第3話 ひねくれお
二0✕✕年六月六日
日根暮男
「紙が死んだ!」
原稿用紙の上にお茶をこぼしてしまった。
幸先の悪いスタートである。
しかし、それも私らしい。
さて、どんな話から始めようか。
とはいっても、いずれにせよこの書は、色々とごった返した内容になると思うので、あまり考え過ぎず、適当に始めたい。
世の中に当たり前にある、当たり前の格言、もしくは教訓といったものがある。
まあ色々あるのだが、まず、前々から私がとても気になっていた言葉がある。
それは「七転び八起き」である。
この言葉、諸君はどう思われるか。
実は、私は全くいい言葉だとは思わない。
かといって否定するつもりもないが。
これはこれでいいとは思う。
なので「私は好きではない」と言おうか。
世の中には、六転び目で力尽きて死んでしまう人もいるだろう。
五転び目で、もはやそれ以上転ぶことさえままならなくなってしまう人もいるだろう。
そういう人達は一体どうすればいいのか。
そう私は思うのだ。
そこで、私はこう言いたい。
「死ぬまで転がり続けるのも立派な人生だ」
どうだろう。少なくとも私はこっちの方がずっと好きだ。
何より私は、転ぶ事それ自体も肯定したいのだ。
「失敗は成功のもと」という言葉がある。
それに基づいて「人生は成功か失敗じゃない。成功か学習だ」と言っていた者もいる。
まあ、とても前向きで素晴らしい考え方だと思うが、私はこう言いたい。
「人生には学習にすらならないようなちっぽけなしょーもない失敗もある」
そういう失敗はどうすればいいのか。
この問題については、人格者、所謂大人達は触れたがらない。
だからという訳ではないが、私はこう言おう。
「人生は成功かネタだ」さらに言うなら「人生ネタ探し」である。
学習にすらならないちっぽけなしょーもない失敗もネタにすればいいのだ。
「失敗こそが人生」である。
私は世の中、社会、人間を見ていてよく思う事がある。
なぜ、皆、そんなに、成功、幸せ、そういったものに強く拘るのか。
なぜ立派になりたがるのか。
なぜまともになりたがるのか。
なぜそこまで夢や目標を素晴らしく思うのか。
別に成功や幸せや夢や目標を否定するつもりはない。
そりゃあこんな私だって成功もしたいし夢もある。
ただ私は、失敗を愛せる人間になりたいと思っている。
自分の失敗も他人の失敗も愛したいのである。
私は「夢も目標もなく小さい人生でも、優しく穏やかな気持ちで、高望みしないで慎ましく生きていける人間」を最も尊敬する。
成功、幸せ、夢。
所詮は欲である。(なんか哲学者っぽいかも?)
金欲、性欲、自己顕示欲......。
立派になりたいと思うのは、立派な人間だと思われたいからである。
惨めとか、情けないとか、ちゃんとしないととか、結局は「人と比べて自分はどう?」というだけなのである。
つまり、世の中で皆が眩しそうに見て思っているものというのは、つまるところ各々の「曲解された欲の表象」に過ぎないのである。(おぉ、哲学者っぽい。本当はバカのくせにねぇ......)
私には夢も目標もある。
結局それもただの欲である。という事になる。
別に私は懐疑主義という訳ではない。
私はただ、こう思うのだ。
「生きて笑っていられているだけでも素晴らしい事、それだけでも幸せな事」
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