戸惑い
「先生、みてください!」
ハグムが久しぶりに夜遅く仕事から帰った翌朝、ハクタカは休日、少し遅めに起きて来たハグムに、庭から声をかけた。
「ほら、チボ!」
そういうと、ハクタカは食卓に並んだ鹿肉の残りを、ぽいっと宙に浮かせると、すかさずチボが空中でそれを口の中に咥えた。
「食べ物じゃなくても、なんでも咥えられるんです。すごいでしょう?」
「本当だ」
ハグムはチボの口の中に肉が吸い込まれていくのが分かった。
「よし、チボ。食べていいよ」
ハクタカがそう言うと、チボは口の中に含めていた鹿肉を、思いっきり喜んで噛んで食べるのであった。
チボと戯れ合うハクタカを見て、庭の廊下に座ったハグムは苦笑いした。
(さて、どうするか…)
片膝を折り曲げて手を組み、ハグムは庭を眺めていた。
ハグムはまだ答えを見つけられないでいた。
ハグムはハクタカを家から追い出す気は全くなかった。
もう、すでにハクタカに対する家族にも近い親愛は、揺るがないものになっている。
しかし、自分が男で、ハクタカが女である以上、このまま黙っているのはハクタカの女としての将来を考えると、あまりにも酷だと、ハグムは感じていた。
「先生もやりますか?」
そうハクタカに言われてハグムはっとした。
ハグムの手のひらに鹿肉の残りを落とすと、ハクタカはにっこり笑った。
「あ、いや、しかし。私はあまり見えぬから、チボの口にうまく運べるかどうか」
「大丈夫です。投げるだけでいいんです。こうやって…」
ハクタカが、ハグムの手の指に触れて、鹿肉を包むようにしてやった。
ハグムは、ハクタカの手が自身の手が触れると、ぱっとハクタカから手を離した。
鹿肉が、ぽろっと、廊下に落ちた。
「……先生?」
落ちた鹿肉を見やった後、ハクタカが心配そうにハグムを見た。
「あ、いや。…鼻が痒かっただけだ」
頬を少し赤らめながら、ハグムは腕を鼻に当て、片方の手で鹿肉を拾った。
「いいですか、そのまま何も考えず、投げてみてください。チボ!」
ハクタカに言われたとおりに、ハグムは自分の正面に、まっすぐ鹿肉を投げた。
すると、庭のどこからか、チボがやってきて、空中で鹿肉をくわえたのであった。
「…すごい」
ハグムは軽々と宙を舞うチボがすごく印象的だった。
「すごいでしょう?」
ハクタカは自慢げに笑った。
夜、ハクタカが夕食の準備をしている間、ハグムは庭の廊下で片膝を抱きながら座り、気晴らしにチボと遊んでいた。
チボは未だ初対面の男には激しく鳴いたが、ハグムには近寄って擦り寄ってくるほどだった。
ハグムは紙を丸めて布で巻いた簡易的な球を作り、宙に放って、チボが空中で咥えて持ってくるのを見ては楽しんでいた。
何回かすると、チボはその球を自身の小屋の中に持って帰ってしまったようだったので、変に食べてしまってはまずい、と思ったハグムはチボの小屋を外から覗いた。
「チボ、それは持って帰っては駄目だ。返しなさい」
チボは不服そうに、咥えていた球をハグムの手のひらに置いた。
「よし、いい子だ。……ん?」
ハグムは犬小屋の暗闇の中で、光るものを見た。
(なんだ?)
ハグムが犬小屋の中に手を伸ばそうとすると、
「先生!夕食ができました!」
と、庭の廊下から叫ぶハクタカの声がした。
手の一部が犬小屋に入っていたハグムは手を引っ込めて、ハクタカの方を振り向いた。
「ああ、今行く」
「先生、食事が冷めてしまいます。早く!」
「はいはい」
ハグムは、その場で立ち上がり、ハクタカにありがとう、と言って座敷の方に戻っていった。
ハクタカはそれを見送ると、さっと庭のチボの犬小屋に駆け寄り、剣がもとの場所にあるのを見て胸をなでおろした。
「ぎりぎり、危なかった…チボ、いてくれてありがとう。ここはもう隠せないね」
犬小屋は、チボの体で大部分が埋まっていて、外から中はほとんど見れなかったのだ。
ハクタカはシバからもらった剣を、外からは絶対見えない軒下に、隠し直すのであった。
「ハクタカ、どうした?」
向かい合って食事を食べていると、ハグムが問うた。
「え?何がですか?」
「少食だし、何か、ぼうっとしている様子だが」
ハグムはハクタカをまじまじと見つめた。
「そんなことないですよ」
ハクタカは笑顔を見せていた。
「…そうか?」
気のせいか、とハグムはまた食事に戻ったが、やはり、違和感を感じた。
ハクタカの息遣いが荒い。
ハグムは箸を机の上に置き、膝立ちになると、すっと手をハクタカの額に置いた。
「……熱があるじゃないか」
ハクタカは一歩引いて、ハグムの手から逃れながら
「気のせいですよ」
と答えた。
「気のせいじゃ、ないだろう。ひどい熱だ」
「大丈夫です」
ご馳走様でした、と言って食器を片付け始めたハクタカの手を掴み、ハグムは立ち上がった。
「家事はいいから、今日はもう寝なさい」
「そういうわけには…」
ハクタカが言い終わるより先に、ハグムは手をひいてハクタカを廊下に連れ出した。
ハクタカの部屋の布団に、ハグムはハクタカを無理矢理寝かせた。
「君は昔からそうだ。体調が悪くても言いやしない」
急にそうハグムに言われ、ハクタカはきょとん、とした。
そして、ふふ、と笑った。
「なんだ?」
ハグムが問うと、
「先生には言われたくありません」
と、ハクタカはハグムを見つめてくすくす笑った。
(……何がそんなにおかしいのだ)
ハグムは訝しそうにハクタカをみつめた。
しかしハグムはハクタカの笑顔をみて、いくらか安堵した。
桶に水を入れ、水に浸した布をハグムはハクタカの額に優しく置いた。
「今日はこのまま寝ること。いいね」
「………」
ハグムの言いつけに、ハクタカは頷かなかった。
暗闇になった部屋を見渡し、ハグムが書斎に入っていった扉の音を聞いてしばらくすると、ハクタカは起き上がった。
(昼過ぎまでは、普通だったんだけどな)
夕方から急に身体がだるくなり、頭がぼうっとしていた。
どうせ、いつもの風邪だ。
明日先生が仕事でいない日中、少し休めばまた治る。
そう思って、ハクタカは、静かに廊下に出た。
夜が更け、ハグムが書斎から出て水を飲もうと調理場に向かい、明かりをつけると、食器がすべて片付けられていた。
(…え)
ハグムは踵を返し、音のする方へ向かうと、ハクタカが風呂場で屈んで湯を沸かしていた。
「あ。先生、お疲れ様です、ちょうどお湯が沸いたので、どうぞ」
ハクタカは湯船を指差した。
「ハクタカ。何をやっている」
ハグムはハクタカに詰め寄った。
「え?何って…」
「私は君に、寝ていろと言ったはずだが」
ハグムは怪訝そうに言った。
「大丈夫です、大袈裟ですよ、先生」
へらっと笑う顔のハクタカを見て、ハグムはため息をついた。
「君はなんでそう、頑固なんだ」
その言葉に、ハクタカは少し、むっとした。
「使用人として当たり前の仕事をしているだけです。いけませんか」
ふいっと顔を背け、ハクタカは風呂場から出ていった。
使用人。
その言葉に、ハグムはふと違和感を感じた。
いや、実際ハクタカはこの家の使用人である。
だがそれを、誰でもないハクタカの口からはっきり言われるのは、ひどく、癪に触った。
「待て」
ハグムはハクタカを追いかけ、手を掴んだ。
ハクタカは振り向き、黙ってハグムを見上げた。
眉根を寄せながら、しばらく経っても何も言わないハグムに、ついにハクタカは口を開いた。
「何ですか?」
丸い漆黒の目が、じっとハグムの方を見つめる。
ハクタカの熱が、ハグムの手から伝わってきた。
ハグムは目が泳いだ。
(……私はどうしたいのだ)
ハクタカが使用人というなら、私は雇用人だ。
そうだ、それは正しい。
私はなぜ、それらの言葉に嫌悪を感じる?
彼女が、自身を使用人、自分を雇用人として見るのを、なぜこうも耐えられない。
一体何だと思って欲しいのか。
自分は、掴んだこの手を、どうしたいのか。
ハクタカは、ハグムがなかなか手を離してくれないので、手を自分側に引いた。
はっとしたハグムは、答えを見出せない問いを考えるより先に、身体が動いていた。
ハクタカの膝裏に手を回し、ハクタカを抱き上げた。
「!!先生!?何を」
ハクタカが降りようとするのも無視して、そのままハグムはハクタカの部屋に向かった。
ハクタカを布団の上に横たえると、自身はハクタカに寄り添うように顔を手に預けて横になった。
「先生」
ハクタカが起きようとすると、ハグムの片手がそれを制した。
「君は私がみていないところで、あれやこれやと仕事をするだろう。だからこうやって見張っているのだ」
ハグムがハクタカを直視した。
「さあ、観念して寝なさい」
「い、いやです」
ハクタカは顔を赤くしながら、もがいた。
顔が熱いのは、恥ずかしさなのか、風邪のせいなのか、もはや分からなかった。
いや、やはり前者か。
ずっと見られている状態では、寝られるはずがない。
ハクタカはついに上半身を起こした。
「私はそんなに頼りないか」
ハグムはハクタカと同時に上体を起こした。
「え?」
「君が数日家事をしなくたって、私は生きていける。何をそんなに君が働く必要がある。それに、身体が辛い時は、辛いと言いなさい。もっと私を頼ってくれてもよかろう」
苛立たち気にハグムにそう言われ、ハクタカは俯いた。
「…先生に頼ったら、罰が当たります。ただでさえ、俺は、先生の何の役にも立てていないのですから」
呻くように囁かれたその言葉に、ハグムは目が点になった。
「何を言う。君は十分やってくれている」
「……足りないくらいです」
ハクタカは今にも泣きそうな声色で答えた。
「ハクタカ」
ハグムが呼びかけたが、返事はなかった。
「……」
ハクタカはどんどん首を下に下げた。
「君に、罰など、当たるわけがないだろう」
ハグムの言葉に、ハクタカは、ふるふる、と頭を振った。
ハクタカは、ハグムに対しての恩返しが、今まで家事くらいしかできておらず、はがゆく、やるせなく感じていた思いが、今になってどっと溢れてきていた。
身体がだるくて、心が弱っていたせいかもしれない。
こんな自分から家事をとったら、何が残ると言うのか。
風邪なんかで倒れていてどうする。
女だと嘘をついてまで、騙してまで、一緒にいるというのに、何もできない自分が腹立たしくてしようがない。
そして今、こうしているだけでも、困らせているだけだ。
そんな自分に、これ以上何も与えないで欲しい。
ハクタカの目から、涙が落ちた。
ハグムは目を見張った。
何をーー。
(君はそんなに…何を背負う)
目の前で、自らをがんじがらめにして、咎めるように泣くハクタカの姿に、ハグムは驚き戸惑った。
と同時に、ハグムははっとした。
さめざめと泣き、手を口に当てるハクタカの姿は、ただ一人の女の姿でしかなかった。
自分がこの六年間、何も気づかないでいたのが不思議でならないー。
(…そうか、君は)
ハグムは、静かに声をかけた。
「ハクタカ、顔をあげて」
「……」
ハクタカは手を口に押し当てたまま、動かない。
ハグムは、手を伸ばした。
ハクタカの頬に手をかけて、こちらを向かせた。
その目が、熱を孕んだ涙で潤んでいる。
(君は、そうやっていつも自らを責めていたのか?私に罪悪感を感じて。そう、なのか?)
それを、声には出せなかった。
ハグムはハクタカを抱きしめていた。
「私は、君に、感謝している」
ハグムがぽつりと呟いた。
ハグムの胸の中で、ハクタカはそれを聞いていた。
「私は、君がそばにいてくれるだけで、それだけでいい」
ぎゅっと、抱きしめる力が強くなった。
ハクタカはその言葉を聞いて、また泣いた。
慰めの言葉でも、沁みた。
ハクタカは、心の中で、何度も何度も叫んだ。
六年間、途絶えることなく、心の裡で唱え続けたハグムへの謝罪の言葉を。
ハグムは、ハクタカが泣き終わるまで、ずっとハクタカを抱きしめていた。
ハクタカはゆっくり口を開けた。
「すみません、先生。どうぞ、お風呂に入ってきてください」
ハクタカは俯きながら、ハグムから離れた。
「せっかく、沸かしたので」
そう言って、ハクタカはすん、と鼻をすすった。
「あ、ああ…」
ハグムの返事を聞くと、ハクタカは目を合わせずに小さく言った。
「先生の言うとおり、今日だけ、このまま寝かせてもらいますね」
「…そうしなさい。おやすみ」
ハグムは静かに立って、部屋から出ていった。
ハクタカは、ハグムの目を見ることができなかった。
自制だった。
これ以上、なにもできない自分を甘やかしてはいけない。
そして―。
(先生への気持ちを、自分の心から、消さないといけない)
ハグムは、ハクタカの熱の残った自身のてのひらを見た。
(…何か、余計なことを、してしまったかな)
ハクタカが自分を慕ってくれているということが俄には信じられなかったが、目を合わせないハクタカを見て、それを感じ取ってしまった。
慕ってくれる相手にすることではなかったかと、ハグムはなんとなく思い描き反省していたが、後悔はしていなかった。
ああせずには、ああ言わずには、いられない自分がいた。
ハグムは自らのハクタカへの想いが今までとは異なるものであることに、気づきつつあった。
だがこの右往左往する感情の正体を、ハグムはまだ知らないでいた。
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