断片集 2






00.



「……今……非常に、困惑、しています。


「なんで、この席になったかなぁ」

悩む。

ぼくは今窓際の左肩に寄りかかって寝ている人物を起こすか、叩き起こすか、起こさずに踏み台にするかの三択で悩んでいた。

とりあえずぼくはこれより船に乗らなくてはならなくて、そのためにまずバスで港まで行かなくてはならなくて、そのためにじゃんけんで決めた席順で、隣になったのが、同じ学校に居る先輩だった。

この説明ではいさささか雑すぎるだろうか。

まあいい、別にそこまで急いで語るものでもあるまい。

「……せんぱーい、お、き、て。そして速やかに視界から消えて」

起きてもらおうと、まずは優しく耳元で囁いてみる(という嫌がらせ)。

起きる気配はない。ドラムのように肩でリズムを取ってみるが起きない。腹が立ったので、ポケットに入れていたボールペンで顔に眼鏡を書いておいた。起きない。

「おいお前いい加減にしろ、おもてぇんだよさっきから……」

口調が乱雑になるが起きてくれそうにない。

だん、と肘で座席を揺らすと、はっとしたようにそいつが起きた。

ぼくの目の前にあるのは、もふもふとは無縁の人物。

オレンジがかった(染めたこともあるらしい)肩までの髪。

美少年なのか美少女なのかはぼくも知らないが、人形のような綺麗な顔立ちのその人物の名前は、日扇街ナツという。

ちなみに従姉妹に、貝柱帆立ちゃんという美少女がいる。

今日の服装は、いつもどおりに、大き目のシャツと、ズボンだった。シャツにはリボンとネクタイの中間みたいなやつが付いている。

「…………」

首を絞めようかと思ったが、ぐっと堪える。

そうさ、こんなやつのためにぼくが手を汚す必要は無い。

同じ小学校の先輩だけど教室は同じだ。

複式学級だったから。

でも、ナツはほとんど教室には来ないというか、さまざまな事情で保健室に通っている。


「え、なに、もう終わり?」

好奇心いっぱいの目でこちらを見てくるので、ぼくはどことなく嫌な気分になった。

「なんで楽しんでいるんだよ」

ちょっと理解に苦しむ。

っていうかなんでぼくが他人への理解ごときに苦しまなくちゃならないんだろう。

「ドキドキします。こう、全然迫力の無い声で淡々と怒られる感じが堪らないっ」

それはひそかに気にしているんだよ!

文章だけならばれないと思ってたのに。

「……馬鹿にしてるだろ」

なんともいえない、無力感に襲われる。

こういう人って、現状を認識できているんだろうか?

「まさか、滅相もないです、ありがとうございます。感謝してる」

うんうん。ぼくの性格が人の役に立つことも、あるもんだ。

……ってなるか。感謝するな。

リアクション間違ってるよ。

「相変わらず元気じゃの……」

ぼくの前の席に座っている、同学年の、ユキ――春乃鴨幸が、黒髪を揺らしながら、こちらを覗き込んできた。こちらは元少年だが、それを全く感じさせない。お団子にした髪に白いお花の髪飾りを着けていて、青いパーティドレス姿。

「席変わって」

「んなわけないじゃろ……大人しく座っておれ」

「うぅー……」

隣の席のナツはぼくに何を言われようとにこにこしているので、なんだかむかつく。

正直苛立ちしかないが、ぼくのなかの矜持が、どうにか理性を保たせている。


自分の、少し前に耳が隠れる程度に短くしていた髪は、いつの間にかのびており、ユキと変わらないほどだった。

後姿は、身長さえ同じなら、そっくりだろう。

残念ながら向こうのほうが背が高い。


「ばーかばーか」

とくに言うことも無くなって雑に罵っていると、ナツに、良いねぇとかオヤジのような口調で言われて足を踏んづける。

「やかましい」

手刀を振り下ろされて咄嗟に白刃取りすると、ユキの隣で寝ていたらしい、元アイドルの女性、ぼくたちの保護者の古里さん(帽子とサングラスで変装しているので不審者っぽい)に怒られて、ぼくらは黙る。

ぼんやりと窓の外を見ていたナツが、描いておいた眼鏡に気付いたらしく「なんじゃこりゃあ」とか声を上げて、再び彼女に怒られているのを横目に、ぼくは、ぼーっと、空間を見渡した。

バスの中。

緑のデジタル時計。

ぼんやり、到着時間は1時間後だったか、30分後だったかと考える。

まあ、どちらでもいいか。



しばらく車を乗り継いで着いたこの町唯一の(だと思う)港には、大きな船が停まっていた。

「はーい、持ち物とかは、大丈夫かなぁー?」

アイドルモードの古里さんに言われて、(変装したままだからシュール)ぼくたちはそれぞれ荷物を確認した。

本名は、古里茨華だった……気がする。

肩までに切った髪に、トマトの髪飾りを付けている。腕がすらっと長く、童顔で目が大きくて、顔が小さい。身長は150くらいだと思う。

子どもが縦に引き伸ばされてる感じ。早い話、元アイドルだ。

『歳をとらない妖精さん』が売り出し方だったことからもどことなく察せられるように、少し昔の時代のアイドルだ。

知り合いの旅館によく泊まってる関係で、ぼくとも知り合いになって、そして、たまに一緒に遊んでいる友達? みたいな感じの人。友達に歳は関係ない

彼女の招待で、ぼくとその知り合いたちは、なぜか誰かのディナーショーへ出かけることに。まぁ、この辺の経緯は割愛させていただく。



肩にかけている鞄から、念のために携帯電話を取り出す。

待ち受けには電話着信のマークが22件。こ……怖い。

その中の一つを呼び出して電話をかけてみる。

かけてすぐに、相手は受話器を取った。

『もーっ! 連絡してって言ったでしょ』

「ああ、悪い……」

『何、私からの電話なんかどうでもいいんだ……ふうん、そうなんだ……この前も出なかったし、無視したし』

電話の向こうから、ぱりーんと、何か砕けた音がする。

こ、怖い。花瓶か何か投げたようだ。

ガラスは大丈夫なのか。


「そういうわけじゃないよ。無視じゃなくて、たまたま見られなかったの。というかこの前はさ、ちゃんと履歴を見てかけなおそうとしたんだよ、んでなんか電話帳の履歴からアドレスから全部消しちゃってー、とりあえず何回か勘でかけてみたら、見事に全部間違い電話で……かかってくるまで諦めていました……」

(どうでもいいが、間違い電話ってかかる方だった場合、仕方が無いのに「なにぃ、ぼく


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にかけたのは間違っていたというのか……そんな間違い認めないっ!」的な気分になるので、ついリダイヤルしたくなる。他人に迷惑をかけている場合じゃないのでしないけれど、携帯を携帯しない系の人間が通話に出るのはレアなのだ)

『ふうん。そういえばこの前電話したのに出なかったね』

「ああ。あれってひょっとしてお前だった? 着信がなんか定期的だし、長いし、いつもと番号違うし、すっごく怖くて、出られないけど気になってて。っていうか、もう電話自体を止めたいくらいにかかってくるのが、こわい。本当はどこにも個人情報を載せたくないくらいこわい。だから、もう全部やめた方がいいかなって思っている」

『全部って、連絡を取り合うこととか、こうして《語る》ことを?』

「そうだよ。もしかしたらこわい人ばかりなのかなって、思って。昔もそういう裏切りじゃないけど。あったからさ。あのひとに見つかって今も電話が来るんじゃないかって思って思うと……もう、ストーカーとかは怖いよ。なんでそもそもぼくがお姉さんに付き纏われてたんだろ?」

警察は何か起こってからじゃなきゃ動けないから、自分で早めに手を打たないとならない。なので、ぼくは焦っていた時期があった。

でも、全部違ったみたいで、本当によかったと思う。やっぱりもう悪夢は現れない。

うん。ようやく解約できそうだ。

他の連絡は、伝書鳩でいいや。

『ああ、ごみん。お父さんのを借りていたんだけど、言ってなかったね。あのひとはもう居ないから大丈夫だって』

「でも……何回も来るけどどこを調べてもそれらしいのが載っていないしさ、携帯壊してて誰の番号もちょうどわかんなかったし、とにかく不気味だったんだ。もし他の人が用があっただけで違っていたなら、拒否したら悪いから正体を突き止めないと不安だった。近頃なぜだか、急に変な人が家の前に居たりしたんだ。不安な毎日だったんだよね。でも、勘違いでよかった……あぁ、怖かった」

まぁ、変な人は今でも、近くをたまにうろついてるんだけどね。

なんだろ、あれは。真は歩いて来ないと思うし、正体が未だにわからない。

家に来るってだけなのに、知らない人だとそれだけで少し不気味なのだ。

学校の帰り道で見かけたこともある。

玄関開けなきゃ、大丈夫かな? 

今のところ実害は無さそうだから、どうしていいかわからないけど、まあいいか。

道に迷ったに違いない。ああよかった、誤解が解けた。

見守り隊かと思っていたけど、自宅まで見守る必要ないよね。

挨拶した方がいいんだろうか。

『あらら。ほんとごめんっ。そりゃ載っていないよ、私のおとうさんの番号なんて知らないもんね』

しばらくして、真がどこかに行ってしまって、戻ってこなくなった。

「……切っていい?」

答えが無かったので(途中から電話の向こうから『何だこれは! お前、何をしとるんじゃー』的な怒鳴り声が聞こえてきた)勝手に切らせてもらう。


「…………微妙な天気だな」

見上げてみた空はどこと無く曇っている。

晴れているような居ないような。

クマは曇りの日は機嫌が良い。太陽からの余計な反射を軽減するのだとかどうとか。でも、今日は荒れていた。ぼくのせいだけども。


いつもよりテンションも低いし「愛してる」とは言ってくれなかった。

あいつの中身の無い、あの告白は、いつもの馴染んだ挨拶だったのに。

「おい、お前の番だぞ」

たん、と肩を叩かれて、ぼくは咄嗟に振り払ってから、はっとした。

少し、ぼうっとしていたようだ。

列が少なくなり、目の前に受付のおにいさん。

後ろには、ナツが立っていた。

もう手続きが終わったらしい。

招待状を差し出すと、なにか判子を押されて、それから彼の持っている書類に名前が書かれる。

「……ああ、うん。電話してた」

手続きを終えながら、船の中に進みつつぼくは言う。

中では、電源を切るようにとアナウンスされている。

「俺がかけてもコール一回で切るのに」

ぼくは無視して、中に進む。


「おーい、怖い顔をしておるぞ」

ぼくの背後から、ユキが右隣に並んできて言う。

「リラックスリラックスー」

「……ん」

ぼくは深呼吸する。

少し、気分が落ち着いた。

「どうか、したのか? 気分が優れないのか」

「ユキ」

「はいはい」

近づいてきた華奢な肩に凭れかかる。

「帰りたいです」

「来て早々何を言っとる」

ぼくの背中をぽんぽんと軽くはたきながら、ユキは苦笑する。

「担いででも連れて行くぞ」

「……おに」

「ただ飯だぞ!」

「嬉しそうだね。それが理由で来たんだ」

「もちろん」

なるほど、ぼくの説得はその次だったわけだ。

赤いカーペットを踏み付けて中に入る。ユキが。

ずらりと並んだテーブルと、そこに居る様々な客人たち。

脂ぎった手でカメラを構える中年の人。金髪のお姉さん。仮面をつけた妖しい男、黒髪の女性。

「んじゃ、チビ達、ロリコンとショタコンに捕まらないように、私から離れるなよ」

古里さんが冗談なのか本気なのかわからないことを言う。

「ユキは可愛いから危ないよね、気をつけて」

ぼくが囁くように言うと、ユキは恥ずかしそうに顔を覆った。

「か、かわ……だ、だから……私で遊ぶのはやめてくれっ!」

反応がぼくのような少女よりも、乙女だった。

「いい子いい子」

「ふぁ、やーめーろっ!」

ああ、かわいいってこういう事かと、ぼんやり思う。

なにかが負けている気がする。

うん、気のせいだ。気のせい。

「お前も、腹黒い割に、見た目だけはマシだからな……間違えるやつがいるかも」

ウインクされて、古里さんに囁かれる。

微妙に失礼だな。

「お前、たぶん台詞だけだとビジュアルが予想出来ないランキング一位だよ」

「そんなランキングありません」

そもそも、需要あるのか。

「あ、でも見た目だと性格が予想出来ないって言われますね!」

えへ、と微笑んで言うと、ああ全くだな、と残念そうな目をされる。

うるさい。

「その、全然好かれる気がないところはいいと思う」

「……前に、ちょっとしたことで、他人を助けたんです。そしたら、ですね、毎日のように《愛してる》と繰り返す呪いの電話がかかり始め、毎日のように毒薬が郵送されてきて……ふええ……怖いぃ……他人の愛情怖いいい……! アピールの意図がわかるからそいつはマシなんですよ……でも、わかんない人いるじゃないですか……!」

「お前は、面倒な生き物だな。でも、少し同情するわ。ときに狂気だからな、他人の愛情」

古里さんは、少し同情した目を向けた。アイドルとして、何か思うところがあったらしい

ぶつぶつと、何か言っている。

手作りはダメだ……ああ……とか、なんとか。

「特にストーカーって、意外と地味に怖いんだよ。ファンですって来るだけなら、下手な扱いも出来ないことがあるし」

「あったことあるんですか」

彼女は、そりゃそうよと頷く。そうなのか。

「公には、彼氏が居ませーぇんって言わなきゃならないじゃん? すると同時にな、いらん心配をする輩が、沸くわけだよ」

「はあ」

要らん心配とは、三十路を恐れて生きる妖精さんに、人間社会の闇を説くことなのかもしれない。


「メディアは未だに恋愛脳だから」

「……それ、言って大丈夫なやつですか」

「ダメなら編集されるんじゃないかな? ま、とにかく世界は恋愛主義者が牛耳っているからな。したくないやつもいるだろうにねっ」

きゃっとポーズを決められたが、なんとか仮面みたいな格好でされても魅力が激減だった。

にしても、ぼくに素敵な出会いがどうとか言ってた人とは思えない台詞だと少し思う。

「……はぁ」

「高校時代にアイドルだけで生きられなかったから、近所の店でバイトしようとして、そのときにな、面接で履歴書出したんだ。でも、ちょっと経歴を誤魔化しても、わかったんだろうな。次の日から、家の前を知らない男がうろついてる。安いアパートだから、壁の中の音も気をつけないと全部聞こえるんだぜ? 鍵は安いやつだし」

「なるほど」

「やめてやって、引っ越した。また別のとこで履歴書出した帰り、また家の前にその男が……」

「あら」

「耐えられず、言ってやった『なんなんですか』。そしたら『あ、たまたま。近所だったんで』はぁ? 近所だったらなんだって感じだし、理由より先に言い訳って、やましい感じする、なにより、住所変えたのになんで知ってんの?」

「そうですか? 案外、ただの――ファ」

言葉が遮られた。

「そいつ『彼氏が居ないから望みがあると思いました』とか言い出したんだ。いやいやまてよ。こっちにもタイプがあるだろ、ってな? 居ないからってなんでそう思う? 思考回路、謎すぎんだろ……望みも何も、相手の思考回路がお前と同じなわけあるかいっ」

「あ、アイドルって、大変なんですねー……」

こちらに言われましても。

ど、どう、返答すべきなのかという感じである。

「そーなのそーなのぉ」

きゃ、と、そろそろ人間年齢的には厳しい両腕を顎のそばできゅっと縮めるポーズをする彼女。

「それでぇ、りこりーんはぁ、思ったんですぅ。彼氏は要らんから、SPが欲しいなぁってぇ。あ、彼女をつくればいいのかなぁ? 彼氏は禁止っていってもぉ」

「あ。かもめだー!」

かもめさぁあん。

「おい、話を聞けー。ねー、どうですか?」

小学生になんてことを聞くんだろう。

いや、それ以前だ。

「ぼくは食べ物と物にしか興味がありません。年上の女性も怖い……誰も信じられないっ! ああああ! 優しい笑顔でやってきて世話を焼くふりをして、凶暴な牙が……」

「人生でなにがあったんだよお前は」

ぼくはかたかた震える。

そういえば同年代っぽいのにも、ろくなのが居ない。

他人の感情の表現手段は様々であり、一番身近にいた人間は特に、個性的だった。

価値観がカオス状態。

「あ。あれは漁船かなー?」

海を眺めていると、背中の方を掴まれる。

ちなみに今日の服装は、ごく普通に、ブラウスとスカートだったので、ブラウスが裂けないか心配してしまう。いつもの服より耐久性が低いのだ。

これ、前に連れまわされて買った服、だったかな。

これが、周囲の言う大人っぽいとか、可愛いというものらしい。

でも、布に対してそこまで何を思えばいいのか、未だにぼくはよくわからない。

素材がつるつるして寒いし落ち着かない、以外に何を思えというのだろう。

よくわからない。

「話聞いてる?」

と、聞かれた。聞いては、いる。

しかし、なるほど、そういう風に解釈して勘違いする人間に、こいつのガードは固くない手薄だ、となめられる危険性もあるのか……

要らないだけだと言っても、あんまり、信じてもらえないんだ。

それはそれで、苦労しそうだった。

大人になったら嘘でもいいから、そういうことを言っておくべきなのかもしれない。

「ちなみに、おしゃれをしてるから狙われるって思うでしょ?」

彼女が急にそんなことを言い出したので、ぼくは驚いた。

ぼくはいつもは適当な服を適当に着ているのだ。

「違うんですか。古里さん、可愛いから余計に目立つんじゃないかと思います」

まるで展覧会の絵でも見るような感想を述べてみる。

「んー、まあそうでもあるけどぉ……」

まんざらでも無さそうに笑って、それから彼女は言う。

「なんかの雑誌で読んだことがあるんだけど、ああいう男は大体、プライドが高くて、断られることを恐れていることが多いんだって」

「へぇ、それで」

「見るからに『これは彼氏が居るな』って感じの雰囲気の人には、むしろ寄って行かなかったりするらしいの」

「寄るってそんな虫みたいな言い方しないでくださいよ」

「うん。ごめんなさい。でも、家と一緒でね、下手に整備がされてないほうが、危険ってこともあるみたいよ」

「そう、ですか」

「だから、可愛いとか、そういうんじゃなくても。変なのが寄り付かないためにも、もう少し、着飾った方が良いかもしれないって話を、私は、以前からしているの。身を守れるくらいの装備は必要よ?」

「…………」

なるほど、そういう視点もあるのか。

なんだか、感心してしまった。

まあ面倒ではあるけれど、今度から、多少は無理をしてみようかなと思う。

「さて。船に乗ってもいいぞ?」

古里さんが言う。仔猫ちゃんのように、カタカタと震えた。

ユキは船に乗ったし、ナツも乗ってたけれど、ぼくはここでいい。

なんだか、気が進まない。

「乗ってもいいぞー?」

面白がって言われるが、ぼくは、がたがたと震えた。

「あー。お前って。本当に面白いな……」

古里さんは、くつくつと、噛み締めるように笑う。

うるさい。

「木に登るのは怖くないけど、後で我に返ったとき、降りるのが怖いんだろ」

「ぼくはこねこちゃんじゃありません……」

そういわれて、泣きたくなってきました。

「え、と。高所恐怖症?」

古里さんが聞いてくる。ぼくはただカタカタと震える。

船に乗るのって、地味に怖い。下が海だし。

「あらら……海見ちゃだめ、ほら、上見てみ?」

古里さんが、必死にぼくを船に引き込もうとする。

「よそ見したら、死ぬ……!」

「死にません。死にませんから大丈夫! 生きてる。な?」

「うう……船酔いがっ」

口元を押さえて呻くと、彼女はのけぞった。

「船に乗る前から!?」

「今日は、船に乗るなとのお告げがー」

「どこから!?」

どこからだろう。

「うえーん……」

もう、蹲るしかなかった。前途多難。





これ、続いてるっていうより、たぶん作者がキャラクター練り直す手間をケチってただけなんだと思うけどな。

主人公が高所を克服出来なかった。

俺たちの戦いはこれから始まる。


――完――

[newpage]




……さて、ページは閉じてもらえたかな。


海の上に不安定にかかる階段を見る。ある意味安定してるけど、でもその真下は海なのだ。

がくがく足が震えて、なかなか前に進まない。

やらずに諦められないし、とりあえず、慎重に階段に足をかけてみる。

横目に、波を見た途端に足が進まなくなった。

「もう帰る! かえるー! かーえーる!! うわーん」

「けろけろ」

お隣に居る古里さんは、ただ笑っているだけだった。

「何騒いでるんすか」

後ろから、って言うか、前から声。同じ学校の先輩こと、日扇街ナツだった。

「仔猫ちゃんが暴れてるの」

古里さんが、雑な説明をしてぼくを指差す。

「暴れてませんんん! こ、これから乗る……ちょっと、外の空気を楽しんでただけです」

「ああ。そう? だったら、いいんですけどね」

ナツが、曖昧なことを言うが、しかし、その場から動かない。

「お前、高いところがだめなのか?」

ぼくは、何も言わない。良いもダメも無い。

ダメなのは高いところじゃなくて、落ちる瞬間のイメージが浮かぶことだ。

そういう記憶が、なんだか、一度あったら、なかなか消せないのだ。

「怖いか?」

「怖くないです」

っていうか、お前は先に乗ってろよ。

後で行くから、と言おうにも上手くいえない。

こっちのことなどいいから、と、言えない。

「そうか。怖いんだな」

ぼくは何も言わなかった。


「お前ってあれだよな……一人でどうにでも出来そうなのに、他人のことじゃなくなると、


なにも出来なくなるっていうか、他人のためなら全然苦にならずに出来ることが、一人になると、とたんにだめっていうか」

ぼくは、何もいわなかった。

道の下にはなんかわかんないものがあって、地球はぐるぐる回ってたりして、案外、安定しているものなんかなくて。

本当は、そういう物が、怖いのだろうか。

地球が死なないために、人間が生きているのかもしれない。

なんのために生きているか。地球のためとかだったら、それはそれで面白い。

人類関係ないのかよ! みたいな。

「だったら?」

「……頼ると言うことを、覚えることは出来ないのか」

「一緒に落ちたら死んじゃう、巻き添えになるぞ?」

誰かを、引きずってしまうのは嫌なのだ。とても。

ひとりでもなんとかなるし、ならなくっても、それはぼくのせいで、誰も悪くないのだから、正直、ぼくなんかのことに、そこまで首を突っ込まないほうがいい。

昔、それなのに、わざわざ放っておけないなんて言って戻ってきて、怪我をしてしまう人を見てきた。自分がどうにかなるよりも辛かった。

誰かを迂闊に助けたりして、それで、けっきょくそのことが憎しみに変わるかもしれない。

それは優しいんじゃなくて、ただ、無責任で愚かなことだ。

そんなバカみたいなことを自分で選んで、後悔しても、助けてはあげられない。

だったら、最初から、自分と切り離すべきで、だから、突き離しておくべきだと思う。

自分と他人は、違う。

「死なないから。大丈夫だから」

なんで言い切れるんだよと、思う。

「言い切った方が、暗示をかけることができるらしいけど」

「そうかな」

「ああ。だから、人間は、不確定なものも信じていいと思うけど。周りはなんかよくわかんないけど、少なくとも今生きられているからセーフ! ってな。今、瞬間が大事だ」

「…………」

ぼくは、何を言えばいいかわからなくて黙った。

信じすぎはだめだけどね、と、おどけた方がいいんだろうか?

「っていうか、今の状況でするのは俺の心配の方なのか」

「……お前の心配なんかしてない」

「ああそう」

「海で撮影するスタッフの心配だ」

「そっちに配慮してるの!?」

「放っておいて」

「んなこと、言っても」

「もし……ここから落ちたら?」

「そんときはそんときだろ」

その強さは、ぼくには無かった。

お前は少しバカになるべきだ、と、誰かが言っていた。

そのとおりだった。でも怖かった。少し、前に踏み出せる気がした。

階段に足を乗せた。

…………数秒で後退した。

「……無理です」

無理でした。

「無理ですか」

ナツが残念そうにぼくを見て、やがてこちらに手を伸ばす。

引きずるらしい。

ぼくは諦めて付いていく。

「何かあったら一緒に泳いでください……」

「了解」

ナツに引きずられて、結局乗船した。


(ちなみに後日どちらも泳げないことが判明した)


[newpage]


◇ ◇



人が死ぬのはきらいです。

とっても悲しい。

だけど、その割には、周囲はさっさとお片づけするのですから。

それが、苦手だったのでしょう。

とても優しく、とても壊れた、白い部屋の、白い妖精のお話です。


「ずっとそばにいるよ」

その子は言いました。

ずっとそばにいました。ずーっと、ずーっとそばに居ました。

あの子の形が、だんだんと、崩れていきました。

それでも、約束したのです。

ずっとそばに居てあげたかった。

大人たちは言いました。

「そんな汚いもの、早く片付けなさい」

それは、あの子なんだよ。それはあの子だったよ。

それはあの子なのに。何を言ってるのか、その子はわかりません。

どんな形になっても、大好きで、大切で、どんどん溶けていくそれさえも、不快とは思えなくて。

「早く片付けなさい」

それでも。

それでも。それでも。それでもそれでも。

そばに居たかったのですが、あの子は、燃やされてしまいました。

愛しいと思うのは、いけないのでしょうか。

いけないのでしょう。

それでも。




02.夜更かしすると、逆に朝まで起きてやろうって気分になるときのテンション


「はい、野菜―」

「うん」

「はい、肉―」

「うん」

「口の周りについてるぞ」

「自分で取る」

「そうか?」

「わさび、からっ」

「ああ、お茶飲むか?」

「うん。あつっ」

「慌てて飲むから……」

「ぼくはいいから食べなよ……」

「いや、なんか、気になって」

「自分でやるって」

「なんか危なっかしいのじゃ」

「よく言われる……何も危なくないのに!」

「そういうところが、なんか、危なっかしい」

「はあ? なにそれっ!!」

「危険な石橋を、まあ割れたらそのときだよねって、渡ってる感じがする」

「まあそのときだよね」

「ほら」

「いいからー。ちゃんと自分の分を食べないと」

「わかったわかった。迷子になったら、係を呼ぶんだぞ?」

「ならないよ!」

「あと、美味しそうなものにもついていかない」

「行かないって! そんなに信用ないの!?」

「もふもふにも付いて行かない」

「なんで知ってるの!?」

「信じられます? 人間嫌いでも、例外があるようです」

ナツが、椅子に座ってこのやりとりをしているぼくとユキを見ながら、こそこそと、左側に居る古里さんに耳打ちしている。(右側はぼくです)

「みたいだね」

彼女も面白いものを見たという感じに笑っている。

ぼくは、ユキに次々渡される料理を、必死に受け取っては食べていた。

美味しい。

料理を紹介するのがめんどくさいので雑に言うと、お金持ちのクリスマス会に呼ばれた、って感じ。

サラダ、刺身、寿司、チキン、ケーキ、なんか、あらゆるごちそうと言われそうなものが粗方テーブルの皿に並んでいる。

「これ、誰のディナーショーなんですか?」

ナツが聞く。

古里さんは、ふふふと笑う。

怪しい。

「私のって言ったら?」

彼女が誇らしげに言う。

「へぇ」「そうっすか」「はぁ」

子どもたちのリアクションは、薄い。


やがてどこからか弾むような音楽が流れ出すと、古里さんが、突如、仮面を外して席を立った。始まったらしい。

ぱちぱちぱちと、増え始める拍手。

スポットライトが、ぼくたちのいるテーブルへ向けられる。

「みんなぁー! 元気かなぁ!」

りこりーん。

ファンの皆様の声があちこちから響いてくる。

えぇ、そこに居たの!? 

というリアクションが次々に溢れる。

お前ら知ってたな? 

まぁそりゃ、なんとか仮面みたいな怪しい変装の人が一人いたら、こいつだって思うよね。

リアクションは『んんー、口の中いっぱいに広がるこの芳醇な香りぃ!』みたいな、どこか曖昧な広がりかただった。

「今日はっ、来てくれてぇ、どうも、ありがとぉ!!」

りこりーん、保育園児のあいさつみたいな喋り方で、ファンに手を振る。

あちこちにいるファンの皆様が、ヒューとかうおーとか盛り上げる。

あ。あの中に、彼女のタイプは居なさそうだ、と、なんとなく思う。


『やってらんねー』って気分になったぼくは、席を抜けて、船の中を見て回ることにした。

廊下を進んでいくと、客室だとか、遊ぶための部屋とかがずらりとある。

どこもキラキラしていて、庶民がずっとここに居ると、気がどうかしそうだ。

面白そうだから、目に付いたビリヤードの台6つが置いてある部屋に入る。

すぐ横にはダーツ台が5つ。

ピンボール、テーブル型のゲーム機。

そしてなぜか、その手前に、ぴこぴこハンマーで倒すもぐらたたきの機械が1つある。

「もぐらたたきか……」

ポケットにあるコインケースから、200円を投入し、ハンマーを握ってみた。

あんまり印象に残らない愉快な音楽と共に、タイトルの『モグラをたたいちゃおう☆』が点灯。(そんなお茶目な……)

次々に、畑を模したフィールドの、あちこち穴が空いている部分から、これモグラ? みたいな楕円の生き物が浮き沈みしだす。

おお。結構当たり判定が遅い。

小学生の握力では限界がありそう。

ぴこって言うより、この重さだと、ぼこぼこハンマーって感じ。

重たい音とともにモグラを叩きつけ続けると、やがて『てってれーん、おっつかれさまぁ! 頑張ったねっ!』と機械が喋り『248点っ! すごぉーい』とのことだった。

基準がわからないけど、たぶんこれは、低い方の点数だと思う。

だって、りこりーんの「みんなダイスキィ、ありがとぉー!」の喋り方に似ていた。

まぁいいや。

「うーん……盛り上がんないな」

一人で盛り上がるゲームをやる切なさは、まぁ、嫌いじゃないけどね。

部屋から出て、次に二階へ上がってみることにした。1階と2階の間を繋ぐ、中間地点のタイルは、飾りなのか、点々と色の付いたタイルが並んでいて、ダイヤやハートの形をしていた。


ゆるりと左にカーブしたゆるやかな階段を上っていると途中、話し声を聞いた。

黒いワイシャツの女の人と、女性より背の高い白いワイシャツの男の人。

それだけなら、特に気にも留めなかった。

だが、なんだか意味深に見え、その会話を遮るようにして二階に上りきるのが躊躇われ、結局、そろそろと一階に降りてきてしまう。

「どうします?」

階段のすぐ下に突っ立っていると、横顔しか見上げられない位置で、男の人のぼそぼそした話し声がする。

「一つ、欠けているのは確かね」

女の人の声。

「4、3、1、2、でしたよね」

「3が無いのよ……」

「へぇ、3ですか」

(このへぇ、は『はあ……』みたいな感じの平坦なトーンだ)

なんだろう、3って。

と思った。

思ったが、こんな数字だけで何か思いつくわけでもない。

気に留めた理由のひとつとしては、その二人はなぜか壁に貼ってある見取り図を熱心に見ていたのだけど、この理由は後でわかることになるかもしれないし、ならないかもしれない。ただ、ひとつ言えることがあるなら、あまり深読みしないで欲しい。

きっと、適当なことを言っているに過ぎないんだから。


廊下で、小さな女の子に会った。

5歳くらいだろうか。

ノースリーブで、赤地に白の花柄、裾が黄色のシャンプーハットみたいにひらひらしているワンピース姿。

髪は小さな、ピンクで透明のキューブの髪飾りでてっぺんを結ばれている。

「前世占いをしてあげる」

その子はそう言って、にこぉっと笑うと、こちらにやってきた。

「俺は何かな?」

同じく、ディナーショーに興味が無いのだろう、日扇街ナツがそこに居た。

ひおうぎ貝はなかなか美味しいらしいけど、ぼくは未だ食べたことが無い。

三重県とか、大体その辺に生息している二枚貝だった気がする。

その子の前で腰を屈めている。

その子は嬉しそうに、そいつの右手を引っ張って、しばらく、んー、とか考えるように唸りながらナツの手のひらを観察し、やがて微笑んだ。

「あなたは、もともと、人間じゃなかったみたいね」

「どういうこと?」

「うさぎさん。でも、調整が行われたのね……ハスキーボイスのうさぎさんと小学生って、組み合わせは微妙だもの。良かったわね、人間になれて」

微妙かなあ。

でもうさぎさんだったら、ぼくともう少し仲良くなれていたと思うよ。

人間よりは、もふもふの方が好きだもん。

「なんだ、そりゃ」

「前世を調整するところがあるの。私、知っているのよ」

女の子はえっへんと、誇らしげに言う。

「へぇ、そうなのかい」

ナツも、ただにこにこ話を聞いていた。

「当たってるかどうかは、あなたにもわからないわよね、でも、前世だからね。本当は他にも、あなただけじゃなく、いろんな子に、衝撃的な設定が連なってたんだけど……聞かない方が、いいかも」

女の子はよくわからないことを言いながら、うふふと微笑む。

「なんだそりゃ。まぁ、そうする。ありがとう。ちなみにそこに居る子はなんだと思う?」

ナツが、にやにやしながらぼくを指差してきた。

ちっ、気付いていたか。

「高校生。前世も、人間ね。一人称は『ボク』だった」

「あぁ……」

なんか聞き覚えあるぞ、それ。

「高校にもチョーカーを付けて行ってたわね」

「あー。それ、わりと近い前世だー……」

「好物は――」

「うあああ、好物はやめて、好物の話はホントやめて」

ぼくが呻くと、

ナツが首を傾げる。うん、知らなくて良い。

まさか××××で、××―×××だったとか、お前も聞きたくないだろ?

更に言うと、別に八つ当たりってわけでもない。

けど、上手い言葉が見つからない。


そのときだった。きゃああああああああああ、と声。

え、何、事件?

ぼくたちが、きょろりと首を回していると、後ろから何かに衝突された。

なんで突進するの、牛か何かなの?

思わず後ろに倒れそうになりながら、その正体に視線をやる。

「久しぶりー!」

ウエーブがかかった腰までの黒髪のお姉さんだった。

パッチワークみたいなワンピース姿。

頭には、黄色い小鳥の髪飾りだ。セキセイインコ?

小顔で、目がまん丸で、なんとなく透き通った雰囲気を持っていて、どことなく魔女っぽい。いろんな意味で人形みたいな人。

ええと。こんな知り合い、居たかな?

歳は近いと思うけど、何歳かはっきりしない大人っぽさもある。

彼女も、ファンなのだろう。

手にはりこりーんのサインの入った色紙を持っており、肩にかかっているメッセンジャーバッグからは、くまちゃんが顔を出している。

「相変わらず、可愛げの無い顔してるっ!」

「どうも……」

どういうことだよ、それ。

「あぁ、その、ぜんっぜん愛想の無い感じ、一部のマニアにはたまらないわね!」

…………。

この人、危険人物だ。念のために家から防犯ブザーを持ってきておいて良かった。

使うかも。こっそりとポケットの中を確認する。

「でも、もっとにこにこ笑ってもばちは当たらないわよ?」

彼女は、そう言って、ぼくに、さぁどうぞ! みたいな感じで見つめてきた。

にこにこ笑う、ってどうやるんだっけ。

わかんないな。

「うっわぁ、おねえさん、お久しぶりですぅ、元気でしたかぁ。もぉ、ぼくってば、随分とあなたをお見かけしないものだから、今どうしてるかなぁって、ちょうど考えていたんですよぉ。いやーん。超ぐうぜん、嬉しいなぁー。これから一緒にビリヤードでもします? うふふ、もぐら叩きでもいいんですけど、なんだか、久しぶりにはしゃぎたくなっちゃったなぁー!」

とりあえず、ある限りの気力で、精一杯の女子力を駆使してみた。


「…………うん。まぁ、無理に笑うのは良くなかったね、ごめん」

なぜか謝られた。

おかしいなぁ。

このどこから見ても可憐な女の子だというはずの名演技に不満でもあるのだろうか。


「あら、可愛いお洋服ね」

すぐに、興味が移ったらしく、彼女はそばに立っていた女の子に目を向けた。

この子には触れるなよ? と謎の警戒をしてしまう。

「こんなの、やだなぁ。布にお花があるって、意味がわからない」

女の子は、服の裾を摘まんで、唇を尖らせる。

彼女は気にいっていないようだ。

「ママがくれたの。それで、これを着なきゃだめって。でも、かわいくない。何の意味があるの?」

悲しそうにする。

ぼくはなんて言えば良いのかわからなかった。

数秒、静かな時間が流れる。

諦めて、それじゃあねと言おうとしたときだ。

「あら。布なんかの、模様のひとつひとつにも、深い意味が根付いているのよ」

「意味? 意味が、あるの?」

女の子が不思議そうに、彼女へ無垢な目を向ける。

「えぇ。そうやって模様を眺めるだけでも、随分暮らしって豊かになると思うわ」

彼女は、うふふと笑って頷く。

どこか、おばあちゃんみたいだ。

定年退職して第二の人生を始めた、みたいな。

なんていうのか、構える部分でしっかりと構えているというか。

肝が据わっているというか。

「どんな、ものがあるんですか」

「例えば、キルトっていうのは、ときに奴隷を逃がす合図に使われた符号を含むことがあったの」

「奴隷?」

女の子は、不思議そうに彼女を見上げる。

顎に人差し指を当てながら、彼女は首を傾けて、微笑んだ。

「そうねぇ。昔は、身分っていうのがね、今よりももっと、差が大きかったりしていたの」

「王様と、家来だ」

女の子は、おそらく知っている単語の中で、似ていそうなものをあげた。

彼女は、うーん、と、曖昧に唸った。

説明が難しい部分だ。

それを察したのか、女の子はそれ以上は聞かず、代わりの質問をした。

「きると? って、攻撃力が、倍になる呪文のこと?」

「いいえ。スコットランドの民族衣装のことでもあるし、二枚の布に、こう、綿を入れて、重ねて縫ってある生地でもあるの。組み合わせてある模様を作るのにも使うものだったりもするわ」

「はぁ」

女の子の気の無い返事。

ちなみに、スコットランドの方はkiltで、ここでのものはたぶんquiltであり、二つは別のものであるので注意したい。余った布を活用しようとしたのが始まりなんだとかで、だんだんと装飾的になっていったのだという。

「たとえば、これ」

彼女は、そういうと、おもむろに足元を指差した。

床のタイル。

渋い色の赤と白の四角が交互に並んでいる。

「赤の四角四つ分で、区切ると、十字に見えるでしょう?」

「うん」

女の子が頷く。

「こういう風に、組み合わせた形で、例えば、絵や、図形を作るのよ」

「へぇー」

でも、それがどうかしたんだろうか。

わからない。

適当に天井を眺めていると、彼女は突如嬉しそうにぼくの頭を掴んだ。やめて。

「うふふ。可愛げが全くないわねぇ」

思い出した。

この人、昔会ったことがある。

文房具屋に行こうと思って道を歩いていたら、迷子かと聞かれたことがあるのだ。

「セットが乱れるんで触んないでくださいよ……」

「あら、今の子どもは、小学生から、髪をセットしてるの? まぁ、進んでるのねぇ」

してるって言っただけだけどね。

この人苦手だ。なんかわかんないけど、変に関わると、危ない。

「……で、その十字がなんです?」

「クロスロード。オハイオ州のクリーブランドで待ち合わせましょう、という指示に使われた符号の形が、それでもあるのよ」

「どこ?」

女の子が首を傾げる。

「外国」

ざっくりしていた。

「カナダへ逃げるときに、そこの湖を拠点にしたそうよ」

「カナダってどこ?」

「外国」

ざっくりしていた。

「へぇ。だから、その指示を知らせたいときに、それを、見せて回るんですか」

よくわからないけど、奴隷に読み書きは、許されていなかったのかもしれない。

だから絵を使うことがその指示を助けたのか。

「見せて回るというよりは、主には立てかけていたようよ、他にも、模様が記号と結びつく歴史は――」

絵と文字は、似ている。

「わかんないよ」

女の子は退屈そうだ。

うん、少し難しいよね。

「クッキーの市松模様を見て、おいしそうだなぁとか思わない?」

ぼくは言う。

「思う!」

その子は嬉しそうに頷く。

「お母さんも、きっと、お花を可愛いと思ったから、そのお花みたいに可愛いきみに着せたんだよ」

「そっかぁ」

女の子は、少し、安心したような、納得したような目をして、やがて、『じゃあね!』とぼくらから離れていった。

それから、ナツが疲れた顔で呟く。

「お前、どこ行ってたんだよ」

「飽きたんで、もぐらを叩いてた」

淡々と答えると、そいつはなんでやねん、みたいな顔をした。

ぼくはどうも、退屈になると一人で遊びに行ってしまうところがある。

(怒った? と聞かれることが多いけど、単に退屈になったから別の場所で遊んでるだけだから、心配しようが無駄でしかないので正直、そっとしておいて欲しい。気が向いたら勝手に戻るし)

いづれ戻って来るつもりだったんだけれど、探してくれたらしい。

こっちは放っておいて、遊びに行けばいいのに……

せっかく来たんだから、もっと遊びたいこととか、食べたいものとか、無いのか?

無いなら探すのも楽しいのに。

ぼくごときにわざわざ関わらずとも、もっと世界には楽しいことが溢れている。

考えてみて。ご飯とか、ご飯とか、あと、食事とか、ディナーとかさ。

もっとあるだろ、そっちを楽しめよ、って思う。

こっちはいいから広い世界とか、テーブルとかに、目を向けて欲しい。

頭が付いてるエビフライってかっこいいけど頭を食べないんだよね……でもかっこいい。




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