獏
「────っ!!」
ハッと目を開いた瞬間、ガバリと起き上がっていた。
ぼんやりと明るい部屋。清々しい朝日。ふかふかの布団。
五感で感じているのは柔らかで気持ちの良い朝の光景であるのに、全力疾走した後みたいに上がった息も、汗でびっしょり濡れた背中も、震える手足も、何もかもがこの朝の光景には似つかわしくない。
──夢を、見ていた。
それも、とびっきりの悪夢を。それだけは覚えている。
だけど肝心なその『悪夢』の詳細を、私は忘れてしまっていた。
「……やぁ、おはよう。酷い顔だ」
そんな私の後ろから、のんびりした声が聞こえた。
「まぁ、仕方がないよね。あんな酷い悪夢、中々ないよ」
振り返って声の主を見遣る。枕元でクッションや枕に埋もれるようにしてうずくまっていたそれは、象のように長い鼻を猫が伸びをするように伸ばしながら、夢に誘うようなのんびりさで続きを口にした。
「大丈夫さ。僕が食べておいたから。もう同じ悪夢は見ないよ」
「……君、は?」
「あれ? 忘れちゃったの? それとも、出会った夢も、僕が食べちゃったのかなぁ」
んん~、と実にのんびり気持ち良さそうに伸びをしたそれは、短い足を伸ばして立ち上がった。と言っても、立ち上がってみた所でそんなに大きさは変わらない。それくらい足が短い、実に不思議な存在だった。
象のように長い鼻。フルリ、フルリと揺れる牛に似た尻尾。ガッシリしている分短い四本の足。全体的にもっふりしていて、前も後ろも細長いフォルムをしている。つぶらな瞳がデフォルメ感を強調していて、ぬいぐるみの山に埋もれていたらそういうキャラなのかと錯覚してしまいそうな雰囲気をしていた。
「僕は
「……妖怪?」
「そうだね~。でも、ヒトの子とは仲良くやってきたつもりだよ~」
動物のバクは草食性らしいけど、妖怪の獏はヒトの悪夢を食べる。中国から伝わってきた妖怪であるらしく、かなり古い時代の文献にも記述がある由緒正しき怪異だ。昔の人は悪夢避けのために枕に獏を彫ったり、『獏』という文字や獏の姿が書かれたお札を枕の下に敷いて寝たという話もある。
──ってことは知ってるけど。……本物はこんなに可愛い姿だったの?
「悪夢のニオイに引かれてきたら、君、なんだかすごく悪夢を引き寄せてるみたいだったからさ。しばらく僕がここに留まって、君の悪夢を食べてあげようって話になったんだよ」
「……覚えて、ない」
「出会ったのが夢の中だったからかもね~」
……この獏にいつ出会ったのか、いつそんな約束をしたのか、全然覚えていない。
だけど、ここ数日夢見がずっと悪かったのだろうということは、気だるく続く倦怠感から事実だと分かった。さっきまで寝ていたはずなのに、全然疲れが取れていない。試験前に一週間くらい毎日夜更かしして遅くまで勉強していた時と似たようなダル重い感じがする。
「さぁさぁ、もう大丈夫! 現に君は悪夢の内容を覚えていないんだろう?」
獏は尻尾を揺らしながらのんびりと言った。その言葉に私は躊躇いながらも首を縦に振る。
「忘れちゃったならもう大丈夫だよ。さぁ、今日も学校とやらがあるんだろう?」
獏が鼻先で目覚まし時計をつつく。何気なく視線を向けると大分時間を喰ってしまっていた。そろそろ急いで支度をしないと間に合わない。
私は慌ててベッドを飛び降りると着替えを始めた。チラリと視線を流すと獏はクッションに埋もれるようにして丸くなっている。
「……そんな所で寝ていて、大丈夫なの?」
「僕を見つけられる目を持つ人間は、今の世界にはそんなにいないよ。お腹いっぱい夢を食べたから、眠たくなっちゃったんだ」
クァッと猫のようにあくびをした獏は、つぶらな瞳を閉じてうつらうつらと夢の中に入っていった。ヒトの夢を食べるという獏は、一体どんな夢を見るのだろう。
「おやすみ。……ありがとね、悪夢を食べてくれて」
眠りを妨げないように小さく言葉を添えると、パタリと一度尻尾が揺れた。こんなに可愛い妖怪もいるのかと、思わず私は口元をほころばせる。
その瞬間、ふと、私の脳裏を疑問がよぎった。
──でも、こんなに可愛い姿をした妖怪が相手といえども、この私が簡単に妖怪と約束事をするとは思えないんだけど……
人ならざるモノとの約束は、ヒトが必ず痛い目を見る。だからどんなに見た目が可愛くても、どんなに善良に見えても、どんなに小さな約束事でも、気軽に交わしてはいけない。
──私はそれをよく知っているはずなのに、今回はどうして……
制服を着こみながら考える。だけど獏がピシリと尻尾を鳴らす音を聞いた瞬間、パチンと疑問は弾けて消えてしまった。まるで飛び起きた瞬間、さっきまで確かに見ていたはずである夢を綺麗に忘れてしまうかのように。
疑問を忘れてしまっても時間が危ういことだけは覚えていた私は、通学鞄をひっつかむと部屋を飛び出した。枕元でまどろむ妖異を部屋に残したまま。
「もう、見ないよ。同じ悪夢は……ね」
扉を閉める瞬間小さな囁きが聞こええたような気がしたけれど、何と言っていたのかは、パチンと弾けてしまって覚えていられなかった。
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