第9話『さっき、なんでもするって言ったよな?』

「な、なんで小森君が……」

「それはこっちのセリフだ……って言いたいところだけど、どうやら俺は呪われているらしい」

「呪われている?」

「そう、お兄ちゃんになれない呪いに……」

「……なんですか、それ」


 午後六時ごろ。外が冷え込んできたのでとりあえず桜庭さくらばを家に上げ、いつかのワンシーンみたいに座卓を挟んで向かい合うように座っていた。


 さて、どうしてこんなことになってしまったんだか……。


 なぜかわからないけど、我が家にクラスの高嶺の花がいる。それも髪をおさげに結わえ、いつもの紺色のブレザーではない制服を着て。


 桜庭さくらば朱夏しゅかは清楚系の整った容姿に成績優秀、さらに風紀委員を務めるほどの優等生で、どこか別の世界に生きているような近寄りがたい雰囲気があった。

 まさに『高嶺の花』という言葉がぴったりで、桜庭に対して尊敬の眼差しを向ける者は多い。男子の間では美しく儚げな世界遺産を守るがごとく、密かに不可侵条約が結ばれているという話を盗み聞きしたことがあるくらいだ。


 そんな有名人と我が家で二人きり。

 もしもこんなところがクラスの連中に知れたら、俺は抹殺されるかもしれない……。


 ちらと向かいに座る桜庭の様子をうかがうと、ほんのりと顔を赤く染めながら居心地が悪そうに髪をクルクルと指に絡めていた。


 普段はあまり感情を表に出すタイプではないと記憶しているが、さすがにクラスメイトにこんなところを見られるのには抵抗があるのか、いつもの鉄仮面は見る影もなく顔が羞恥の色に染まっている。


 ふいに桜庭が視線を下げたまま、ぽつりと弱々しい声音を吐いた。

「し、失望しましたよね……」

「え、なにが?」

 聞き返してからすぐに気付く。

 桜庭は自分が周囲にどのような印象を抱かれているのか正しく理解しているのだろう。


「……まあそりゃびっくりはしたけど、別に失望なんてしてないよ」


 そもそも失望するほど彼女のことをよく知らないということもあるが、いまさら真面目な風紀委員が妹代行サービスで働いていたとしてもインパクトが薄いんだよなぁ……。イケメンで誠実な数学教師かと思えばハイレベルなオタクだったり、直近だと実の姉が妹として我が家を訪ねてきたり。それに比べれば、まだ可愛いものだと思ってしまった。

 いや、多分これは俺の感覚が麻痺まひしてるんだよなぁ……。


 それより二回連続で顔見知りが来るってどういうことなんだよ、チクショー。え、なに。妹代行サービスって主に俺の知り合いから構成されてんの? ただでさえ知り合いなんて少ないのに、今のところ百発百中だぞ……。


 心の中でひとしきり嘆いた後、いくらか冷静になった頭で今の状況を咀嚼そしゃくした。


 まあでも、あの桜庭朱夏がこんなアルバイトをしているのは意外と言えば意外だ。普段の学校でのイメージだと、こういう萌え文化には否定的だと思っていたし。俺の風紀委員に対する偏見も混ざってるけど。


 心なしかしょんぼりと身を縮める桜庭にどう声をかけていいものか考えていると、桜庭は躊躇ためらいがちにこちらを窺うような視線を向けてきた。


「あ、あの……。このことなんですが……」


 座卓の向かいで、正座のままおもむろに一歩後ろに下がったかと思えば、桜庭はまるで旅館の女将さんがするような流麗りゅうれいな所作で頭を下げてきた。

 しかしそれはお辞儀ではなく、いわゆる土下座というやつだ。


 な、なんなんだこの状況……。クラスの女子がウチで土下座してるぞ……。


「どうか、このことは他言無用にしていただけませんか……っ!」

「ちょ、ちょっと……」

「お願いします……。この仕事が続けられなくなると困るんです。私にできることなら……な、なんでもしますから!」

「わかった。わかったから土下座なんてやめ――え、今なんでもって言った?」

 な、なんでもってつまり、なんでもだよなぁ……?


 思わず脳裏に浮かんだエロゲ的思考を振り払い、俺は気を取り直すように咳払いした。


「あ、安心してくれ、誰にも言うつもりはないから。そもそも言う友達がいないからな」

「……ありがとう、ございます?」


 空気を和らげようと試みたものの、桜庭に戸惑ったような視線を向けられてしまった。なるほど、関係値の低い人間に自虐なんてかますもんじゃないな……。ひとつ勉強になりました。


 それにしても、入学式で堂々と新入生代表挨拶をしていたあの桜庭がこんなふうに取り乱すなんて想像も付かなかった。その理由が少し気になって問いかけてみる。


「さっき『この仕事が続けられなくなると困る』って言ってたけど、なんでこの仕事なんだ? 別に他のバイトでも稼ごうと思ったら稼げるだろ」

「そ、そのとおりですね。ですが、学業や家事を優先しながら働くとなると、拘束時間が短くて時給の良いこの仕事は私にとって都合がいいんです」

「家事……?」

「はい。家が母子家庭なので、私が弟や妹の面倒を見ているんです」

「そ、そうなんだ……」

 そんなこと、こんな軽い気持ちで聞いてしまってよかったのだろうか。


 でもすごいな、わりとレベルの高いうちの学校で成績を上位に保ちながら風紀委員も務め、さらにきょうだいの面倒まで見て、アルバイトもしている。

 彼女を完璧超人たらしめるのはすべて並々ならぬ努力の結晶だったんだ。

 そう思うと今まではどこか遠い存在だと思っていた桜庭朱夏という女の子にも親近感が湧いてきた。と言っても、とても真似できるようなことではないが。


 ていうかこの店、高校生まで雇ってたのかよ……。ますます危ないにおいがしてきたゾ。


「余計なお世話かもしれないけどさ、大丈夫なのか? ほら、妹代行サービスって知らない人の家に上がったり、デートとかもするんだろ?」

「た、多少不安はありますが大丈夫です。お客さんも従業員の皆さんも優しいですし。それに、私はまだ未成年なのでプレミアムプランはないんです」

「そうは言っても……あー、いや。ごめん」

 これ以上は本当に余計なお節介になるだろう。姉に妹代行サービスを辞めさせようと意気込んだばかりのせいで、桜庭に対して図々しく振舞ってしまった。


 だが桜庭は気を使ってくれたのか、俺の言おうとしたことを汲み取って答えてくれる。

「一応先輩から護身術も習っていますし、いざというときにはこれもあるので大丈夫ですよ」


 そう言って、桜庭はスカートの裾を軽くたくし上げた。

 その行動に思わずドキッとしてしまったが、その正体があらわになった途端、別の意味でもドキッとさせられる。桜庭の太ももにはレッグホルスターが巻かれており、そこには長方形のモバイルバッテリーのようなものが収められていたのだ。


「そ、それってまさか……」

「はい。スタンガンです」

「ちょ、えぇッ⁉ それ合法なの⁉」


 さらっととんでもない物が出てきたぞ……。


 桜庭は口許くちもとに指を当てながら小首をかしげる。

「一応合法なんじゃないですか? 護身のためという正当な理由がありますし」

「へ、へぇー……」

「あと催眠スプレーもあります」

「そんな物騒な物は早くしまってッ‼」


 これじゃあ妹じゃなくて女スパイじゃないか……。スタンガンって初めて生で見たしよ、普通に過剰防衛なんじゃないのか。そんなツッコミは野暮なのか?

 装備万端すぎてビビる。アイツもウチに来たとき装備してたのかな。まあアイツの場合は素手で充分だとは思うけど。俺は実家のリビングに飾ってあったテコンドーのメダルやトロフィーを思い浮かべた。


 それで思い出したが、そういえば俺には本来別の目的があるんだった。

「そういやさっき、なんでもするって言ったよな?」

「い、言いましたけど……」

「なにしてもらうか、今決めた!」

「な、なんでもとは言いましたが、できることとできないことは当然……」


 桜庭がなにか言っていたがふいに降りてきた妙案のことで頭がいっぱいで、よく聞き取れなかった。桜庭朱夏をなんでも思うがままにできると思うと高揚感が全身を突き動かす。

 俺は後ずさる桜庭に無言のまま近づき、ギュッと力強く彼女の手を握りしめた。


「頼む、俺と一緒に姉を――」

「ひぃぃ……」


「えっ……?」


 バチバチバチ――。


 顔を真っ青にした桜庭が太もものホルスターからスタンガンを抜き、振り回した。

「いやああああああッ……‼」


「えぇええ、ちょ、ちょっと! ちょっと待ってッ⁉」


 俺は尻もちをついて、ズルズルと後ずさる。

 すぐにベランダに続くガラス戸に背中がくっついた。


「え、えっちなのは規約違反です――ッ!」


「ぎゃあああああああああ」

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