泥棒

夜が更けた。

ハクタカは軽く自身の夕食を済ませ、座敷の机の上にあかりを灯しながらハグムの帰りを待っていたが、一向に帰って来なかった。

シバのことだ、きっと強引にハグムを何件もの呑み屋に連れ回しているのだろう、とハクタカは恨めしく思った。

そんなことを考えながらいつの間にかまぶたが重くなってきたハクタカは、あかりを消した。

しばらく机の上に顔を伏せていたが、いよいよ眠くなってきたので、自分の部屋の布団に入ろうと立ち上がった時、ギ、ギギィと扉が開く音を聞いた。


(あ、戻ってきた!)


ハクタカはすぐ廊下に出たが、おかしい、と察知した。

音が、勝手口の方から聞こえたからだ。

ハグムもシバも、普段玄関か庭の廊下から入ってくる。

裏の勝手口から入ることはなかった。


(こんな時間に、誰が…)


すると誰かが勝手口の廊下を歩く音がして、ハクタカは座敷にすばやく隠れた。

黒い影はすでにハグムの書斎の中に入り、机や箪笥の中を探っている音がした。


「ち、本しかねぇ」


と暗闇の中で男が呟いたのを聞いた。


(…!この人、泥棒だ!)


ハクタカは廊下の脇に置いてあった箒をさっと手に持ち、そぅっと廊下から書斎の扉の裏に姿を潜めた。

男が書斎から出ようとしたところを、ハクタカは思いっきり、箒を叩きつけようとした。

驚いた男は、間一髪のところで箒を避け、ハクタカに向き直った。


「びっ…くりした、なんだ、無人と思いきやガキがいたのかよ」


「あ…」


ハクタカはすぐ箒の柄を持ち直したが、暗闇の中で笑みを含んだ声色の男が恐ろしく、声が出なかった。

瞬く間に箒を取り上げられたハクタカは、男に首を掴まれ、廊下の壁に背中を押し当てられた。


「いい子はこんな時間に起きてちゃいけないよ、なぁ?」


「ぐ…」


首がしまって、苦しくて、身動きがとれなかった。

首の血管が思い切り締まり、耳が詰まった感じがする。

男の右手の刃物の刃の部分が、闇の中で鈍く光った気がした。

その時―

ワンワンワン!

チボの吠える声がした。


「うわ、こいつまた吠えやがる!俺様がちゃあんと、しつけをせんとなぁ!」」


シバの声だ。


「シバ、飲み過ぎだ。おい、こっちは私の家で、君の家はそっちだ」


ハグムの声もした。


「ちっ」


男は乱暴にハクタカから手を離し、勝手口の方からそそくさと出ていった。

がはっと咳をして、床に膝をついたが、ハクタカはすぐ勝手口へ向い、男の背中を見ながら息を最大限に吸った。


「どろぼうだぁぁ!」


それは、二人に届くように必死に絞り出した声だった。


「泥棒?!」


家の裏の方から聞こえてきた声に反応したハグムはシバの顔を引っ叩いた。


「シバ!ほら、仕事だ!ど・ろ・ぼ・う!!」


「あ“!?誰だ!?俺様の気持ちいーい気分を妨げる奴ぁ」


真っ赤な顔をしたシバが声がしたハグムの家裏に向かって走ると、垣根を越えようとしていた男を見つけた。


「おまえかぁぁぁあぁ!」


シバは、叫びながら突進していった。


少し離れたところで、男の悲鳴が聞こえたので、シバが捕まえてくれたと確信し、安堵したハクタカは、その場にへたり込んでしまった。

まだ酸欠の状態で、すぐに、立てない。


「ハクタカ?」


家の壁づたいにシバの後を追ってきたハグムが、明かりを手にしてハクタカを見下ろしていた。


「こんなところで何をしているんだ」

「あ、あの、ど、泥棒が、いたので、捕まえようと、したん、ですけど、すみません、俺、できなくて」


ハクタカは、息を切らせ、声も絶え絶えになっていた。


「は!?」


ハグムはすぐ屈んで明かりをハクタカの方に向けた。

ハグムは自身の顔をめいいっぱいハクタカの身体に近づけて、食い入るように見入った。

それに慣れないハクタカは、頬を染めて顔を上にそらした。

その時、ハグムはハクタカの首に、手で締められたような赤い痕があるのに気づいた。


「…君って子は…」


「あ、でも今、ほら、捕まえて、くださったようです。良かったです」


目を瞬かせながら、ハクタカはシバが走り去っていった方向を指差して言った。


「良く、ないだろう!」


暗闇から聞こえるハグムの焦りと怒りが入り混じったような声に、ハクタカは違和感を覚えた。


「え?あ…、すみません、俺…」


ハクタカは、泥棒を取り逃してしまったことを、再度ハグムに謝ろうとした。





「ういーーーっ、こいつ、捕まえてやったぜぇ」


シバが酒臭い息で声を張り上げながら意識を失っている泥棒の男を肩に担いで戻ってきた。

ハグムはその場で立ち、シバに向かって言った。


「…すぐ治安警察部に引き渡そう」


そしてハクタカの方を向いた。


「ハクタカ、立てるか?」


ハグムはハクタカを支えてゆっくり立たせた。


「俺は、大丈夫です」


ハクタカは、声はかすれていたが、しっかり自力で立ち上がった。

それを確認したハグムは、短く言った。


「家の中で待っててくれ。すぐ戻る」




ハグムはシバと一緒に家を出て行ったが、しばらくして帰ってきた。


「あ、おかえりなさ…」


座敷で待っていたハクタカはハグムを出迎えようと立ち上ろうとした。


「良い、そこに座りなさい」


ハグムはいつもの冷静な声で、そうハクタカに呟いた。


「今回の件は九割九分、私の落ち度だ。謝ろう」


ハグムはハクタカに一礼するも、座敷にどかっとあぐらをかいたままで、どこか苛立ちげであった。


「しかし、君も君だ。どうしてこのような危ない真似をした。子供が大の大人に生身で立ち向かうとは、あきれるぞ、全く!」


ハグムはハクタカの首元をちらりと見て、強く怒鳴った。

泥棒を取り逃してしまったことを怒られるのは、分かる。

しかし、何か腑に落ちない。

ハクタカはついむっとなってハグムに言った。



「留守を預かった使用人として、当然のことをしただけです。泥棒は、逃がしてしまいましたが。俺にはそのように責められる理由が分かりません!」


ハクタカは正座をしながらハグムの方に前のめりになって言い放った。

ハグムは一瞬逡巡したが、はぁ、と深くため息をして、自身の姿勢を正した。


「使用人として、ね。使用人として君はこの家を守ろうとした。ああ、そうか。では、私にも言い分がある。君の理論に基づいて言わせてもらえば、雇用人として、私は君を守る義務がある」


「…まも、る?」


ハクタカは訳が分からなかった。

使用人の仕事には家の雑務以外にも、雇い主の身の安全を確保する役目も含まれる。

使用人というのは、こう言う危機的状況の時、己が命を差し出してでも雇い主の盾になって彼らを守る人間のことを指すのではなかったか。

それは、ハクタカが領主の家で培われた知識だった。

しかし、ハグムはまったく逆のことを言っている。


「私達が家に着くのがもう少し遅かったらどうなっていたか!先程シバに聞いたが、あやつは、凶器を持っていたそうじゃないか!君は、死ぬかもしれないところだったんだぞ!」


「そ、うですが」


ハグムの見たことがない形相に、ハクタカはたじろいだ。

しかし、ここまで責められるとは思っていなかった。

左拳を握りながら、ハクタカはハグムに言い返した。


「で、でも、もしまた同じようなことがあれば、どうすれば良いのですか!俺は、どうしたら…」


「まずは自分の身の安全の確保が先決だ、隠れろ。そして頼れ。私に。シバに。我々がいなければ、近くの大人に。決して一人で戦おうとするな、危険を犯すな、絶対に、だ!」


「でも、それでは、俺の立場が…」


ハクタカがハグムに再度物申そうとした瞬間だった。

ハグムは、ハクタカの頭を片手で覆い、自身の胸元に引き寄せた。

ハクタカは一瞬身が縮んだが、温かい胸の中で、ハグムの鼓動が自分のものよりも速くなっていることに気づいた。


「…お願いだから、もう、今回みたいな危ないことはしないでくれ」


ハクタカは、ハグムの手が震えていることが分かったが、その震えの意味はハクタカには分からなかった。

その場には、これ以上ハグムに何も言えない雰囲気があった。


「わ…、分かりました、すみません。以後、気をつけます」




ハクタカはしかし一人になり冷静になると、ハグムが自分を心底心配して怒ってくれたことを理解した。

守る、と言われた。

頼れ、と言われた。

こんなに優しい言葉を今までに聞いたことがなかった。

胸の中に温かいものを感じながらハクタカは深い眠りについた。




ハクタカが寝床で眠りについた頃、ハグムは静かにハクタカの部屋に入ってきた。

布団からはみ出ているハクタカの左手を布団の中に入れ、月明かりに照らされ寝息をたてるハクタカの寝顔を見つめた。


「困ったな、君はどうも、私が思う以上に強情で、怖いもの知らずらしい」


庭で遠吠えをするチボの声を聞きながら、ハグムはハクタカの頬を上から下に撫で、そのままハクタカの首に手を添えた。

月明かりに見る首の痕はほとんど消えていたが、それでもうっすらと残っていた。

ハグムは消え入るような声で呟いた。


「私は…怖いよ。もう、たくさんだ。人が死ぬのは…」

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