第36話『あたしの弟を泣かせてんじゃないわよッ――!!』

 俺は電車で芋野古いものこ駅まで戻ってから急いで自転車にまたがり、悠里をかくまっているウチのアパートまで帰ってきた。アパートの前で自転車から飛び降り、軋む階段を一気に駆け上がる、

 俺の部屋である二〇一号室の前まで来ると、すぐに異変に気が付いた。


「か、鍵がッ……⁉」


 玄関の鍵が壊されていた。築五〇年を超える古いアパートだ。当然、玄関の扉も古いもので、パールでも使えば簡単にこじ開けられたのだろう。


 おそるおそるドアノブに手を伸ばしたときだった。


「――きゃああああああァ~~~‼」


 扉の向こうから悲鳴が聞こえてきた。


 その瞬間。怖気付いていた体が勝手に反応し、俺は扉を開け放った。

 部屋に足を踏み入れると、奥のリビングに怪しい人物の背中が見える。


 黒のウィンドブレーカーに、フードを目深に被ったソイツは片手にナイフを携えて佇んでいた。その奥にはベランダへ続くガラス戸に背を付けて尻もちをついた状態の桜庭。そして桜庭を庇うように前に出て、しゃがみながら黒づくめの人物を睨み上げる悠里の姿があった。


「ずっと、キミに会いたかったんだ。ユリちゃん……‼」


 こちらに気付いていないのか、不審者は悠里たちに向かって一歩踏み出す。

 ぞっと背筋が凍るような感覚を振り払い、俺は肺いっぱいに空気を吸って吐き出した。


「なにやってんだ、お前ッ! 二人から離れろ……‼」


 アパート全体に響き渡るような大声で叫ぶと、不審者がビクッと肩を震わせてこちらに振り返ってくる。同時に刃物がこちらに向き、心臓が急速に縮み上がったのを自覚した。


 でも、ここで逃げるわけにはいかない……。


 強い意志を持って、俺は不審者を睨みつける。


「キ、キミが……どうして……?」


 一瞬の動揺。その隙を悠里だけが見逃さなかった。

 不審者が背を向けた瞬間、悠里がナイフを払い落したのだ。

 カランコロンと甲高い音を立てて、ナイフがフローリングに転がった。


 ――絶好のチャンス、だと思った。


 俺はすぐにリビングの方へと駆け出し、そのまま不審者にめがけて突進する。 


 咄嗟の判断だったため、躊躇う暇もなく全力で飛び掛かったおかげで自分よりも体の大きな相手を張り倒すことができた。


 その拍子に不審者のフードが取れる。

 そして明らかになったその正体を見ながら俺は胸にわだかまっていたものを一気に吐き出した。


「なんで……。なんでだよ、ッ……‼」


 不審者の正体は俺の担任の教師であり、オタク趣味の師匠でもある葉山はやま真市しんいちだったのだ。


 悠里の背後で桜庭が息をのむ気配を感じた。彼女にとっても衝撃的だったのだろう。葉山先生は生徒の間でも誠実に向き合ってくれる信頼できる先生だったのだ。


 俺だって、今この状況になってもまだ信じられない。信じたくない。

 先生の本性が、誇り高きオタクであると思っていたからこそショックが大きかった。


 涙で視界がぼやけてきた。

 樺沢かばさわが集めた手がかりに書いてあったのは『ツンデレ紳士』というユーザー名と高校教師であるという情報だった。俺は先生が『ツンデレ紳士』という名前を使っていることを知っていた。先生はツンデレが大好きだったんだ。


 ちゃんとこの目で確認するまでは信じたくなかった。

 でも、今こうして俺の目の前にいるのは間違いなく葉山先生だ。


「なんで、こんなことしたんだよ……‼」

「こ、こうするしかなかったんだよ。こうでもしないと自分を保てなかった……」


 ピュアイノセントこと目黒めぐろ暗奈あんなに男の幼馴染がいたというあの事件が先生を変えてしまったのだろう。先生の気持ちは俺にもわかる。ピュアアブソリュート推しの俺ですら多少なりともショックを受けたんだ。イノセントを推していた先生の気持ちは痛いほどわかった。


 推しを失った悲しみを新たな推しで埋めようとするのは自然なことだ。


 でも、だからって――。


「こんなのは間違ってる! 俺たちオタクは推しの幸せを第一に考えるべきなんじゃないのかよ‼ 推しを不安にさせて、怖がらせて、泣かせてどうすんだよッ……!」

「キ、キミには……。小森氏にはわからないでやんすよ! 暗奈たそはただの推しじゃなかった。オイラのお嫁さんだったんでやんすよッ‼ 大切な人を、大切な家族に裏切られた痛みが小森氏にわかるでやんすか……⁉」

「お嫁さん……。ああ、奥さんって目黒暗奈のことだったんですね。なんで初めからそう言ってくれなかったんですか……」


 初めからそう言ってくれたら喧嘩することもなかったかもしれないのに……。


 だが思い返せば、先生の左手の薬指から指輪が消えたのも例の放送回と時期が被る。俺がそれに気付いてもっと先生を気にかけていたらこんなことにはならなかったのかもしれない。


 先生は目黒暗奈を一人の女性として心から愛していたんだ。そして愛していた女性に裏切られ、自分を見失ってしまった。


 多分、先生の苦しみを完全に理解してあげることはできない。だが、すべてが理解できないというわけじゃない。俺も姉に対して勝手に裏切られたような気分になり、ずっと向き合うことができなかった。でもそれは俺が姉のことを理解しようとしていなかっただけなんだ。そのせいで自分を見失っていたし、たくさん迷惑をかけた。


 だからこそ、今の俺は先生の気持ちを多少なりともわかってあげられる。


「……先生は暗奈ちゃんのこと、理解しようとしましたか? 勝手に裏切られたような気分になって、突き放したんじゃないですか……?」

「わかったような口を聞かないでほしいでやんす! 今日の放送でなにも弁解されなかったということはそういうことなんでやんすよ! もうあんな女は知らないでやんすッ‼」


 そのとき、玄関の方からガタンッと物音が聞こえてくる。

 そしてマリーさんが部屋に入ってきた。俺の後を追ってきてくれたのだろう。


「ちょ~っとアンタ、なァ~にしてるのよぉ~ん!」


 マリーさんが駆け付けてきてくれて少し気が抜けてしまった瞬間。

 突如部屋に入ってきた一九〇センチのオネェに驚いたのか、先生が跳ねるように起き上がって今度は俺が張り倒されてしまう。俺と先生の位置が入れ替わった。


「ち、近付くなでやんすッ‼ 彼がどうなってもいいんでやんすか……⁉」

「み、湊斗っ……‼」


 背後から悠里の声が聞こえる。

 葉山先生は悠里やマリーさんをけん制するように拾い上げたナイフを俺の首元に突き付けてきた。腕で首をホールドされているせいで息が吸いづらい。

 恐怖で上手く体が動かず、振り払うこともできなかった。


「せ、せんせ……。やめっ……」

「オイラはただユリちゃんに癒してもらいたかっただけなのに……。オイラにはもうなんにもないでやんす! こうするしかないでやんすよッ……‼」

「ち、がう……。先生は、やり直せるよ……」

「黙れでやんすッ‼」


 ナイフの切っ先を押し当ててくる。首に冷たい感触が当たった。

 恐怖に支配され、もう抵抗する余裕もなかった。


 ぞわぞわと背筋から全身に寒気が広がっていく。冷たい汗が頬を伝った。生まれて初めて殺意に晒され、死を身近に実感して震えが止まらない。


 し、死にたくない……。


 歪む視界の中で、悠里と視線がかち合った。


「ね、姉ちゃん……助け、て……」


 無意識にこぼれた言葉。ふいに先生から一瞬狼狽うろたえたような気配を感じた。俺の家庭環境を知っているからだろう。この至近距離だからこそ伝わってくる。


 そして先生の腕の力がわずかに抜けて、切っ先が落ちた瞬間だった――。


 すさまじい風圧が間近に迫った。前にも感じたことがある感覚。視界がスローモーションになり、俺の頭上をかかとが通り過ぎる。


 次の瞬間。俺は先生の腕から解放され、背後でどさりと先生が床に倒れこんだ。


 舞うような美しい回転蹴りが見事に先生のこめかみに直撃。一発KOだった。

 悠里は先生が失神していることに気が付いていない様子で、鬼気迫る形相で叫んだ。


「あたしの弟を泣かせてんじゃないわよッ――‼」


 その背中はずっと胸の奥底にしまっていたはずの姉の姿だった。

 小さいころ。体が小さくていじめられがちだった俺をいつも守ってくれた、たくましいがそこに立っていた。


   ◆


 その後。マリーさんが警察に通報し、葉山先生は現行犯逮捕された。


 俺たちも警察署に同行し、事件の経緯を詳しく説明した。マリーさんが以前から被害届を出していたストーカー被害に加え、脅迫罪や傷害罪などの余罪についても話した。


「キミ、未成年だよね。高校生?」

「は、はい。そうですけど……」

「じゃあちょっと親御さんに迎えに来てもらおうか」

「え。いや、大丈夫ですよ。一人で帰れます……」

「そう言われてもねえ、犯行現場がキミのアパートなわけだしねえ。もし親御さんの都合が合わないなら実家まで送ってあげるよ?」

「い、いえ。姉と一緒に帰りますから……!」

「あ、あたし、成人済みですので!」


 隣から悠里も加勢するが、警察官のおじさんは難色の表情を崩さない。


「いやあ、でもねえ。親御さんにはちゃんと説明しないといけないからねえ」


 まずい。まずいことになったぞ。なんでこの可能性について考えていなかったんだ……。

 悠里の付き添いならまだしも、事件の当事者になってしまったら言い逃れできない。いや、あのときは咄嗟だったから考える暇もなかったんだけどさ……。


 俺は悠里に顔を近づけ、コソコソと小声で言う。


「ど、どうする? 母さんに事件のことがバレたら、もう妹代行を続けられなくなるぞ」

「どうするって言われても……」


 悠里はしばし考えるような間を取った後、ゆっくりと口を開いた。


「や、やっぱりあたし、逃げるのはもう終わりにしたい。全部お母さんに話して、ちゃんと認めてもらいたいの」


 その言葉には強い意志が込められていると思った。

 だったら俺の答えは――。


「……そうか。なら一緒に説得しようぜ」

「え、なんで……」

「姉さんに妹代行を続けてほしいって思ったからだ。悪いか……?」

「ううん、悪くない。……よろしくね」


 そうして俺は約半年ぶりに実家へ帰ることを決意したのだった。

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