第4話『お、おにぃ……ちゃ……』

「お、おにぃ……ちゃ……」

「え、なに? ぜんぜん聞こえないんだけどー?」

「お、お兄ちゃんっ! そ、掃除する、から……」

「あー、ダメダメ。ただお兄ちゃんと呼べばいいってもんじゃないから。妹ナメてんの?」


 耳まで真っ赤に染めながら反抗的な目で睨み付けてくる悠里に、俺はあえて大げさな身振りでダメ出ししてやる。おいおい、ちゃんと妹代行してくれないと屈辱を与えられないだろ。

 わざと、はぁ~と大仰おおぎょうなため息を吐いて悠里の顔を覗き込んだ。


「あのさー。もっとこう妹っぽく振舞ってくれないと。妹代行サービスなんでしょ、


 恥じらうように身をよじる悠里の姿を見て、俺は清々しい気持ちで満たされていた。

 まるで、積年の恨みが報われるような感覚。俺があえて「姉さん」と呼ぶたび、ピクリと肩を震わせるのを見ていると実にせいせいした気分だった。


 散々蔑んできた弟にもてあそばれるのはどんな気分だ?

 やば、俺今ちょー悪者っぽい。でもなんだろう、この高揚こうようかんは……。


 屈辱に顔を歪める姉の姿を見下しながら最高の気分に浸っていると、不意に悠里がキュッと唇を噛んで深呼吸をし始めた。

 その瞬間、なにかが変わる。


「お、お兄ちゃん! 掃除するから邪魔しないでよねっ!」


 かすかに頬が赤らんでいるものの、どこか開き直ったような表情。相変わらずむすっとした不機嫌そうな顔をしているが、ツンと胸を張ってツインテールを揺らすそのたたずまいは妹たる風格をまとっているように見えた。


 思わず全身に稲妻が駆け巡ったような衝撃に襲われる。ピリピリと空気が張り詰めたような感覚さえ錯覚させ、首から全身にかけて鳥肌が広がっていく。

 この瞬間、そこに存在するのは紛れもなく俺の妹だったのだ――。


「もぉー、なにこの部屋? お兄ちゃんこういうのが趣味なの?」

「ちょ、勝手に触るなよ……」


 棚に飾っていた『ポンコツシスター☆マインちゃん』のフィギュアをつまみ上げたユリちゃ――いや悠里に詰め寄ろうとすると、ズイッとフィギュアが眼前に突き出される。

 目を白黒させる俺に悠里がにやりと微笑みかけてきた。


 その笑顔は小悪魔的なあざとさをはらんだ笑みだった。

「ユリがいればこんなのいらないよね、お兄ちゃん?」

「えっ、ああ……」

 得も言われぬ迫力に思わず頷いてしまったが、大切なフィギュアがビニール袋に投げ入れられたのを見て正気を取り戻す。


「おい! なにやってんだ、お前ェ‼」


 ニヤニヤとほくそ笑む悠里に掴みかかろうとするがひらりとかわされ、俺は床に跪いて忌々しい姉を睨み上げた。


「こんのアマ……」

「ほんの仕返しじゃない。冗談がわからないの?」

「やって良いことと悪いことがあるだろッ! よくも俺のマインちゃんを……」

「なに泣いてんのよ、自業自得でしょ?」

「なんだと、この……」


 ガルルルル。俺が縄張りを荒らされた野犬ばりに威嚇すると、悠里は可哀想なものでも見るような胸糞の悪い目で見下ろしながら呆れたようなため息を吐いた。


「はぁ……。ハイハイ、わかったわよ。真面目にやればいいんでしょ?」

 お母さんにバラされると厄介だし、と呟きながら悠里は紺色のエプロンと三角巾を身に着ける。今まではコスプレ訪問サービス的な印象しかなかったが、ようやく本来の業務であるはずの家事代行っぽくなってきた、と思った。


 俺がマインちゃんのフィギュアを抱えてベッドの上に縮こまっている間、悠里は床に無造作に散らばった雑誌を集めてビニール紐でくくり付け、脱ぎ散らした服を洗濯籠に入れていく。


 あっという間に床に落ちていた物がなくなり、掃除機をかけ始めた。

 そのやけに手際のいい姉の姿を目の当たりにして、俺は驚きを隠せなかった。俺が実家にいたときは掃除すらまともにできないようなドジでズボラなダメ人間だったのに……。


「――ひゃあっ!」

 そう思っていたそばから悲鳴が聞こえて姉に意識を戻すと、なぜか悠里は掃除機のコンセントの紐にグルグル巻きにされてすっ転んでいた。

 ……なんでこんなヤツが人気ナンバーワンなんだよ。


 その後も拭き掃除をしながら壁に頭をぶつけるわ、くしゃみをしてせっかく集めたゴミをぶちまけるわ。やはりコイツのドジはそう簡単に改善されるものではなかったらしい。


 しかし当然仕事だからとはいえ、わりと真面目に掃除をする姿は俺の知っている姉ではなかった。前は偉そうな現場監督しかできなかったのに……。


「ほんとズボラなんだから」と、素で愚痴をこぼしながら洗濯物を干し終えた悠里は綺麗になった部屋の真ん中で満足げに胸を張った。

「どう、綺麗になったら気分がいいでしょ?」

「お、おう」

「物を出したら片付ける、を徹底するんだよ。わかった、お兄ちゃん?」

「はい……」

「じゃあ、あたしはご飯作るからお兄ちゃんはゆっくりしててよ」

 そう言いながら悠里は料理用の赤いエプロンに着替えて髪を一束にまとめると、ここに来る途中に買ってきたらしい材料をエコバッグから取り出して狭いキッチンに移動した。


 入念に手を洗い、玉ねぎやピーマンを危なっかしい包丁さばきでみじん切りにした後、ゴソゴソとエコバッグをあさりながら、ふと思い出したように声を上げた。


「やばっ、鶏もも肉買うの忘れたっ!」


 今ある材料にプラス鶏もも肉ということはおそらくオムライスを作ろうとしているのだろうか。チキンライス作るのに鶏肉忘れるか、普通……。まあケチャップライスでもいいけどさ。


「お兄ちゃん、冷蔵庫にお肉入ってないの? ベーコンでもいいんだけど」

「知るか」

「なんで知らないのよ……」とブツブツ文句を垂れながら悠里が冷蔵庫を開けて、そして盛大なため息を吐いたのが聞こえてきた。

「なによ、これ……。エナジードリンクとお菓子しか入ってないじゃない」

 これシッケてるし、と冷蔵庫に保存していたチョコクッキーをツンツンしながらこっちに視線を向けてくる。仕方ないだろ、コンビニ弁当もカップ麺も飽きたんだから……。


「アンタどうやって生活してるのよ……」

「ほっとけ」

 俺がそっぽを向くと悠里はまたしても軽くため息を吐き、調理台に戻る。


 しばらくすると、油が弾ける心地よい音とともに玉ねぎの香ばしい香りが漂ってきた。

 ふいに電子レンジの音がして、悠里がフライパンにレトルトのパックご飯をぶち込めば本格的にそれらしくなってくる。満遍まんべんなくケチャップが絡まると、一度皿にケチャップライスを移してフライパンを洗い始めた。


 しばらくして、いい香りにつられて再びキッチンに視線をやると、カタカタ卵を溶くのに合わせてくねくねとポニーテールが揺れ、スカートの裾がひらひらしている。その後ろ姿が妙にちぐはぐな感じで、あの憎たらしい姉であっても不思議と抵抗感が湧いてこなかった。


 なんとも形容しがたい感情に苛まれていると、フライパンにサラダ油を垂らしながら肩越しにこちらを覗き込んでくる。


「お兄ちゃん、もうちょっとで出来るからスプーンと飲み物用意してくんない?」

「ん」と、軽く頷きながら言われたとおり用意して定位置に腰を下ろすと、悠里が二人前の皿を運んでくる。小さな座卓がぎゅうぎゅう詰めになり、俺はこぼさないよう注意を払いながらスプーンを手に取った。


 すると向かいに座った悠里もキッチンから持ってきたスプーンを携えて手を合わせている。


「いや、お前も食うのかよ」

「どうせ中途半端に材料が余っても料理なんてしないでしょ? だから全部使って二人分にしたのよ。そしたらお兄ちゃんのお金で一食分浮くしお得じゃない?」

「……まあいいけどさ」


 でも、その回答は妹としてどうなんだ? いや、計算高い妹もありか。湊斗お兄ちゃん的には全然許容できるぞ。むしろ萌えるまである。


 しかしそれにしても――。

「これ、オムライスなんだよな?」

「な、なに、文句あるの? どう見てもオムライスでしょ……?」

「俺にはケチャップライスの上にスクランブルエッグがのっているようにしか見えないんだけど……」


 さも料理できますって感じの雰囲気をかもしながらキッチンに立っていたけど、コイツがまともな料理を作ったこと、いや作れたことなんてたったの一度もないぞ。

 かろうじて掃除はできるようになっていたからもしやとは思ったが、出された皿を見るかぎり不安になってきた。いや、まだ昔に比べればマシなの、か……?


「………」

 しばし悠里はじーっと俺に出した皿よりも一段と見た目の悪い自分の皿に視線を落としながら沈黙していたが、むすっとした顔を上げる。

「フライパンが悪かったのよっ!」

 道具のせいにしやがった……。


「いや、あれ一回も使ってないから実質新品なんだけど……」

「んぐぅ……」

 首をすくめて頬を膨らませる悠里。その拗ねたような仕草は制服エプロンにツインテールという格好によく似合っていて、不覚にもドキッとさせられてしまう。


「い、嫌なら食べなくていい! あたしが全部食べるからっ!」

 声を荒げた悠里を無視して、俺はハートを描いたケチャップをスプーンの腹で潰してからオムライスをすくい上げて口に運んだ。


 もぐもぐバリッギシくちゃくちゃ。


 口に入れた瞬間、べちゃべちゃのケチャップライスからガムシロップみたいな甘ったるい水分がにじみ出る。卵はそぼろみたいになっているし、おこげになった部分は漢方みたいに苦いし、砂糖の塊がゴロゴロと普通に入っている。え、砂糖……⁉


 それは決して美味しいとは言えなかった。

 なんなら料理への冒涜ぼうとくだと思われても仕方のないレベルだ。

 けれど、俺にとってはどこか懐かしい、温かみのある味だった――。




 ずっと昔の記憶。まだ父さんもいて、ご近所からは仲のいい家族だと言われていた頃。水曜日は両親が家に帰ってくるのが遅く、姉がよく晩ごはんを作ってくれていた。


『みなと、ゆうりのとくせいオムライスだよ! いっしょにたべよっ!』


 エプロンをベタベタに汚して微笑みかけてくる幼き日の姉が脳裏に浮かぶ。

 甘い=美味しいという思考回路から生み出された毒物は一度も美味しかったことはなかったけれど、姉がいるだけで寂しさは薄れたし、いつしか水曜日が好きになっていた。


 だが、そんな日々はずっとは続かなくて。


 父さんがいなくなり、母さんが体を壊して入院するようになると家族がバラバラになって、優しくてたくましかった姉もいつしか変わってしまった。


 両親が家にいなくても姉さえいてくれれば俺は寂しくなかったんだ。

 なのに――。


『こっち来んな。アンタ見てるとムカつくのよ……』


 初めて、大好きだった姉に拒絶されて俺は裏切られたような気分だった。




 ふと気が付くと座卓の向かいでおそるおそるこちらを覗き込む姉の姿があった。自分はまだ料理へは手を付けず、心配そうにこちらを見ている。


 なんだ、俺は毒見でもさせられているのか……?


 思わず悪態を吐きたくなったが、あまりに真剣な目を向けてくるのでグッと堪えた。

 おそらく俺の手が止まっていたのが不安だったのだろう。


 食べているところをジロジロ見られているのに耐え切れず、俺はおもむろに皿を持ち上げてオムライスもどきを一気に口にかき込んだ。


 悠里は一瞬驚いたような顔をしていたが、すぐにその表情が明るくなる。

 このまま俺が感想を言わなければいつまで経っても食べなさそうなので、ふいっと視線をそらしてモグモグしながら言ってやる。


「くそ不味い」


「はぁ? それだけがっつり食べておいて不味いって?」

 天邪鬼め、と吐き捨てながら悠里も自分で作ったオムライスを口に運んだ。


「にがッ――⁉」

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