、好き?』


 ――もし過去に戻れたら。あの日に帰れたら。

 そう考えたことなど、数え切れないほどにある。


 狂おしいほどに求めて、悲しくなるほど足掻いて、それでも時計の針は決して後ろには進まない。


『――ねぇ。花火は、好き?』


 だから、たった一回の思い出を何千回と頭の中で繰り返しても、そこに残るのは苦々しい後悔の残滓だけ。

 必死に手を伸ばした対価なんて、得られやしない。

 強いて言うなら、遅すぎたんだ。

 後になって無様に足掻くくらいなら、二度とないあの瞬間に振り絞るべきだった。


 それ以外、自分を救える道なんてなかった。

 だって――もう、あの日自分がなんて返したか、それさえも忘れてしまったのだから。



「ねぇ、明日の夏祭り、一緒に行かない?」


 何の気ない一言だったと思う。

 あまりにも飾りっけがなくて、スルーしそうになってしまったくらいには。

 きっとあの日の自分も、「いいよ」とか「わかった」とか、愛嬌の欠片もないような言葉を返したはずだ。


 一応言っておくと、この言葉に向こう十年は苦しめられることを知っていたら、私だってもっと捻った返答をした。


「もちろん。嬉しいな、紗に誘ってもらえるなんて」


 だから今回は、気持ちを分かりやすく押し出してみることにする。

 あまりガツガツしすぎても引かれるだろうし、かと言って興味がないフリをするのも逆効果だ。

 ここは控えめに笑いながら、それとなくアピールできるこの返答がパーフェクトと言えるだろう。この十年の間に編み出した最適解である。


 私の快諾を耳にした紗は、微かに頬を赤く染めて口を結ぶと、不意に視線を逸らした。照れているのかもしれない。


「じゃあ、明日の放課後、駅で待ち合わせね。待ってるから」


 そう言うと、彼女はそそくさと自分の席に戻っていった。

 私はその姿も何度も何度も繰り返し目に焼き付け、ゆっくりと目を開けた。



「――。はぁ、今回はここまでか」


 蒸し暑い六畳半の中、私は汗で張り付いたパジャマをベッドから剥がすように起き上がる。

 日光を遮るカーテンが、気持ちのいい寝覚めを拒んでいるようだった。


 妙にうるさく木霊する規則的な音、その出処を見やると、時刻は六時過ぎを指している。

 少しばかり早起きな気もするが、睡眠時間は十分に足りているようで、寝起きから数秒しか経っていないのが嘘みたいに頭は冴えていた。


「嫌んなっちゃうね、ほんと」


 毎晩毎晩同じ夢ばっかり見て、その度に律儀に胸を痛めて、己の未練がましさが嫌になる。

 でもこればっかりは――後悔と未練だけは、理性でなんとかなるわけでもないから、甘んじて受け入れるしかないのだろう。


「……結局、初恋って一生引きずるんだろうな」


 誰もいない部屋で口にして、どうしようもない寂しさに包まれる。

 これからの人生を想像してみて、きっと幸せなこともあるだろうけど、それはそれとして絶対に消えない未練もある。

 私にとって、それがこれなのだ。

 

 結婚して、子供が生まれて、孫も生まれて。で、最期にたくさんの孫に囲まれて死ぬ時、『あの人はどういう人生を歩んだんだろう』って思いながら死ぬ。

 それが、私だ。


「……頭いた」


 余計なことを考えたせいで、澄んでいた頭の中がぐちゃぐちゃになる。

 考えても考えても解決しない問題に手を出してしまった、その自覚が生まれた時、私は押さえつけるように再び目を閉じた。


 意識を沈めて、もう一度あの日に帰ろう。

 ――いつもこうして、逃げ続けてきたのだから。



 夏祭り当日。

 浴衣に身を包んだ紗が、恥ずかしそうに私の視線を浴びる。


「あんまり見ないでよ、恥ずかしいから……」

「いいじゃん、似合ってるんだし」


 我ながら小っ恥ずかしいことを言っている自覚はある。

 でも、それでいい。だって、あの日言えなかった言葉だから。

 

 さて、時刻は18時45分。

 花火が19時から始まるので、そろそろ場所を移動しようと言われる頃だ。


「もうこんな時間かぁ。ここからだと花火が見づらいし、ちょっと別のところに行かない?」

「うん、行こっか」


 向かうのは、とある神社の階段を登った先。

 高台になっているそこは絶好の花火観測ポイントなのだが、もちろんそれを知っているのは私たちだけではない。


 18時48分。まばらに映る、階段を登る男女たちを追い越して、ふたりは歩く。


「これは、いい、運動にっ……なるね、はぁ」

「角度が、殺人的、だからね……ふぅ」


 一段が非常に高いつくりとなっているため、高校生の肉体でもキャパオーバーの重労働だ。

 花火でもなけりゃこんなところ寄り付かない。


 私たちは、一段、一段と踏みしめるように登った。

 一生焼き付いて離れない景色を見るために。

 18時52分。息も絶え絶えな紗が、貴重な酸素を消費して喋り始める。


「私、ね。お母さんが、いないの……ふぅ。小さい時に病気で死んじゃったんだけど……入院する前は、毎年家族で花火を見に行ってさ」

「――――」


 18時53分、強く焼き付いて離れないエピソードを、彼女は語り始める。


「私、花火はそんなに好きってほどじゃなかったんだけど……綺麗だなぁ、とは思ってた。そんな時、お母さんが入院しちゃって」

「――――」

「花火、連れてってあげられなくてごめんね、って。私はそれよりもお母さんにお家に帰ってきて欲しかったんだけど、はぁ」


 私が相槌のひとつも打てないもんだから、紗は休む間もなく喋り続けている。

 そして、18時54分――。


「最後の夏、もうあんまり体も起こせなくなってたお母さんが、その日だけ起き上がって――花火が照らすお母さんの横顔が、すごく綺麗だった」

「――――」

「ねぇ。最近の聖那、何かに悩んでる顔してる。その悩み、私には分からないかもしれないけど――――」



「――っ」


 目が覚める。

 さっきよりも酷く、身体中から汗が吹き出している。

 笑えないほどに繰り返し見てきた夢だというのに、この場面になるといつもそうだ。

 身体が、頭が、心が拒絶しているように、絶対にこの先を見せようとはしてくれない。


 きっと、私にとって思い出したら都合の悪い何かがあの先にある。

 それだけは確信してるんだけど、実際――十年前の彼女がなんて言ったのか、私にはもう思い出せない。


 思い出したくない、のかもしれない。


 五月蝿い心臓はいつになっても落ち着きを取り戻さず、かといって流石に三度寝をする体力もないから、私は枕元に置いてある電気ケトルのスイッチを押し込んだ。


 ――コーヒーを飲めば、嫌な夢と現実のことを少しだけ忘れられる。

 今までもそうだったんだから、今回もそうに違いない。

 そう無理やり自分に言い聞かせても、なぜだか今日は、正体不明の胸騒ぎが止まらなかった。


 このままではお湯を沸かしてる間にどこまでも堕ちていきそうだったから、ゲームでもやって気を紛らわせようと、スマホの電源を入れる――と、


「――あぁ、そういうこと」


 胸騒ぎの正体が判明する。

 ――7月18日。今日でやっと、あの日からちょうど十年だったのだ。

 カタンと、胸の中の何かが動いた気がした。



 私の高校時代は後悔だらけだった。

 だけどそれでも、綺麗な思い出として胸にしまっている程度には思い入れがある。


 そんな高校時代の象徴、後悔の象徴、未練の象徴。

 それこそが、紗という女性なのである。


 思い出は綺麗なままであるべきだ。

 一時の気の迷いで、その綺麗な思い出にメスを入れてはいけない。


 高校を卒業してから十年。

 その長い年月で、私は彼女のことを美化してきた。神格化してきた。まさしく、世界で最も尊い存在だと定義してきた。


 それが、私の身勝手で利己的な妄想であることなどわかっている。自覚している。


 現実の紗では、俺の中の『紗』を超えることは出来ないのだ。


 もし夢の世界から飛び出して、現実で十年分の時を重ねた彼女の前に立てば。

 間違いなくその思い出は、一生立ち直れないほどにズタズタにされるはずだ。


「ねぇ。最近の聖那、何かに悩んでる顔してる。その悩み、私には分からないかもしれないけど――」

「――――」

「私と、同じ顔してた」


 結局、私はどうして紗のことを好きになったんだろう。


 紗はいい子だ。だけど、普通の女の子だ。

 可愛いし、面白いし、話していて楽しいし、普通の女の子で、普通に好きになって、普通に終わるはずの恋だった。


 普通に魅力的な、普通の女の子。

 変な話、もっと可愛い子はいくらでもいるし、もっと性格のいい子も星の数ほどいるだろう。


 普通の、女の子だ。

 唯一他の女性と違う点があるとすれば、人生で初めて本気で好きになった人ということだけ。


 もし過去に戻れたら。あの日に帰れたら。

 そう考えたことなど、数え切れないほどにある。

 

 しかし、もし本当にやり直せてしまったら。

 全然違う世界に足を踏み入れることになるわけだ。

 それは、ひょっとしたら今よりも何倍も苦しいかもしれない。


 私には――私の人生には、少なくとも紗が常にいた。どんな理不尽な思いをして、屈辱を感じて、胸が苦しくなった時も。理想の体現として、彼女の存在を思い描いてきた。


 それがなくなったら、どうなるのか。

 彼女を失った時、私は。

 空っぽの空虚な人生が幕を開けるしかない。


 そう考えると、やはり一歩を踏み出すのが正解とは言えないのではないか。


 もし付き合えたら、喧嘩はするだろう。

 ずっと理想の存在だった『紗』に腹を立て、心無い言葉をぶつける私がいるだろう。

 そんなの、耐えられない。


 もし付き合えたら、別れるだろう。

 出会いがあれば、別れもある。

 ずっと仲睦まじいカップルのままいられるわけがないのだ。

 最悪のケースとして、彼女が事故で死んでしまうかもしれない。未来が変わるのだ、ありえない話じゃない。

 そんなの、耐えられない。


「――同じ顔?」

「絶対に譲れない思いと、見なきゃいけない現実の中で揺れてる顔。私にとっては……花火がそうかな。花火を見るといつでもあの頃に帰れる。だけど、いつまでもお母さんのことを引きずってちゃダメみたい……忘れたくないのに」

「――――」

「いつまでも子供じゃ、いられないんだね」


 こんな台詞は、知らない。

 その表情も、見たことがない。


 それは、理想の体現である『紗』がしてはいけない顔、一番見たくない表情。

 浅ましく卑しいこの私と同じ顔――未練だ。


 美しい彼女の横顔が、いつまでも女々しく思い出にしがみつく私のものと重なる。

 私と正反対の存在だからこそ抱いていた想いが、音を立てて崩れる。


 ――紗は紗であり、『紗』なんて虚構の存在はどこにも存在しない。

 そんな当たり前のことを、理解させられた。


 私の子供心は、否定された。

 そろそろ前を向いて歩き出せと、叱られた気がした。

 帰るべき現実があるだろうと、諭された気がした。


「ねぇ……」

『ねぇ……』


 ヒュルリと、音を立てて一筋の糸が紗の背中を過ぎる。


「花火は、好き?」

『花火は、好き?』


 大きな音が優しく私たちの耳を撫でる。

 ちっぽけなふたりを照らすその光は、とても儚く、美しいものだった。


 永遠にも思えた時間にも、終わりはある。

 どんなに綺麗な花でも、いつかは萎む。

 いつまでも変わらないでいることは、人間には不可能なのだ。


 それに気付くと、虚構が、妄想が、後悔が、未練が、自責が、罪悪感が、初恋が――優しく咲いて、消えていく。

 温かな光に照らされた紗はやはり、今までに見たどの景色よりも綺麗だった。



 もう何百回と聞いたアラームの音が、けたたましく鳴り響く。

 私は軋む体を無理矢理動かし、枕元の時計を叩いた。


 ぼんやりとした意識が徐々に覚醒し始め、枕に泣き腫らした後のような染みを確認すると、状況がわかってくる。


「――ゆ、め」


 私は体を起こすと、洗面台の前に立つ。


「え、ゆめ、どこから……」


 あの日の夢を見て、目が覚めて、二度寝してまた起きて。

 お湯を沸かして、その後は――。


「……なんか」


 なぜだか、鏡の中の顔は昨日よりもマシなものに見えた。

 なんとなくスッキリしていて、目付きも悪くない。

 腹を括った女の顔、とでも言うべきか。


 ま、夢を見たくらいでマシになる暮らしはしていない。

 いくら夢の中でスーパースターになったところで、現実の収入は十ウン万なのだ。


 だけど、考え方ならば。

 精神的な面なら、多少の変化を起こすことは出来るだろう。

 夢の中身は今もなお徐々に薄れてきてはいる。

 きっと、数日後には綺麗さっぱり忘れているだろう。


 だけど、心に小さな灯火が宿ったのは感じる。

 これの正体はわからないが――せめて消さないように、必死に生きてみよう。


 多分、悪い夢じゃなかったから。

 

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