断片集 8




「この船は曰くつきで、昔、どこかの海賊が所持していた船なの」

「おばけとか」

「いいえ。財宝をかくしてあるんですって」


そんな声で、目を覚ます。どこかのおばちゃん3人組だ。

豹柄の服を着た、パンチパーマのおばちゃんに話しかけてみる。

「そうなんですか?」

「あら。こんにちは」

「はい。こんにちは」

「お宝があるんですか?」

少し細身の、紫の服を着た女性が言う。

「噂だけどね」

「そうなんですか」

「まだ、見つかっていないって噂よ」

「へぇえ、見つけたらお金持ちになれるかな!」

「そうかもしれない!」

そんなわけは無いけど、それらしいこどもっぽい会話をしておく。

3人の一人、黄色いTシャツを着た銀髪の人が言う。

「でも、まぁ、大体探しつくされているよ」

「まあ、そうですよね」

ぼくは頷いて、その場から歩いた。

曲がり角で、白いワイシャツを着たあの男の人と会った。

「こんにちは」

声をかけてみるが、あ? と言ったっきり、返事をしてくれなくなった。

まあ、いいのだけど。

何か探しているようだ。ここは1階で、ホールを抜けてきたところ。

女の人も男の人も、もしかして財宝を探しているのかな。

っていやいや、そんなわけないか。

「信じて、欲しかったな……」

胸が、きりきりと痛んでいる。

ぼくは、瑠茄先生みたいに、強くなれない。

昔のことを思い出す。憂鬱だ。

再び歩いた。なんだか、最近よく眠れない。

自分の一言一言が歪んでいくみたいな錯覚に、どんどん嫌になってくる。







「ユキ。ぼくは人を好きになれない。嫌いってことじゃなくて」

「興味が無いのか?」「わからないんだ。他人なのに自分のために何かしてくれるとか、そういうのが、こわいなって思う」「ははあ、それは嬉しい、じゃないのか」

「嬉しいのかな、わかんないんだ。すぐに《きっと居なくなるなー》って思うからかな」「そうなのか?」「話しても途中で飽きてしまうし、そんなに遊びに行きたいって思わない。一緒に居ても、傷つけてしまうだけなんだ。相手のプラン通りとか相手のことを考えてとか、そういうのが出来ない。電話もすぐ切ると思う。そこまで寂しくないし、上手く言えないからいちいち会話を無限ループ地獄にしてしまうと思う。かみ合わせることが苦手みたいだ。だから、みんな呆れて最後には嫌ってしまうんだ、誰だって例外なくそうなんだ」「ネネは何が楽しい?」「ぼんやりその辺の町を眺めて、適当に日が暮れて、爪楊枝でタワーを作るのに5時間使う、そんな感じの無駄すぎる毎日が好き」「爪楊枝でタワーを作るんだ……」「一緒に作ってくれる人居ないかな」「どうだろ、あまり居ないだろうな」「そっか。でもね、特別なことって苦手なんだ」「特別は、ほかが無いからか?」「ううん、誰もいないから、全部特別なんだ、特別ばかりだから、そこからひとつを選びたくないんだ」「そうか、まるで浮気癖のある感じの」「違う」「ごめんごめん」「好きと嫌いが、同位置にあるのかもしれない」「そうか」「でも、それを責められてしまうくらいなら全部嫌いでいいって思う」「そうか?」「だって悲しいだろう、誰かが好きになってくれたところで、ぼくは一生何にも思ったりしない。冷たいだろう」「それは違うよ、だって今こうして私と話してくれている」「それは……誰にだってそうすると思うよ。誰だって好きなんだ、たぶん」「ふふふふ、そうか? でも、私が倒れたとき、助けを呼んでくれたんだろう? 偶然通りかかったんじゃなくって」「それ、は」「それにナツを庇ったんだろう?」「どうして、それを」「でも違うって言ってた。なぜだ?」「だってあいつ、自分のことをクズだとか言うんだ。ぼくは嫌いなクズなんか助けたりしないのに。酷くない? ごみを愛でてる変人って言われた気分なんだけど。仇で返された気分。もう口を利かない」「あははははは! それはナツが悪い」「だろ?」「そっか。きっと、いろんなものが好きなんだな」「うん。でも、ぼくはいつも、誰かを傷つけることしか出来ないから……」「そうか?」「そうだよ、だから、もう、終わろうかなって思う」

――道の途中で、古里さんとぶつかった。

ぼくが頭を押さえていると、ピンクのワンピーススタイルの彼女は『あ、ごめん』と謝り、それから言う。「誰に見られているかわからないでしょ?」

「えー。でも、そんなの自意識過剰だって、思いますけどね」

彼女の眉がやや釣りあがる。

「ぼくみたいに、それほど有名人とか興味ない人も居ますし。歌が好きだからって作曲者に会いたいのか、アイドルに会いたいのかって、分けたらまた違う話になってしまいます。歌だけがすきだって人も居るでしょう。それもまた、当然」「私に会いたいに決まっているでしょ」こめかみをぐりぐりされた。痛い……「でも、有名だからって、みんながみんな興味を持つわけでもないですしー。ぼくも帰りたーい」

「よろしい。喧嘩を売りたいわけね?」

追いかけられて、ぼくはぱたぱたと廊下を走る。

「わーこわーい」


あれ。

一度目を覚ましたはずなのに、また目を覚ました?

なんだかよくわからない。

そばに、ナツが立っていた。船は、少し波のある場所にいるからか、微妙に揺れている。

「どうかしたのか」

目の前の人物は、ぼくに不思議そうに聞いている。

ここは、客室の、ひとつ。だと思う。少しお洒落なホテルみたいな内装だった。

「いや、お前の秘蔵過去を思い出しただけ。いやぁ、あれは……やばい」

ぼくが、寝ていたベッドから布団をはがして起きると、備え付けてあるらしき丸椅子に座りながらそいつがじとーっとこちらを見る。

「俺の秘蔵過去を思い出すような夢をなんでお前が見るんだ。やばいんだ?」

冗談だよ、冗談。

「っていうか、ぼくは今先ほどまで走っていませんでしたか」

「ええ、今先ほどまで走っていたけど、急にばたんと倒れてしまったので、古里さんは次のステージに行くらしいし。偶然通りかかった俺が、代わりに看ているというわけですね」

「成るほど、左様ですか」

「ええ。で、何、軽い脳震盪みたいな?」

「うーん……やっぱりさっき古里さんにぶつかったのが効いたのかな……」

「うわ、それ大丈夫か」

「たぶんね」

なんだろう。ふわふわしているらしい。真から電話が来たのも夢だったのだろうか。

ぼんやりした頭で、ぼくは言う。

「ごめんね傷付いて」

お前が泣くな、と怒られたのを思い出しながら言う。

ぼくはたぶん、傷付いてはいけなかったのに。

「え?」

そいつは、きょとんとしている。

「言うつもりは、無かったんだよ。これは、黙っておこうと思っていた。そしたらきっとぼくだけが悪いことになって、それで全部終わってもらえると思ったんだ」

そいつは。

表情を変えない。

台詞だけでは伝わらないほど、強がっていることまで、ばれているのかもしれない。

「やめて欲しいというのは、単に、もう構わないで欲しいんだ。そしてぼくから解放されて、好きにして欲しい。きっとぼくは、勝手に傷付いて行ってしまうから。ぼくが傷付いていると、誰かが怒る、でも、状況を上手く伝えられない。だからますます困らせてしまう。でもぼくは自分がどう傷付いていても、それをやっぱり上手く表せない。そういうものだから、だから耐えようと思ったけど、やっぱり、そばに居ないのが、一番だよ。誰にとっても」

「なんで、そんなに、自分に引き受けるんだ?」

「だって、ぼくは、なれているから」

「慣れているって、そんな!」

そいつは、驚いたような声をあげた。

少し、辛そうだった。

そんな顔をどうせするのだから、黙っておきたかったけど。

今日は、一体どうしてしまったのだろう。

今からフラグでも立てるのかってくらいに、なんだか感傷的になっているようである。

「いつ、ここから消えても。この世界から消えても、いいやって、思ってたし、最後の記念にしようと思ってたし。終わりたいのに、なかなか終われなくなるよね、下手に誰かと関わるとさ。せっかくの『記念品』が、おかげで全然記念品じゃなくなっちゃうじゃない」

ぼくが言うと、そいつは悲痛そうに顔を歪ませる。

「よく、無いだろう?」

いいよ。

だって、現実に現実感が、無くってね。

ずっと、ふわふわしてた。漂っているみたいな毎日だった。

人は一人だ。一人だけど、それは沢山居る。でも、つらかったな。苦しかったな。

「気にしないで欲しくって、言わないように、するつもりだったのに……きみがあまりにも、こっちの話を、ちゃんと聞いてくれないから。感じてくれないから。なんか、悔しくなってしまったよ」

「…………」

何を、思っているのだろう。よくわからない。

「ぼくが傷付いても、放って置いて欲しいんだ」

「        」

掠れた声で、そいつは呟く。なんて言ったのか、よくわからない。


「『自分が傷付くときは、その前に誰かを傷つけているのかもしれない』これは、おばあちゃんが言っていた言葉だ。誰かに、無意識に言った何かや、行ったことが、やがては自分への反応に返ってくるから、気をつけなさいってこと」

「…………」

「だから、ぼくが勝手に泣いたり喚いたりすべきなのかわからない。もしかしたら、この状況だって、なにかの『報い』なのかもしれない。誰かが、傷付いたかもしれない。だから、こんなに苦しくなる必要がぼくにはあるのかもしれない。もしそうなら、それを誰かにぶつけるのはおかしい」

「それは――――それは、違……」

「だから、身勝手だって、思ってしまうんだ」

泣くのも困るのも喚くのも怒るのも。

「だから、方法を、探すことにしたんだ」

感情を、放棄して、解決策だけを模索して、疲れたら眠る。

「でも、何を、したのかなぁ?」

×××××さんが、ぼくに不気味だって言って、それで。

「何を、したのかな……いつも、探してるけど、わかんない」

何度も、頭を。

「でも、×××××さんを、嫌いにならないんだ。不思議だな。いらいらする日もあるけど、ときどき、もしも、もっと痛みに耐えていたら、ぼくを許してくれたんじゃないかって」

「それは、ちが――」

真に刺されたときの、肩の傷が、首の横の傷が、少しひりっと痛んだ気がする。


「だからね、許されるまで、ぼくは、傷付いたりしないことに、したんだよ。それは、我がままだって、思って。自分への、枷にしたんだ」

きっと、苦しかったのだ。×××××さんも。

「そのつもり、なのになあ」

しゃがみ込むと、涙が溢れてきた。怖くて、辛くて、懐かしくて、よくわからない気分。

ポケットに入れていた紙が落ちる。

それには、矢印が内側にぐにゃっと描かれている四角の絵が描いてある。


少しだけ開いていた窓から、青い空が見える。

広くて、境目の曖昧な、そんな空だった。



「どうしてもこの船でやりたかったのよねー」

少しして、ぼくのお見舞いに来てくれた古里さんが、そう言いながらりんごを差し出してきた。でもぼくは、歯がそんなに強くないし、このままじゃ食べられないな。

ベッドに座って、一応話を聞く。

「オーナーさんが、急に、無料で貸してくれたのよ。なんたってー、私の大ファンらしくて!」

「へぇ」

「他の貸し出しがあったみたいだけど、私が頼んだら、席を空けてくれちゃった! まぁ、その先客さんも、他の用事で使うだけみたいだし、私、ステージ使うくらいだからね。でもでも、すごくない?」

「権力による脅迫罪ですかー。すごーい」

こめかみをぐりぐりされた。

少しして解放されたぼくは、もらったりんごを持て余して、手で潰そうとしてみる。

この前テレビで観たのだ。プロレスラーさんがぐしゃあってやるのを。

「…………あら」

全然潰れなかった。

「何してるのよ」

古里さんが、ぼくからリンゴを取り上げる。

「あー」

そして、そのまま、ばりばりと食べてしまった。お、恐ろしい人……!

唖然としていると、彼女は「私、歯磨き粉のCM狙ってるから」と淡々と言って、部屋から出て行った。

へえ、そうですか。

部屋に、ユキが入ってくる。

「どうした?」

「おお。ユキ。久しぶり」

「さっき会ったぞ」

そうだっけ。

「もしこれが、最後になっても、ぼくのこと、たまに思い出してね」

「何を言ってるんだ」

「ん? なんか、きみの顔を見ていたら、言いたくなって」

ぼくが言うと、ユキは近くにそっとしゃがんだ。

「なに?」

「どうかしたのか。とても、辛そうに見えるが」

なぜ、ぼくが辛そうだと、そんな顔をするのだろう。理解できない。

戸惑ったけれど、すぐに笑って言う。

「いや、何も無いよ、ちょっと、疲れているだけ」

「そうか。もし何かあれば、言うのじゃぞ」

「うん。あのね」

「ん?」

「いままで、そばに居てくれてありがとう」

「ははっ。どうしたんじゃ、気味が悪い」

ユキは笑っている。

何にも汚されない、曇りの無い笑顔だ。

「ぼくが生きているのは、ただの暇つぶしだった。だから、そもそも、あまり、価値を持たせたり愛着を持たせたりするつもりはなかったんだけど――たまには、一度くらいは。普段しないことを真面目にして、それで終わろうかなって思っていてさ」

「終わるって、何が」

「ん? 世界だよ」

「そっか」

「時間が、来たのかもしれない」

ユキと、昔の話をした。

××ちゃんのお墓参りには、一緒に行ってくれるらしい。

「ねえ、あの頃のぼくたち、覚えてる?」

「ああ。覚えているよ。今更言うでもないが、特に二人は、かなりいかれていたな……」

「真くらいだよね、未だにあんなんなの」

先月、真に会いに行った話は、もしかすると、もうしないかもしれない。

まあ、あれだよ、めんどくさい。

あと、思い出したくないし。

あいつ、ぼくが誰かを連れてくるとすぐに疑心暗鬼になって暴れてしまうから、なだめるのが大変だった。どうも、あれだ。ぼくはたぶんヤンデレ属性に懐かれる傾向があるのではないか。でも、なんだか憎めないっていうか……はぁ。

「真は、元気なのかな。夢ちゃんのことは」

「言ってない」

「そうか……」

ユキは、少し沈んだ顔をした。夢ちゃんは、真のきょうだいだ。

そして、重なる実験と、真のアバンギャルドな性格に耐えられずに心を病んでしまって、ずっと精神科の病棟に入院しているんだけど、真の中からは消されている。

夢ちゃんは、普段は、うとうとと、部屋の中で眠っているのだ。

「あの子、たぶん、正常だと思う」

ぼくは言う。

「あの環境から離れて、それで、少しだけ平凡な場所に行けば、良くなる気がする」

「どうして」

「会ったことがあるけど、意思ははっきりしているし、感情もはっきりしている。でも、真に会いたくないのか上へ散歩に行こうとだけはしないみたい」

「それだけでは」

「わかっているよ。それだけじゃない。うまく、今は言えないけど」

「そういえば」

「ん?」

「どうしたんじゃ、あのスパイセットは」

「あー……仕掛けてきた」

「どこに」

「んー。なんか、怪しい人が居たから」

曖昧なことを言っていると、ユキは疑問そうにこちらを見る。

「アイドルにまるで興味無さそうな感じだったし」

「そんなことで、使ってもいいのか?」

「よくないけどなんか、気になって」

こわい目をしていた。昔から、なんとなく、そういう勘は当たる気がする。

「あ、後で回収に行くから! きっと気のせいだと思うし」

慌てて言うと、ユキはならいいけど、という顔でこちらを見た。

することもなく2階に上がる。2階に上がるタイルの一部分には白いハートが青地に描かれている。そういえば1階からおりたときは暗くてよく見えなかったけどそういうのがあったのだろうか。外は、いつのまにか雨なのか曇っている。

廊下の壁際では黒いシャツの女の人が、熱心に船内図と、なにかの書かれた紙を見ていて、こちらに気付くと、嫌そうな顔をしてどこかに行ってしまう。

「なんだろ」

「さぁ」

二人で言い合って、でもすることも無くて歩いた。

一部分の壁には、インクがうつってしまっている。

さっき彼女が壁に寄りかかって書いていたのだろう。

うっすらと読める字は「LOVE」「3 5A」

…………バンドか何かの、歌詞?

船内図のどこにもラブとかを示すようなものは無い。クラスの集合写真のための落書きでも思案していたのだろうか。

目の前に見える客室のドアが開いていたので、ぼくたちはそちらに入った。

あの白いシャツの男がやってきて、そして、こちらを驚いた目で見た。何?

「部屋を間違えた」

雑に言って、ドアをばたんと閉められる。

えー…………

「なぁ、ネネ」

久しぶりに、名前を呼ばれて、ぼくは「ん?」と反応する。

「これは、なんだろう、ラムネかな?」

床に、ラムネみたいなものが落ちていたらしい。拾いながら首を傾げられる。

青くて丸くて、もしかしたらパイプを綺麗にするやつかもしれないけど、やっぱり、お菓子かな。

「落し物だよきっと。もしかしたら、さっきの男の人はここの部屋の人なのかも」

「だが、部屋を間違えたと言っておったぞ」

「うーん……間違えたかなー? と思ったんじゃない? ぼくたちが此処にいるから」

「だが、今日はステージが貸し切りってだけで、他の客は」

「そうなんだよね。単に照れ隠しなんじゃないかな」

「なるほど」

ポケットから、階段を降りる音がする。

やっぱりさっき会ったときに回収しておくべきだったなと思う。

二人で、ラムネをどうしようか考えつつ、下に向かう途中で、ナツに会った。

「ああ。久しぶり」

「お前、会う人ごとに久しぶりって言ってないか?」

「うん…………」

なんでだろう、なんとなく実感がわかない。

誰とも会っていないような、実感を持って、意思を伴ってそばに居てくれていたはずのものが、気付いたら似ている何かに置き換えられてしまって、そのままそうなってしまったような。

まるで、今まで似ていても違う人だったはずなのに、もはや似ている知らない人に成ってしまっているような……

「熱でもあるのか」

ぼくは首を横に振る。でも少しからだがだるい。

「真が、熱があるみたい」

お見舞いに行かなきゃな。

何を、持っていったら、喜んでくれるのだったっけ……なんだか頭が痛い。

いっそ早いこと、どこかに。

「おい、何持っているんだよ!」

そいつは急に怒ったので、声が耳に響く。ぐわんぐわんしている。

「………何?」

「それは、どこで手に入れた?」

「え?」

手に持っていたのは、ユキがさっき拾ったラムネだけど。

駄菓子みたいにパッケージがあって、中にラムネが二つ。

「落ちていたんだ」

そう言うと、そいつは、驚いたように口を開けた。

「それは、俺たちが持っていてはいけないものだ」

「なんで? ラムネだよ」

「違う。これは薬だ。使用が禁止されている、危ないやつ」

「え――」

ぼくは、呆然とする。禁止されている薬だって?


「なんで知っているんだよ」

聞くと、そいつは、遠い目をして言う。

「なんとなく」

「使ったことが?」

「ないない。ただ、俺の痛み止めにも、そういう効果があったりする場合があるから、そういうの、調べてしまう」

そういえば、こいつはたまに、事件や事故が起きそうな場所で、身体が痛くなるんだったか。でも、今はそうでもないから違うと思っていたが。

もしやそれは、殺人事件じゃないからだったのか。

「こういう風にして、運んでいるのかもしれない。この船に隠してあるそれを集めて、外に運ぶ気だ」

別の仕事の二人、か。古里さんがそんなことを言っていたな。

仕事って、もしかして『これ』なのだろうか。

「だとすれば、犯罪、じゃな」

しばらく黙っていたユキが言う。

でも、どうやって、それのありかを探しているのだろう。

こんなに部屋が沢山――――

「全部を見る必要はない」

いつだったか、そんな言葉を秋沙さんから聞いた気がする。

一部分。フェイク。

そうだ、そうかもしれない。

これは暗号なんだ。

廊下の壁に貼ってある、緊急避難経路の書かれた船内図を見る。


しかし記号を『鍵』に当てはめるとして、でも、どうやってその記号を使っているんだろう。フェイクがどれで、どれが必要なものだろう。

そういえば、せっかく盗聴していたのに、それらしい音は何も聞こえてこなかった、と思い出す。ただ、階段を上り下りする音が聞こえたくらいだった。

「もしかすると、何かの目印を見て、動いてるのかもしれない」

例えば、絵、ピクトグラム……

「そうだな、そういうものであれば、言葉は関係ない」

「暗号……」

四角の中に矢印の描かれた紙を見せる。

「実は、廊下でこれを拾っている」

ナツは言った。

「なんだそれ」

ぼくは、何も答えず、船内図を眺める。

そういえば1、2、3、4、って、地下のタンク、ボイラー室を入れたら、ここの階の数と同じだ。

矢印を見ながら、船内図に照らし合わせると部屋の辿り方がわかる。

「まずは、4階だ」

矢印が下、右、上、右、上、下、下、となっている順に沿って、ぼくたちは下を目指そうとした。そのとき、ユキが言う。

「でも、その辿り方じゃと、もう、下、つまり1階に居た方が結果的に先回りになるのではないか?」

それもそうか。全部を解く必要も無い。

1階に来たら、捕まえることもできるんだ。

「でも」

ナツが言う。

「道順はわかっても、結局どの部屋かなんて、どうやって見分けるんだよ」

それは…………

うーん。

「いいんだよ、勘で」

「よくないだろ」

「そうだけどね」



なんてやっていたとき、彼女に出会った。パッチワークのワンピースを着ている彼女だ。それから小さな女の子が、こちらに手を振っている。まるで、頑張れと言っているみたい。

なんだかそれを見て、頭の中が途端にすっきりしてきた。

ああ、なるほどね。そういうこと。

「わかった、わかりましたよ……最後だし、ね」

やりますよ。

あーあ、愛着とか、思い出とかって、持ちたくなかったんだけどな。



ホールに行った。

1階のホールくらいしか、もう隠せる場所は無さそうだけど、と思いつつも、どこで話そうかと思っていたときだった。

ちょうどどこかに(たぶん、隣町)に到着したみたい。

もうすぐ客が降りていこうとしていた。

興味が無くてあまり話を聞いていなかったぼくは「え?」と思う。

ユキが、彼女のゆかりの地である水族館に寄るみたいだぞと囁いてきて、ぼくは納得した。これなら、どさくさに紛れて、人が多くても探せるよね。

もう、彼らは来ているのだろうか。

見当たらないけど、でも、たぶん、ぼくらが捕まえられるチャンスは今しかない。

ステージから降りようとしていた古里さんから、ハンドマイクを奪うと、ぼくは、ステージに上り、呼びかける。

「待ってください!」

周囲が、ぴたりと動きをやめ、変な小学生を見上げている。

帰りたい。

「この紙を拾いましたっ」

言うと、辺りがざわついた。

そりゃそうだ。

「えーと……じゃなくて。この船で」

小学生が何か言ってもな、とふと思う。

そのとき、横から母さんが出てきて、マイクを奪って、そして手からラムネを取り上げて、見せながら言う。

「趣味で探偵をしていたものだが! 今日、この船に麻薬密輸の証拠が乗り込んでいるときき、オーナーからこの船の調査を依頼されていた!」

きぃぃぃぃいいいいいんと、マイクがハウリング。うるさい。

みんなが、ぞろぞろと、ホールに戻ってくる。この、謎の説得力の差よ。

そして単なるデートじゃなかったのか。

「しかし、取引方法がわからず、あれこれと、策を練っていたのだが」

「どうやら娘が、彼らの暗号を解いてくれたらしいのだ。ははは、さすがわが娘だな」

「はあ……」

別に嬉しくない。

帰りたい。

早く出してほしい。

「暗号ってー? その紙はなに?」

と、どこからか声が飛ぶ。

ぼくは二度とやりたくないと思いながら説明する。

「この経路通りに進むと、フェイクに惑わされず、暗号文を、割り出すことが出来るんです。縦とか、横とか」

「どこから進めばいいかの目印だね。これを知っている人が、暗号を解くことが出来るわけだ」

台詞をとられた。

この暗号の欠点は、鍵が拾われたらまるわかりなこと、解きなれていれば、別に並び替えなくても勘で解けてしまったりすることだけど、一見、船という形にあわせて立体になっていることで、少しわかりづらくなっている。

「なるほど」

ステージを降りた古里さんが近づいてきて、頷く。

「で、つまり、何、これ」

「これは、一種の転置暗号だった、ってことです」

ぼくは言う。

「天地?」

「転置です」

ややこしいよね。

「この船を道順に見立てた暗号」

「なるほど」

ユキが頷く。

どこかから、パッチワークのワンピースの彼女と、秋沙さんが、二人組みを連れてきた。

ふと、納得する。ユキが、あの母さんに協力して、盗聴器をぼくに仕掛けさせたな……

まさか、そんなほいほいそういうのを持ってきてるやつじゃないとは思っていたけど。

黒いワイシャツの女の人と、女性より背の高い白いワイシャツの男の二人組だ。


女は、狐みたいな目をしている。

彼女は、何も言わないけど、こちらを睨んでいる。

「ここで、取引をする計画だった、でしょ?」

ぼくが言うと、彼女たちは、むすっとした表情になった。

「そして、取引相手が送ってきたのが、この紙と、船の見取り図だった。うっかり、ショーのために貸し出してしまうアクシデントのせいで、こんな日に実行することになってしまったようですけど」

男が、ちっと舌打ちする。

「並び替えるための文字をただ隠すのでは丸わかりだし、何かの拍子に消されてしまうか


もしれない。だから何かに紛れ込ませる必要があったんですよ。例えば、カーテンや布地などの模様とか」

1階2階を回って、順にカーテンの柄を確認、模様を回想する。

1階につき12部屋あるのだが、カーテンの柄は葉、太陽、ハート、星、鳥、天使、というふうに各階ごとで繰り返されている。

4階、3階、1階、2階。

この船は3階までだ。

だからきっとここでいう4階は、地下のこと。

「4階って地下でしょう。カーテンなんか無いけど?」

黒いウエーブした髪をなびかせてエナが言う。そうだ、そんな名前だった。

パッチワークみたいなワンピースを着た、お姉さん。

「それは、たぶん、配管などの番号で代用しているんだと思います」

「なるほどね」

「3階は」

「3階は、旗が立っています」

下から始まっている理由は、上から見た際に、格子に見立てるためだろう。

見取り図を見ていた理由。

それは、転置暗号を再現するためだったらしい。

ここでは4階から1階までの経路を使ってそれをしている。

そして恐らく、黒いシャツの彼女はハート、トリ、など、目印のあった場所を、別の言葉、LOVEなどに置き換えてメモしていたようである。用心深い人だ。

例えば、紙で言うと4312の順で部屋を回って、経路図に縦線と横線を引いて格子を作り、鍵に書かれた順序にそって、文字を入れていくと暗号にするための並び方をした言葉が出来上がる。

ここでいう順序とは、4312の各部屋の回り方のことだ。この船の内装では、一部の床に、飾りのタイルが交互に散りばめられている。特に、部屋と部屋の間を繋ぐ、中間地点のタイルはそうなっており、各階に上がるときに、ちょうど真っ先に目に入る。

「これ、使ったんでしょ?」スピーカーのそばに置きっぱなしだった、飾りのタイルを拾い上げて指差す。男が、じろりとこちらを向いていた。「枠、ここでいう、部屋数12ですね。ハート、月、トリ、という風に、足元のマークを見ながら各階の部屋を移動すると、その柄のカーテンの部屋に隠してあるという具合で、3階については近くの島の方向とか、4階に隠してあると示してあるとかのどちらか。平面でないのに矢印を使った必要性は、局の人と鉢合わせないうちに探すためなどの理由から、事前に部屋の入り方を仕組んであったんだと思います。色は、たぶん、量や内容物の説明を示しているんでしょうね」

しかし、掃除の人に変装するほうが、容易いように思えるのだが。

古里さんによれば、掃除はオーナー任せなのだという。

ちなみに彼女がリハーサルで3階、つまり最上階に行ったのは、帰り際にそこで見送る歌を歌うためらしい。

母さんが、男に近づいていって、そして手を捻る。

手から何か袋に入った小麦粉のようなものがどさどさと零れてきた。

なんだろ。

ぼくは気にせずつづける。めんどくさい。

「なんらかの理由で剥がれたタイルがあります。それは、彼らの目印に無くてはならないものだった。3階のタイルです」

男の細まった目が、こちらをじっと見ている。

3がない、とはそういうことだったのだ。

「それがあったのは、ディナーショーの会場」

「………………」

「恐らく、誰かが後で貼り直すべく、一旦、人の踏まないような場所に運んだのでしょう」

「それは私。リハで3階まで行ったとき、剥がれてて危なかったから。持ってきて、そしたら本番になってしまったものだから、つい一旦足元に置いていたの」

古里さんが手を上げる。

足元にはスピーカーがあるので、タイルは観客には見えないし、カメラにも特に映らないのでいいと思ったらしい。

と、彼女が話している、そのときだった。

「しかもなんと、裏返して置いてあるのだし、アイドルの足元にあるせいで、確認もしづらい。だが、今日中に報告を済ませたい。そんな彼らは困ったはずだ」

後ろから声。なんか意味のわからないことを言いながら、ぼくのすぐ左側に肩を並べたのは、母さんだ。「だから、横から写真を撮った後に、拡大し、SDカードのデータを読み込ませた画像ソフトで光の角度、コントラストなんかを調整して加工、拡大して取り出した色データをいくらかピックアップして抽出、解析という手段から、色合いの幅――、RGBだかCMYKだかの色味傾向を割り出すことで、知ろうとしたってわけだよ。わかってみるとくだらないな。事前にタイルの飾りの色合いやマークの種類だけは、教えられ、頭に入れていたんだろう。だから端のほうだけでも見れば、図形がわかる。それで判断したかった」

この人、別に面白くするために撮影したわけじゃないでしょ!

男がうっすら笑いながら上を指す。天井にはいくつかカメラが付いていた。

「惜しいな、局もあるが、あれはな、身体が常に監視カメラの死角になる向きのルートだった。そしてマークの、色の《数値》が取引の値段になる。メモはその値段を外部に知られないで会計するためだったっちゅうわけなのさ。わかったかい探、偵、ちゃん?」

なんか、面倒な取引なんだなーと思ってしまう。

「…………」勝手に探偵にするんじゃない。あと、なんで親切なんだ? こいつ。

ぼくは、なんとなく思い出すことがあって、服のポケットを漁る。

スカートの中から、SDと描かれたカードが出てきた。

どこかの道で拾っていたやつだ。

「ははーん。これは、そのカメラのデータをマイクロSDから、SDに変換する際に使用するやつだな? あれって結構助かるよな」

「母さん……」

母さんはそう言って、カードを横から奪う。で、それ、なんて名前なの?

「え、どういうこと? 色味ってなんだ? んん?」

ナツが眉を寄せている。ひと言で表すと、画像を拡大して赤っぽいとか青っぽいとか判断しましょうってことだ。画素数の高いカメラは、ズームできる範囲が大きい。

離れた場所の色の、ドットってやつが、より小さく多く表示できる分、より細かな部分まで撮影できるのだ。ぼくもたまにやったことがある。遠くの景色がよく見えないけど必要なとき、デジカメで撮ってからズームして、加工するのだ。

コントラストを弄ると、大分見え方がマシになる場合がある。

「あれは、盗撮じゃなかったってこと?」

古里さんが聞く、ぼくは頷いた。

「そうですよ。ただあなたの後ろにある3階の目印タイルを、撮影していたんです」

ぼくは言う。

母さんが、出番を取るなって感じに睨んだ。えぇー。

「そしてそれがちょうど、足元を盗るような形になってしまったみたいで。ただの誤解みたいだな。はは、良かったな! ただの勘違いだ!」

「そう、なの……」

古里さんが少し、安心したような表情を見せる。

「私、てっきり……昔、そういうことも、あったから。なんか、一人で、恥ずかしい」

目を潤ませて、少し頬を赤らめる彼女に、近くに居た何人かのファンが卒倒した。

「仕方が無い。世の中にはそういう人だって、居るからな。つい悪意にばかり過敏になってしまうのだろう」

母さんは言った。

「でも、何もかもがそうとは限らないことは、忘れないで欲しい」

ぼくも、そうだね、と言った。それから。


「なんだってさ、まずは相手にきちんと確認した方がいいって思うよ?」

「…………」

「他人は案外、違うことを考えているってことは多いんだからさ。古里さんも言っていたよね、『他人と自分の考え方が同じなわけがあるか』って。同じにしてしまったとき、偏見は広がってしまうんだよ。だから、相手のことを知っていれば、理解が出来ることもあるって思う」

「そうね……悪いほうにばかり、考えてしまっていたみたい。本当はそんなこと思っていないかもしれないのに、お互いに、悲しい思いをしてしまう」

昔のことを思い出した。彼らは何を考えていたんだろう。

分かり合えたらよかったのに。

自分で判断してしまって全然こっちの話を聞いてくれないから、それも出来なかったな。

「ま、今回の、盗撮犯はグレーだけどな。撮影したらどうしても足見えるし」

「そうなのよね」

古里さんが、がくっと肩を落とす。





水族館を回る時間が押してしまい、閉会式になった。


開会したとき、あんなにあったごちそうは、いつの間にかもうほとんど片付いている。

綺麗な赤いドレスを着た古里さんが、ステージに上がると、彼女の方に、2つのスポットライトが丸く当たった。

マイクを持って一礼。

周囲から、拍手が上がる。

彼女のヒールが、ライトで艶めいて見える。


「みなさんを、今日お呼びしたのには、理由があります」

古里さんの言葉に、周囲はシンと静まって拍手を止める。

「私は、活動を卒業します。今まで、ありがとう」

周囲がざわつく。

ぼくたちは『まだ卒業したわけじゃなかったの?』とざわついた。

ちらっと彼女と目が合って、睨まれたが、聞こえてない、よね。

「と、言おうと思っていました」

周囲は、やはりざわついている。

ぼくとナツとユキは黙っていた。

「……説明するより、早いと思って、まず、この船のオーナーより、手紙を預かっているので……読ませてください」

彼女は、そういうと、いそいそと、上着のポケットから封筒を取り出す。

オーナーとは誰なのだろうか。

辺りは静かに彼女の言葉を待っている。


「もともとは。これは、この世界自体が、ここに集まってもらった皆さんの中でも、最年少――」

彼女は、ぼくたちの方に視線を向けた。

なんだ?

「彼女たちのために開いた、長い長い宴でもありました。卒業式です」

卒業式?

初めからクライマックスってこと?

「彼女たちが、かつて、語ってきたのは、これまで、絶望――どこまでも救いの無い物語のような世界で、それはきっと、誰かであり、そして彼女たちであったと思います」


「彼女たちは、私たちは、幼い頃から既にあるひとつの事実について悟ってしまっていた。

だから、彼女たちが語るのは、もともとこんな世界には希望なんて無いよ、そんな、バッドエンドの物語でしか、ありませんでした」

「だからこそ彼女たちの、私たちの、存在する、この場所……今、この船の中のような、この世界は、ひどく、閉ざされていたものでした」

周囲は、静まり返っている。

「でも、いつからか、変わりました」

「それでも、そんな世界でも、どこかと繋がっていたから」

「だから、それは閉じているようで、そうでも無かった」

「それを。彼女たちには、教えられ、幾度と無く救われました」

「それでもあのときに選んだのは、一度は、最悪の結末」

「――ちゃんと『生きている』世界を作り直そう。それが、全ての一歩になるだろう」

「一度は絶望の底に居た彼女たちが、かつてのような死をもってではなく、希望を持って、世界を見られるように、あの世界を――この世界を、もう一度だけ、再現しよう」

「今度は、希望を描くために。あの頃の彼女たちを、そして、私たちの世界を、もう『卒業させてあげよう』そのために用意した舞台がここで、だから、もう少し早く、そうする予定でした」

そして、最後に、彼女たちの暗闇の世界を、早く終わらせてやりたかった。

「終わらせてやるために、始めたのに、終わりたくない、などと、思ってしまいますが」

「きっと、そうやって、ずるずると残ってしまうのは、良くない。と」

これをもって、この場所を持って、絶望を閉じよう。

華々しく、夢を終えよう。

そのための舞台に選んだのがここだった。

もともと、絶望のための、そんな世界だったから。


「そんな彼女たち、私たちに、関わってくれた方々に感謝を、送ります」

「あの子達に、思い出と、夢を!」


わっと歓声があがる。

「…………っ」

ぼくの中で、何か、響くものがあった。

生きているのに、なんだか、一度は死んでいたような、そんな、変な気分。

違和感。

脳裏に焼きつく赤い、赤い液体。

ぞわっと、背筋を駆け上がる何か。

叫び声、首輪、手錠、毒薬、ハンカチ、ぬいぐるみ、それから、××ト××―×。

動悸がしている。

「…………」

ナツもそうなのか、胸元を押さえて苦しげな目をしている。

ユキは、黙ったまま涙を流して、呟いた。

「××ちゃん……」

その名前を、ぼくは知っている。

××ちゃんは大切な、家族の一人だった。

でも、終わるというのは、結果、続くに他ならない、新たな場所に、ステージが変わる、それだけです。

古里さんの声が、遠くで聞こえている。

きゃはははははと、あの子の、あの高い笑い声を思い出す。

急に。だった。思い出してしまった。

なんだ。

「なんだ。そっか。そこに、いたんだ」

あはは。

あまりに姿が変わっていたから、気付かなかったよ。

良かった。きみは、まだ元気そうだ。


一人、ホールを飛び出て、近くの客室に入った。ドアを閉めた途端、涙が止まらなくなった。

「ごめんね。ごめんね、××××」



二人組の怪しい男女のうち、女性は人ごみに上手いこと逃げてどこかに消えてしまい、やや逃げ足の遅かった男だけが、捕獲されたのだけど。そいつがなかなか暴れるので、母さんと秋沙さんが二人でどうにか固定していた。

でも、なんと懐にナイフを持っていたらしい。

捕まえられていた男が、やがて隙を見て母さんの腕を切りつけて抜け出ると、ぼくのすぐそばに居たらしい、ユキの方に向かった。

人質にしたかったのか、弱そうだから倒したかったのかわからないけど、刃が、そいつの方を向いていて、ユキはすぐに捕らえられた。

「逃げろ!」

と、ユキは叫んでいる。逃げないよ、だって、ユキが一人になる。

周りの人たちがそいつの確保とかに動いている。

でも、なかなか男を捕まえてくれない。

危害を加えないという交渉に、手間取っているらしいのだ。

なんだかつまらないから、ぼくはごく普通に前に出ていって、当然のように、その男から、ナイフを、奪おうとした。こんなもの、怖くなんて無い。

けど、もちろん振りほどかれて、そのままの勢いで、刃が当たって――

刺された。

「…………」

あ。

いつも、どうしてか、別にしなくてもいいところで争いを起こす気がする……

「うわあああああ!」

誰かが叫んでる。

ああもう、やかましい。

黙ってて。

ぐさ、と、脇腹の方で、鈍い音が……

「お、おい、大丈夫か?」

誰かが聞いてくる。うるさい。

「誰か、救急車」

誰かが、慌てている。救急車? 病人なんて居ないけどな。


音は、思ったよりはしていなかった。

ので、傷自体はきっとあまり深くないのだろうけど、何回目だろう、刺されるの。結構それでも、異物感っていうのかな。ああ、

なんだろう。

意識が、なんか……

そうだ、肉と包丁で思い出した、シチューに入れる鶏肉買っておかなくちゃ。

あまり、痛いって感覚が無いんだけど、たぶん痛いんだろうなあ。

あいつに差し入れに行かなきゃな。


気付いたら、周囲が、静まり返っている。

男は酷く動揺したみたいにどこかに走っていこうとした。

しかし船の向こうで取り押さえられていた。良かったーと、思う。

と、同時に、がくんと足が、地面に触れて。背後ではどぼん、と何かが、沈むような重たい音がしていた。ああ、逃げたのかな。なつかしのサスペンスの最後じゃあるまいし。

「どうして……!」

ぼくは、ずるずる、這って3歩歩いた。

歩きづらっ。

あーあー。すっげえあるけないっ!

そう思うと同時に、ぐらりと身体が傾く。


どこかで、解放されて無事らしい、ユキの声がしている。

無事でよかったあ。

ぼくは、笑った。

「えへへ」

ぼくは、笑った。

なんだろうね、なんか身体が動かないや。

どこか、漂うような感覚と、それから、あの子を思い出す。

懐かしいなあ××××。

――もし、そっちにいけたら、ぼくを許してくれるかい?

昔みたいに、笑ってさ。

当たり前のように、見るからに毒入りのジュースを勧めてくれたっけ。

それで、幸せそうに笑っていた。

それでもね、いいよ。

別に、そんなので、病んでいるなんて思ってない。

行動だけで、きみを決め付けたりしないよ。

だって、そうするための感情や思考が、あるはずだもの。

きみをおかしいなんて、ぼくが言うわけが無い。

大丈夫。

ただ、驚いただけだから。

泣かないで?

傷なんて、ほら、いつか治るし、ぼくは丈夫だからね、そんなのなんてこと無い。

脇腹が冷たい。

血が。血が。血が。血が……あはっ。面白い。なんだか、愉快になってくる。

なんで寝てるんだっけ。ぼくが被害者ごっこしてる場合じゃ、ないのに。

きっと、ABCD123、みたいな札と、あと、ロープとかで、ぐるぐるって形を取られるんだろうな。つーか、痛くない。

これ、トマトジュースだったりしないのか? なんか……

思うんだけど、これ、あとあと洗濯したら、お洒落な柄になってたりしないだろうか?

でも、お洒落な柄になってても、なんか、歩く事件みたいだよね。

超不審者じゃないか。意識あるのに寝てるのは、暇だな……

でも、服が汚れるって言っても着ないわけにはいかないよね。

それはそれで不審者じゃないか。

うう。

もしかしたら覚えてくれてるかもしれないけど、きみが怖がってて、ぼくたちが会った、あの場所、第三×××は、無くなってるんだよ。

でも、たまに、思い出の中で引っ張り出している。

なんだか、愛着があってさ。

なんて、また笑われそうだ。

傷なんて、いくらでも受けるから、だから。

だから、もう一度、笑ってくれる?

「疲れちゃった」

疲れちゃった。疲れちゃって、もう、立ち上がれないよ。何もかもが歪んでる。

世界は、こわいものばっかりだね。

「もう、ダメみたい……」

「目を、開けてくれ」

「開けてるよ。ちゃんと、見えているよ」

「起きて……」

ここに、居られない。

ただ、本当のことを、本当に語っているだけなのに。

たぶん。それは、ずっと前から。

これからも、それでも。

ありふれたかったんだ。

でもそれは憎まれる、否定される、そんな感情なのだろうけど。

でも、それでもぼくは言うよ。

普通のことだったって。


「近頃、寝不足でさ。眠かったんだよね。でも、ああ、ようやく、眠れる」

叶わない夢だった。

ごく普通に、ごく普通で、ごく普通になりたかったんだよ。

でも。

誰かが泣いている。

悪い人は居なくなったというのに、何か、不満でもあるのだろうか?

うるさいからいい加減静かにしていて欲しい。


あれ? それにしても、どうしてぼくは船の廊下で寝てるんだろうか。

変なの。

なんか、何を見ているのかわからない。

何もわからないみたいだ。

画面に、ノイズがかかってるみたいに世界が、暗くなっている。

頬を、風が撫でていく。

目を閉じていると、「   」って、懐かしい呼び名が聞こえてる。

嬉しい。

あの子が、そこにいる。

きっとぼくを、待っててくれたんだ。

動きにくい唇で、ぼくはどうにか言葉を紡ぐ。

「……ご、めん……手を、掴んでくれないかな」

うまくおきられなくて。

起き上がったら、一緒に、また散策に行こうよ。

伸ばした手は、どこか粘ついている。

まさか自分が現場で倒れる役をやるとは。

まってまって、後でハンカチを出さなきゃ。


えーっとどこに、置いたっけな。

いつになく、頭が回んない。


えっとね、×××んの、好きだった場所に行こう。

そうだなぁ。

「         」とかどう?

メロンケーキ、まだあったかな。










あ。

あのチョコレートは、いい加減に捨ててくれよ?

ねえ、きみはどうしてここにいるの、ずっと探しても居なかったのに。

遠くで×××んが何か言っているみたいだ。

え、聞こえない。

待ってよ、

何――

声が微かにしか拾えない。

でも、嬉しいな。

なんだ。

そこに居たんだね。

懐かしい声を、もっと聞きたくて、ぼくはあの子の居る方まで、歩いていく。

「だめよ!」

そのときだった。

あの子のところへの道が、急に掻き消される。

「私に、言ってくれたじゃない。ただ『歌いたかっただけ』ですよね、って!」

誰の、声だっけ。

「あなたは、それでいいの?」

誰の……

…………。

知ってる。

そんなの、わかっている。

だから、だから、

「あなたは、ただ守りたかったのよね、肯定してあげたかったのよね。誰もしてくれなかったから、だから、代わりに誰かにそう言ってあげたかった」

そうだよ。

「本当に『正しい』のか、不安でしかたなくなった」

うるさいな。眠らせてよ。「大事にしていた。だからこそ、×××たちに『大丈夫だよ』って伝えたかった」思えばそれが《変》と思われているんじゃないかってそう一番に気にしていたのは、ぼくの方だったかもしれない。世界に答えなんか無いのに、叫びたかった。叫び声を聞かれるのは恥ずかしくて、叫んだ内容を聞かれるのは恥ずかしかった。謝りたいけど、きっともう許してもらえないだろう。どうも、言葉が足りない。小さなあの子がぼくのために背伸びしてクッキーの缶を取ろうとしたときのような。でも、それを難しいと決め付けていたのはぼくだった気がする。踏み台を作ればどうにかなった話。自分がされて嫌だったことを、誰かに繰り返している自分に嫌気がさす。どうしてこう、嫌な人間なんだ。大体、思えばぼくの心の痛みなんて気のせいにしてしまえばそれで済んだ話。周囲を不快にさせるほどの価値を持つ人物じゃないだろぼくは。なにをやっているんだ。

他人には偉そうに言うくせに、役立たずだ。自分が上手く言えないのを他人のせいにして、最低だ。上手く伝えられないなら考えればいいのに、言わなきゃよかったなんて言って、こんなの甘えだ。なのに、身勝手にも思う。








そう、そうだよ、悲しかった。

「…………」

それでもいいって、それでもあの子に届いてくれるなら、いつかきっとって、思ったはずなのに、だったらいっそ、何も言わなきゃよかったって。

まるで、ただ歌いたかっただけ、みたいにさ。

ぼくはただ、好きだったんだね。彼らが。

あの子達が。


あの子達を、今でも実在するぼくたちを、ぼくが娯楽みたいに語ったら、

その代表みたいになってしまってそれが歪んでいったりしたなら、いつか、それで苦しめることになってしまうんじゃないかなって。


他のことなんて、他の謎よりも大事な謎なんだ。

名探偵でも、まだ解けていない。


「でも、私には届いたよ」

声がする。

手が、顔に触れる。

「私は、知ってる。あの子だって、知っているよ、ちゃんと、届いている、私たちは、ちゃんと『存在している』からだよ!」

知っているよ。

そんなこと。

だから、ぼくたちは、苦しんできたよね。

だから、ぼくたちは、互いを認め合うしか、居場所の作り方を知らなかった。

「だから、そんな風に、責めないでよ」




でも、でも。

疲れてしまった。

こわいよ。

何も、信じられない気がする。




何を言ってもきっと、あんな目をされるだけじゃないかなって、怯えてる。

もう、立ち上がれないかもしれない。

ごめんね。

ぼくのやることって、いつも、間違えてしまうみたいだ。

世界が嫌いだった。

世界が怖かった。

だから。

終わろうって思った。

全部終わろうと思うのに、終わらせてもらえなくてこわかった。

でも叫んでおいたら、その気持ちは変わるかなって、期待してた。

でも『面白い』、だけだった。

そんなこと、とっくの昔からわかっていたのに。

ってなんだかこのオチは面白いや。

気に入ったかもしれない。

どこかに、同じような誰かがいるんじゃないかなって、信じていたんだ。

今も、信じているんだよ。

別の声がする。

「もう少しで、救急車が来る。頑張れ」

だれの、声だっけ。

えぇ、もう、いいよ……このまま寝かせてくれないかな。


ああでも想像が付かないって言われるけど、結構、後味の悪い話とか好きなんだよね。

普段は平和そうで、いきなり暗くなったりするやつとか、弱そうだったのに突然ラスボスになったりするやつとか、主人公の性格が歪んでいるやつとか。

創作に限るけど。

これも、それでいいと思う。

ずっと。

そっとしておいて欲しかったのかもしれない。

なんて、きっと身勝手だよね。

再び、少しずつ眠気が増してきて、また視界が暗くなる。

「……ぼくが……んだら………に、あげなくちゃ」

喜んでくれるんだったら、いいなあ。

ユキが泣いてる。自分を責めないでほしい。だってこれは、ただの報いなんだよ。

ぼくが傷付くと、誰かが傷付くのはいやだなぁ……

の声が聞こえる。

ごめん、背負わせるはずじゃなかったのに、苦しませてしまった。

そうだ。

せっかくだから最後に、一度くらいは、素直に「      」って言っておこう。

と、思ったけど、うう。やっぱり、言えない……

まあ、今更だからやめておこう。

何か誰かが言っている。よく、わからない、水の中にいるみたいだ。なんだかちょっと、疲れてしまったからやすみたくて、こうして死んだフリとかしているんだ。

だから、笑ってよ。笑えない?


だんだん、眠くて身体に、力が入らなくなってきた。

最後に食べたいものリストを作っておかなかったことが心残りだ。

オムライスがいいなぁ。

ああでも、大トロっていうのを、一度食べてみたいかも。

それから。

なんだろう。

それからね、ぼくはもともと、結構、幸せなんだよ。


「ねえ、……き……笑って、てほしいな」

今、幸せな夢を見ている。

どこかであの子の、楽しそうに笑う声が聞こえている。

そういえばあいつに、会



end.
























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