名前
「おーい、ハグム。行こうぜー」
早朝、いつもこの時間に隣家のシバが玄関までやってきて、ハグムと役所に出勤するのが二人の日課だ。
「あぁ!今いく!」
書斎から顔を出しシバにそう答えたハグムは、急いで役所に持っていく書類を集めた。
石造りの玄関の一段上の床に座り靴をはきかえ立ち上がると、ハクタカに言った。
「じゃあ、行ってきます」
「あ、はい、いってらっしゃい」
ハクタカはハグムの外套を渡した。
「…にしてもおまえの家、やけに綺麗になったな」
シバは玄関から奥の部屋をまじまじと覗いていた。
「ハクタカが全部掃除してくれているからね、助かっているよ」
ハグムの家に来てから三週間経ち、体力も全快したハクタカは今までのように動けるようになり、家事全般を任されるようになった。
「ふーん…おぃ、ハクタカ!今度俺の家も掃除してくれよ!」
「シバ、ハクタカは君の使用人じゃない」
「いーじゃねぇか!別に!」
「…いいから、ほら、行くぞ。行ってきます。戸締まりはしっかりと、ね」
ハグムがシバの腕を引っ掴み、二人がやいやい言いながら、並んで歩いていく姿を見て、ハクタカは少し羨ましく思った。
基本、ハグムは早朝から夜遅くまで役所で働いており、帰って来ない日もあった。
帰ってきたとしても、日をまたぐ頃が多く、ハクタカが作り置きしていた夕飯も食べないまま、座敷で横になり眠っていることもあった。
隣に住む一人暮らしのシバは見かけによらず世話好きなのか、なぜかご飯を名目にハグムのいない日は毎日、ハクタカの顔を見にくるのであった。
「…どうしたらいいのかな」
体力が回復した今、四六時中寝る間も惜しんで働くハグムの仕事の手伝いを何かできないかと、ハクタカは思い始めていた。
「おーう、飯食いにきてやったぞー」
日が暮れてしばらく経った頃、シバはいつものように玄関の扉を開けて、座敷にズカズカ入ってきた。
「腹減った!おい、飯にしようぜ」
「あ、はい…。お疲れ様です」
ハクタカは机に夕飯を並べ、シバにふるまった。
「おまえもまだ食ってねえんだろ?一緒に食おうや」
「は、はい。いただきます」
シバは豪快にコメを口にかきこんでいた。
「あ、あの…」
「ん?なんだ!」
シバの大きな声と、横柄な態度に、ハクタカはまだ慣れないでいた。
「あの、その、いつも、夜遅く、お忙しそうですが、何か俺にできることはない、でしょうか」
「あぁ?ハグムのことか?別におまえが気にしなくていいんじゃねぇの」
「え、と。少しでもお役に立てれば、と思って…俺…」
カン!と甲高い音でシバは箸を茶碗においた。
その衝撃音に、ハクタカは思わずビクっと身体を震わせた。
「おまえ、ハグムの仕事、何か知っているか?」
「えぇ、役所の内政部にいらっしゃると伺ったので、国の政を任されている方だと…」
「そうだ!だからおまえみたいなチビがどうこうできる仕事じゃねぇのさ。あいつが何考えているか、俺にはさっぱりわからねぇが、がりがりで片腕のねぇおまえのことがよっぽど不憫だったんだろう、ここにいること自体、感謝しやがれってんだ!」
しん、と部屋が静まり返った。
シバが箸を持ち、ハクタカをみやると、ハクタカはうつむいて唇を震わせていた。
シバはしまった、と思った。
正直、ありのままを言ったつもりだったが、いくらなんでも、病み上がりで訳ありの子供にかける言葉ではなかったと、言ったそばからシバは反省した。
「あ、いや。ほら。まだ手伝うには早ぇって話だよ。ハグムだって、あー。この家、すげぇいっぱい本があるだろう?それだけあいつも苦労して勉強したってことだ。おまえだって、ここにある本読んで勉強すればハグムの仕事の事務作業くらいは手伝えるようになれるさ」
「ほんと!?」
「あぁ、多分、な」
ハクタカの目に涙が出ていないことを確認し、シバはほっと胸をなでおろした。
「んなぁことよりよ、さっさとハグムのこと、ちゃんと呼んでやれよ」
「え?」
「今朝も嘆いてたぜ、あいつ。昨日もおまえに名前で呼ばれなかったって」
「あ…そう、でしたっけ」
ハクタカは唖然とした。
そういえば、今まで彼を名らしきもので呼んだことはなかったことに気づいた。
気にしていたなんて、全然知らなかった。
「…旦那さま、…とか?」
ハクタカはつぶやいた。
領主のことをそう呼んでいたので、思い浮かんだのがそれだった。
それを聞いたシバはぶはっ、とコメを一部吐き出した。
「まだあいつぁ独り身だ、おかしいだろ、そりゃ。ハグム、でいいだろうが」
「いや、それはあまりにも恐れ多いというか」
「そうかぁ?子供が遠慮してんじゃねぇよ!まあ、あいつの使用人としてそれはそうか、どうでもいいけどよ。…あぁ、ついでに言うと、俺にもその気持ち悪い敬語はいらねえ。まあ、愛称だけなら、シバ様と呼んでくれていい」
「じゃあ、シバ」
「ちっ、あの噛み犬といい、しつけのなってねえガキだぜ」
シバがにやっと笑ったのを見て、へへ、とハクタカは笑ってみせた。
ハクタカは少し怖かったが、一度、ハグムのようにこの大男を軽くあしらう言葉をかけてみたくなったのだった。
この人は、怖くない人間だ、とハクタカは確信した。
夕食を食べ終えたシバは爪楊枝で歯間をぬぐいながら、調理場で洗い物をしているハクタカの背中に向かって言った。
「今日よ、役所から帰る時、俺んとこにハグムが来たんだ。仕事で遅くなりそうだから、いつものようにおまえと一緒に飯を食ってやってくれってさ」
「え、…いつも?」
「よっぽど気になるんだろうよ、おまえのことが。前の事件のこともあるから余計だろうが。訳ありのおまえと、あの犬を拾ってくれた恩人だろ?あいつの名くらい呼んでやれよ。…っとご馳走さん。おまえもさっさと糞して寝ろよ」
シバは早々に去っていった。
シバが出て行った戸口を、ハクタカはずっとみつめていた。
「ハグム…いやいや!これは失礼すぎる!!」
「ハグムさん?」
「ハグム様」
シバが去った後、ハクタカは、ハグムの呼び名をどうするか、手当たり次第色々な名称を一人で唱えながら座敷の上を行ったり来たりしていた。
「うーん」
何か、どれもしっくりこない。
「ただいま」
座敷の入り口に突然現れたハグムの姿にびっくりして、ハクタカは座敷の隅に飛び退いた。
「おかえりなさい!は、はぐ、」
「ん?」
「あ、いえ!机の上に夕飯が置いてありますので!俺、寝ます、おやすみなさい!」
「…?ああ、ありがとう」
ハクタカは、机に足の子指をひっかけたのを、痛そうに押さえながら、慌ただしく自身の部屋へ去っていった。
ハグムはなんだ?と疑問に思いつつも、机の上の美味しい夕食に箸をつけるのであった。
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