二人の距離

その日の夕食時、ハクタカとハグムの二人は、しばらく黙って食事をとっていた。

ハクタカはハグムにたくさん食べさせられないよう、ハグムより速く食べ切って、すぐ自分の食器を片付けよう、と思っていた。

先ほど散歩の同行を断られたハグムは、ハクタカと何か楽しい会話を、と考えを巡らせていた。


「ご馳走様でした!」


ハクタカは、自身の食器を手早く重ねて、調理場に持っていくために一番下の皿を掴もうとした。


それを見たハグムは思わずハクタカの左手首をつかんだ。

ハグムがハクタカを見つめ、何か言葉をかけたいがかける言葉に迷い無言で座っていると、ハクタカは稽古でできた手のマメを気づかれないようにするため、咄嗟にぎゅっと拳を握り、思わずハグムの手を思い切り振り払ってしまった。


(あ…)


手を振り払った時、ハクタカはハグムの顔に驚きと、ほんの一瞬、悲しい笑みが宿ったのに気づいた。


「すまない」


そう言うと、ハグムはハクタカから手を離し、しばらく黙った。


「あ、あの先生」


ハクタカは手を激しく振り払ってしまったことを謝ろうとすると、ハグムは前を向いたまま、声を低くして言った。


「私は、君に対して何か不快なことをしてしまっただろうか」


「…え…?」


「私には、君が私を避けているように感じる。私は今まで、君にとって信頼のおける存在になりたいと思っていたが、…そう思っていたのは私だけか」


ハグムはすくっと立って、ハクタカの方を一切見ずに書斎に向かった。


「せ…」


ハクタカがハグムに声をかけようとしたが、


「すまない、少し、部屋で休む」


とハグムに遮られてしまった。





書斎の机の前に座り、ハグムはさっきハクタカを掴んだ左手の掌を眺めた。


たかが手を振り払われただけだ。

今まで、そんな些細なことで、こんなに他人のことを気にして、そして惨めになる自分を、知らない。


「まいったな」


ハグムは、自分が滑稽に思えてきて、思わず笑ってしまった。



ハクタカが雇い主を前にかしこまってしまうのはしようがない。

あれだけ身体を痛めつけられて幼少期を過ごしてきたのだ。

雇い主に対する態度と言動は刷り込まれてしまっている。

それがハクタカの生きてきた証なのだから、他人が直そうとしても無理な話だ。

シバの言うように、風呂の件はまさしくそうであろう。

ただ…、『避けられる』意味が分からない。

ハクタカに『避けられる』ようなことをした覚えは、いくら思い返してもみつからない。

ただ、現実に避けられている事実があるのだから、分からなければその理由は直接ハクタカに聞くしかない。

本当に悪いことをしてしまっていて、すぐ謝って和解できるものならいい。

しかし、その理由の中に、自分がハクタカにとって信用に足らぬ人間で、嫌いな人間だ、ということが含まれていて、実際そうだと言われてしまう場面を想像すると、何も聞けないでいる自分がいた。

ハグムは、机の上で両肘をつき、組んだ両手で口を覆いながら、目の前の本棚に並ぶ無数の本を恨めしそうに睨んだ。


「…どうしたらいいのか、教えてくれ」


ハグムはそう呻き、ため息をついた。






「先生、少し、いいですか」


しばらくして、閉まった扉の向こうで、ハクタカの声がした。


「!…あぁ」


ハグムは一瞬逡巡したが、扉の向こうのハクタカに、部屋に入るよう伝えた。

しかし、ハクタカが部屋に入ってくる様子は一向になかった。

変に思ったハグムは立ち上がって、扉を開けようとした。


「そのまま!!そのまま…あ、の、そこに、いてください」


扉の取手に手を置いたハグムに、ハクタカは急いで言った。


「ん?どうした」


ハグムは優しくハクタカに問いかけた。

ハクタカは、ためらいがちに話し始めた。


「先生」


「ん?」


「俺、先生に隠し事があります」


「…隠し事?」


「はい、一つはすごく大きな隠し事で、もう一つはその…、中ぐらいの隠し事です」


「えぇ?」


ハグムは、ハクタカが『隠し事』に、大きさの区別をつけることがおかしくてつい、笑いそうになった。

ハクタカの言う『中ぐらいの隠し事』は、シバとの特訓のことであった。


「その隠し事が、先生にばれて、怒られるのが怖くて、俺、知らないうちに先生に変な態度をとっていたかもしれません。本当に、申し訳ありません」


ハグムは、ハクタカが言い淀む様子があり、何かまだ、伝えたいことがあるのだろうと感じ、扉の取手に手を当てたまま、ハクタカの言葉を待った。



ハクタカは、迷っていた。

さっきのハグムの悲しい顔を思い出していた。

その顔を、今まで何回か見たことがある。

左腕に触れられた時もそうだが、風呂に一緒に入るのを自分が断った時。

ハグムを騙して、傷つけてまで隠し続けるものなら、ハグムから追い出される、…いや、治安警察部に突き出される覚悟で、もういっそのこと、全てを話してしまおうか。


この家に来たのは、チボのためだった。

はじめこそ自分が生きて世話をしなければと勇んだが、ここに来た当初は領主の家でのことを思い出すと、自分のことは結局、どうとでもなればいい、と思った。

チボがうまく雇い主に飼われるよう、可愛がられるようになったら自分は死んでもいいとさえ思った。

でも、ここに来て、ハグムと生活して、ひとの優しさに触れ、ひとの温かみに触れ、はじめて自分の居場所ができた気がした。

こんな自分でも、『ひと』として生きられるのだと、はじめて、思えた。


(この向こうにいるひとと、私は一緒に居たい。生きていきたいー)


目の前の木造の扉が、幾重にも重なった鉄の扉のように感じた。

涙が、床にこぼれた。


「ひ…っく、ぐぅっ…」


ハクタカは必死に声を殺した。





「ハクタカ?泣いているのか?」


ハグムはハクタカのかすかにすすり泣く声を聞いて、焦って扉を開けようとした。


ハクタカは、ぐっと、扉が開かないように、取手を左手で押さえ込んだ。


「…ハクタカ?」


ハグムが扉を開けようとしても、開かなかった。




ハクタカは目を腕の服に擦り付けた。

私の願望なんて、どうでもいいのだ。

今この家から放り出されれば、どうせいつ絶えるか分からない命。

いくらハグムが優しくとも、この『すごく大きな隠し事』に関しては、許してもらえるとも思っていない。


どうせ、じゃあ、それならばー。


人として生きられた瞬間を与えてくれた恩人に、この命果てるまで、尽くそう。


(それが唯一、私ができる精一杯の恩返しだ)


ハクタカは口を開いた。


「隠し事をすることは、とても悪いことです。それは十分、承知しています。罰を受ける覚悟も、あります。でも、これは、決して、私利私欲のための隠し事ではありません。その、まだ、隠し事の内容は言えませんが、俺と、チボを救ってくれた先生のご恩に報いるためのもので、今、自分がやるべきことを、しているつもり、です。変な誤解をさせてしまい、すみません。…上手に、説明できませんが、先生、俺のことをどうか、信じてくれませんか」


震える声で、しかし、確かな強い意思を持って放たれたハクタカの言葉は、ハグムの顔を穏やかにした。


「…手をどけて、ハクタカ」


ハクタカは不安を残しつつもゆっくり手を扉から離すと、すぐ扉が開き、ハグムはハクタカを思い切り、抱きしめた。


その衝動で、廊下の床にハクタカの背を下にして、思わず二人の身体が重なった。


「…ふっ、はははははははは」

(!?)


隣で肩を震わせていつになく高く笑うハグムが、何を考えているのか、ハクタカにはさっぱり分からなかった。


「はは、すまない」


一通り笑ったハグムは床に両手をつき、上からハクタカを見つめた。

横髪の何本かが、ハクタカの頬にかかった。


「杞憂だったようだ」


「え?」


「君の言うことを、信じるよ」


ハグムはにっこり笑った。


あの笑顔だった。

その笑顔を見た瞬間、ありえない体勢に気づき、ハクタカは顔を真っ赤にした。


「おや、ハクタカ、顔が赤いが」


ハグムがいつものように顔を近づけてまじまじとこちらを見るのに耐え切れなくなったハクタカは、


「チャトランガ!!」


と叫んでいた。


「え?」


ハグムはきょとん、とした。


「お、教えてください、先生」


つい口走ったことはあまりにも突発的なものだったが、ハグムに以前チャトランガを教えてもらうのを乞うた覚えがあり、ハクタカは必死に言葉をつないだ。


「?…ああ、そういう約束だったね」


ハグムは立ち上がって手を差し出し、その手を掴んでハクタカも立ち上がった。

ハクタカがふう、と胸を撫で下ろしている間に、ハグムは書斎から、古い盤を引っ張り出してきた。

ハクタカは、チャトランガの盤が家にあることを知らず、驚いた。

チャトランガの基本的な進め方を教えてもらった。


面白く、奥が深い。

ハクタカはチャトランガという遊戯に魅了された。




その日、二人は、夜遅くまでチャトランガに興じた。

試しにやってみた一戦に、惨敗したハクタカはしかし自分を信頼してくれたハグムを想い、心は満たされていた。

いつもより遅めの湯船に入ったのちに、庭にいるチボの頭を廊下に座って撫でていると、綿毛のような雪が宙を舞って庭の地面に落ちるのをみた。


(あ、雪だ…)


ハクタカにとって雪は辛い思い出しかなかった。


一人で広い領主の家の庭の雪かきを任されることもあったし、井戸が凍ると水を汲みに何度も凍っていない川を探しては往来することもあった。

領主の家で食べ物にありつけず、村で盗みをし、無様に家に連れ戻されると、たとえ雪の降る日でも一日中庭に立たされたこともあった。

ハクタカはふとそれらを思い出し、おもわず俯いた。

ぶる、と背筋が震えた。


すると、背中がふと温かい何かに触れた。


ハグムがハクタカをすっぽり囲むように廊下に座ったのだった。


ハグム自身も湯上りでまだ熱を持った胸が、ハクタカの背にぴたりと寄り添っていた。

ハクタカは驚いて、自身の頭上を見上げた。

優しい顔が、ハクタカを見下ろしていた。


「湯上がりに外に出ると体を冷やしてしまうよ」


「す、すみません!」


ハクタカは慌ててその場で立とうとしたが、ハグムの腕の中に閉じ込められてしまった。


(!??)


ハグムが何も言わなかったのでハクタカはその場に身を固くして座っていたが、いつのまにか背に感じる温かみを心地よく感じていた。

ハグムもまた、触れるひとの温かみに懐かしさを感じていた。

ハクタカを引き止めるつもりはなかったが、勝手にふと身体が動いてしまっていた。

外の冷気が肌に染みたが、身体の芯は温かい。

動かないまましばらくそうしていると、胸にどんどん重みが増してきて、ついに腕の中からは静かな寝息が聞こえてきた。

ハグムは思わずくすりと笑った。


「…恩など、感じなくてもよいのに。一緒にいてくれるだけで…私がどんなに救われているか」


真っ暗で静まり返った家はもうここにはなかった。

以前の家に、帰りたいと、思えない。


チボがハクタカの膝に前足をかけた。

白色の毛に雪が溶け、透明な水滴と化す。

ハグムは腕を解き、チボの頭を撫でた。


「チボ、君も早く小屋に帰りなさい」


ハグムが小さくそう言うと、チボは大人しく小屋の中に入って行った。


空を見上げた。

雪が次々と舞ってくる。

昔、同じように自分を囲んでくれたひとを想いながら、ハグムは目の前の小さな頭に顔を預けた。


(この子を守る。…もう決して…失わないように)


庭の地面が茶色からうっすら白く染まり始めていくのを、ハグムはしばらく眺めていた。

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