ハクタカ

少女は瞼に日の光を感じ、目を開けた。

時刻は早朝で、どうやらぐっすり寝ていたようだ。

はっと服を見たが、昨日のままの姿であったため、安堵した。

少女は周りを見渡した。

六畳ほどの部屋だった。

鶯色の壁紙の部屋の真ん中の布団の中に、自分がいた。

周囲の床には本がひしめくように積み重なっている。

今にも崩れ落ちそうな本もあった。

お世辞にも、綺麗とは言えない部屋であった。

部屋の扉が開いた音がして振り向くと、青年が入ってきていて、積み重なった本に少々つまずきながら、顔を近づけてきた。


「あ、目が覚めたかな」


ハグムと呼ばれていた青年が、昨日とは違って髪を下ろしていたので、一瞬誰か分からず、少女は布団を剥いだ。


「あ、あの、わ、…お、俺…」


「あぁ、起きなくていい。お腹が空いているだろう。今、粥でも作るから、ゆっくり寝ていたらいい。私も仕事が休みでね、しばらくは家にいるから、何かあったら呼びなさい」


ハグムはまた本につまずきながら、戻っていった。

どうやらここは、彼の自宅のようだ。


「ええと。鍋はどこに閉まったかな…と」


がこん、かん、きん、と金属音が鳴り響く音が止まないため、少女は気になって音が聞こえる調理場を覗きこんだ。

上の棚にある調理器具をとりあえず全て引っ張り出しているハグムがいた。

調理道具は床に散在し、足の踏み場も無い悲惨な状態になっている。

調理場には石造りの大きな釜戸と調理台と洗い場、端には鉄製の鈎がぶら下げられている小さな食糧貯蔵庫があった。


「あぁ、これだ」


ハグムは鍋を今度は下の棚から引っ張り出し、脇に散らばっていた薪の上に置いた。


「えぇと、コメは…あぁ、これだな」


ハグムが食糧貯蔵庫からつかんだものは、とうもろこしの粒を乾燥させたものであった。

少女は思わずハグムに声をかけた。


「あ、あの!」


「ん?あれ、どうした」


ハグムが振り返ると、少女が立ちつくしていた。


「あ、あの、えっと…俺作ります」


目線をとっさにハグムからはずしながらうつむき、少女は言った。


「いいよ、私がやるから。身体が完全に治っていないだろう?君は寝て…」


「もうほとんど大丈夫です、どうか俺にやらせてください」


少女はハグムからとうもろこしの粒の入った袋を受け取った後、調理台に置き、ある程度食料の位置を確認したのち、左手をてきぱきと動かし、ご飯の支度を始めた。


「あー…、君の方に任せたほうが良さようだ。じゃあ、頼もう」


ハグムは苦笑し、寝起きで一部跳ねている後ろ髪をぽりぽりと掻きながら、書斎に戻っていった。




しばらくして、少女はハグムが向かった書斎の扉を少し開け、遠慮がちに言った。


「あの、お食事の支度ができました」


返事がない。


少女はおそるおそる木造りの扉をあけて、部屋をのぞいた。

そこには、今までみたことがない光景があった。

本棚がたくさんあるのに、それに入り切らない大量の本と紙と巻物が大量に積み上げられ散在しており、足の踏み場がないのはもちろん、ハグム本人の姿が見えない。

少女は声を張り上げて言った。


「お食事できました!」


またもや返事がない。

ハグムがこの部屋にいるのかどうかさえ疑問に思った少女は、一歩、また一歩と本を崩さないよう、また、紙を足の指で避けながら、そぅっと部屋の中に踏み入っていくと、低い木の机を前に正座し、机に顔を寄せながら俊敏に筆を動かすハグムを見つけた。

横髪が紙にかかって書きにくそうであったが、当の本人は全く気にしていない様子だ。

どうやら書き物に集中していて、少女の声が聞こえないらしい。

仕事は休みとは言っていたが、忙しそうな様子であった。

少女は迷ったが、ハグムの肩をとんとん、と指で突いた。


「あれ、どうした」


ハグムは頭をあげて少女の方を見た。

慌てて彼女は一歩下がり、下を向いた。


「あ、すみません。食事、できたのですが…」


「あぁ、わざわざありがとう。呼んでくれればよかったのに」


少女は呼んだのだけど、と心の中で思った。





二人は調理場の隣の座敷に座った。


「すごいね、これ全部君が作ったの?」


座敷は石畳の調理場の一段高いところにあり、座敷には簡素な木造の机が一つ置いてあり、その机の上にはハグムが自宅にこれほどの材料があったのかと疑問に思ったほど多くの料理が並んでいた。


「領主様達に毎日作っていましたから。お口に合うかわかりませんが」


「ありがとう、いただくよ。いただきます」


ハグムは料理の前で一礼し、箸で食事を口に運んだ。

箸を使う所作が今まで見てきた誰よりも綺麗だ、と少女は緊張しながらも思った。


「ん!美味だ、すごいね、君は。これほどの料理を作るとは、驚きだ」


「あ、よ、よかったです」


少女はハグムと距離を置いて正座をしながら、うつむいていた。

ハグムは机の上の別の箸を持って、それを少女に向けた。


「ん?君もはやくこっちに来て食べなさい」


「あ…領主様の時は、皆が食べ終わるまで座して待っていなさいと、かたく言われていたものですから」


「ああ、そんなことを気にしていたのか。ここは領主の家じゃないのだから。ほら」


ハグムは少女に箸を持たせ、机の前に来るよう手招きした。

しかししばらく経っても来ない少女を不思議に思い、少女をみつめ、ハグムは箸を置いた。


「どうした?具合でも悪いのか?」


「あ、いえ…よ、良ろしいのでしょうか。その、俺、なんかが同じ机で一緒に座ったりして」


「良いに決まっているだろう?一人より大勢の方が飯はうまいと言うし。君が一緒に食べてくれたら、この料理の美味も倍増だ」


ハグムはにっこりと笑って見せた。

ハグムの顔は笑うと、キリッとした眉が緩く垂れ下がり、目の横に細く皺が寄った。


少女は、普段涼しげな顔が今まで見せたことがない笑顔になったのを見て、一瞬見惚れながらもすぐ目線をはずした。


「で、では…いただきます」


少女はいそいそと食事を食べ始めた。





「いやぁ、自宅で食べたのは二年半ぶりだ。美味しかったよ。ご馳走様」


ハグムはゆっくり箸を置いた。


「い、二年半ぶりですか。今まではどこで?」


領主の前で喋る時と同様、なるべく目を合わさずに少女はハグムに問いかけた。


「役所で出る握り飯と、あとは、シバに付き合わされて行く呑み屋とか…」


「は、はぁ…」


少女は、自分で思うのはなんだが、ずっとその食生活だと栄養失調になりそうだと思ってしまった。

ハグムは偉いお役人さんだと知ったが、荒れた部屋を気にしない様子といい、調理場での様子といい、食事が出来たと呼びにいった時といい、目の前にいる青年は、むしろ世話がかかる子供のようで、領主様とは全く違う種類の人間だ、と少女は思った。


「あ、片付けますね」


少女は空になった皿を左手で一つ一つ積み重ね、流し場へ持っていこうとした時、がしゃん、と音が鳴った。

少女は調理場の石畳につまずいてしまい、持っていた一枚の皿が床に落ち、一部欠けてしまったのであった。


「あ…」


少女は青ざめた。


「大丈夫か?」


ハグムはすぐ少女へ駆け寄った。


「も、申し訳ありません!」


少女は食い入るように額を調理場の床にこすりつけ、土下座をした。

それがあまりにも仰々しい様子であったため、ハグムはとまどった。


「え…、いいんだ。わざとではないだろう?それより君に怪我はないか?」


ハグムは土下座をする少女の目の前で屈み、背中にそっと触れた。


「ほら、もうそんなことはしなくていいから、顔をあげなさい」


少女は顔を半分上げ、下を向いたまま目を瞑り、無言で自身の左腕を、ハグムの方に思いっきりまっすぐ差し出した。

顔をあげろと言ったのに全く違う所作をする少女と、少女の所作の意味が全くわからず、ハグムは少女の左手に近づきしばらく凝視すると、左手の甲と衣服の間に垣間見えた大きな瘡蓋に気づいた。


「まさか」


ハグムは急いで少女の左腕の服をめくり、愕然とした。

夥しい数の火傷と刀傷の古傷だ。


「……領主の、仕業か」


ハグムがやるせない思いでぎゅっと少女の手首をつかむと、少女はさらに目を強く瞑り、眉間に皺を寄せた。

ハグムはめくり上げた少女の服の袖を、ゆっくり元に戻した。


「やめなさい、腕をしまって。顔をあげて」


ハグムの命令に少女は一瞬たじろいだが、そのまま動かなかった。


「やめろ、と言っているであろう!!」


ハグムは怒鳴った。

それは少女に向けてではなく、ハグムの、領主への怒りだった。

今まで耳にしていた冷静な言葉遣いとは真逆の、荒々しい言葉に、少女は驚き、恐る恐る目を開けた。


その瞬間、少女は目を見張った。

ハグムが、調理場の石畳の上で、少女に向かって土下座をしている。


「…え……?」


少女は混乱し、逡巡した。


「…君をこのようなひどい目に遭わせてしまった大人達が、君に謝る機会はおそらくないであろうから、代わり私が非礼を詫びよう。痛かったであろう。辛かったであろう。すまなかった…!」


少女の目の前で、大の大人が、深々と頭を下げていた。

今まで自分に頭を下げた大人を、見たことがない。

少女は頭の中に、これまで自分の身に起きた出来事が走馬灯のように駆け巡った。

すると、今までずっと緊張で張り詰めていたものが、言葉にできないなにかが、一気に胸にこみあげてきた。


沈黙の中、ハグムは顔を上げると、少女をまっすぐ見据え、少女の頭にぽん、と手を置いた。


「もう、いいんだ」


少女の瞳にハグムの顔が映っていたが、その輪郭はゆがんでいた。


「何も我慢しなくていい。笑いたい時に笑い、泣きたい時に泣き、お腹が空いたならお腹が空いたと言えばいい。嫌なことは嫌だと態度で示せ。君の心のままに。ここにはもう、君を縛るものは、何もない」


少女の目から一筋の涙がぽろり、と床に落ちた。


「領主の家で、君は大変な時を過ごしたかもしれないけれど、ここは自分の家だと思って過ごしてもらえばいい。自由に。変なしきたりなんて忘れて。へりくだって私から目線をはずしてうつむかなくてもいい。恭しい敬語もいらない。…あぁ、涙で顔がぐしゃぐしゃだ」


いつの間にか、少女の服が涙でぐっしょり濡れていた。

ハグムは、親指の腹で優しく少女の涙を拭った。


「はは、せっかく綺麗な顔をしているのに、勿体無い」


はじめてのことだらけで、少女は思考が追いつかなかった。

綺麗、という言葉も、今、初めて人から言われた。

しかも、何の躊躇いもなく、片腕のない醜い自分に。

少女は自身の顔の火照りに気づき、急に恥ずかしくなって、つい下を向いてしまった。


「ほら、うつむかない、と言ったであろう」


顎をくいっと上にあげられ、少女の前にはハグムの顔がすぐそこにあった。

少女は息が詰まった。

ハグムの瞳に、口をきゅ、と結んだ自分の顔が映っている。


「あ、わ、かりました…ので、あの…、あまり…顔を近づけないでいただいてもいい、ですか…」


なんとか平静を取り戻そうと、少女は言葉を発した。


「あぁ、ごめん。癖だ。気にしないで」


ぱっとハグムの手は少女から離れた。

少女の胸の動悸はまだおさまらなかった。

自分自身の目まぐるしい感情の変化に、心が、追いつかなかった。



「しかし、まぁ」


ハグムは続けた。


「恥ずかしながら見ての通り私は、飯ひとつまともに作れない若輩者だ。偉そうに君のことを引き取ったけれど、これから君に色々迷惑をかけることも多々あるかもしれない。雇い主という立場だが、同居人として、今後もよろしく頼む」


ハグムは少女に手を差し出した。

ハグムがまっすぐ自分に向かって左手を差し出してくれたことが、少女は嬉しかった。

はじめて、自分と正面から向かい合ってくれた大人のひと。

少女は左手を差し出した。

二人は互いにぎゅ、と手を握った。


「改めて、挨拶をしよう。私はハグム・イ・ウィルだ。君の名前を聞いてなかったね」


「あ、……」


「医院でも言わなかったから、もしかしてと思ったが、領主のところではなんと呼ばれていたのだ?」


「おい、とか…、おまえ、とか…」


「やはりそうか。名が、ないのか?」


「…はい」


「…そうか、私でよければ名付けよう。少し時間をくれるか?」


「は、はい、もちろんです」


少女が頷いた時、ワンワン!と知った声が聞こえた。

外をみやると、チボが快晴の中、元気に庭を駆け回っていた。


「チボ!」


少女が呼ぶと、チボは尻尾を振って、嬉しそうにこちらに走ってきた。


「狭い庭だけどね。犬が走り回るくらいの広さはあるかな。チボの小屋も、今度作ろう」


「あ、ありがとうございます」


「ん。では私は書斎に戻る。気楽に過ごして」


ハグムは踵を返して書斎に帰っていった。

一瞬、少女は一縷の寂しさを感じたが、お仕事だ、と直感し、ハグムに向かい黙って一礼した。




静かだった。

ハグムの家は座敷と調理場はつながっていて解放感があり、座敷は廊下を挟んで庭につながっている。廊下の先には少女が寝ていた部屋がハグムの書斎部屋と寝室に向き合うような形で端に位置し、勝手口につながる廊下には風呂場と便所があった。

この家は見た目より広く感じられ、何不自由ない家だが、こじんまりとしていて、少女にとって自然と落ち着く空間だった。

が、問題はこの山積みにされた本たちだ。

また、調理場は長年使っていなかったせいか蜘蛛の巣がかかっていて貯蔵庫も作物が散乱していた。

まずは掃除が必要そうだ、と少女は思い立ったが、身体はまだふらついていた。

少女は調理場で食器の洗い物をしたあと、すぐ眠りについた。




空が一部明るみ始めた。

領主の家にいた頃は、朝食の支度をはじめる時間だ。

いつもの体内時計が少女を起こし、少女はゆっくり庭の外に出た。

どうやら自分は一日中寝てしまっていたようだった。

チボはまだ寝ているようだった。

近所の家も静まり返っている。

医院にいた時から昨日のことまでを思い出し、自分がここにいることに、不思議な感覚を覚えた。

改めてハグムの家を見渡してみた。

黒い茅葺き屋根は、白い壁によく映えている。

書斎に彼はいるのであろうか。それとも寝室であろうか。

雇い主の居場所を好き好んで探すなど、以前の自分では考えられなかった。

いや、以前の自分はもう、いない。

ここの使用人として、男児として、生きていかなければ。


「よし」


登り始めた太陽をみて、少女はパシっと左頬を叩き、調理場で見つけてきた小刀を自身の髪に押し当て、一気に刀を切り上げた。


その頃起きたハグムは、ゆっくり歩きながら廊下で考えていた。

仕事をしながらも考えていた、あの男児の名前。

昨日、自ら名前を決めると名乗り出たものの、候補さえ挙がらなかった。


「どうしたものか…」


ちょうど庭の廊下にさしかかったとき、朝日が、庭にたたずむ少女の短髪の黒髪を照らした。

逆光で目を細めたハグムは、思わず呟いた。


「ハクタカ<夜明け>…」


ハグムの声に気づいた少女は振り返った。


「あ、おはようございます」


少女は笑顔でハグムに挨拶し、ハグムに近寄った。


「おはよう。おや、髪を切ったのか?」


ハグムは優しく問いかけた。


「え!あ、はい!少し邪魔だったから」


暖かい風が、見つめ合う二人の間をやさしく吹き抜けた。

顔を地上に出そうとしている太陽が、明るく二人の横顔を照らし始めた。


「ハクタカ。そうだ、君の名前をハクタカにしよう」


「え?」


「私と君がはじめて出会ったのもこの時間だったし、君にぴったりと思うんだ。夜明けの太陽みたいに、強く輝く子になるよう、そう願いをこめて」


ハグムがまっすぐ少女をみつめると、少女は微笑んだ。


太陽が、地上に登った。

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