ノック

@yaminabe4

コンコン

 私は顔を上げて、長く続く廊下の方に目をやりました。気のせいでしょうか、確かにその時の私には、二回続けてノックの音が聞こえた気がしたのです。


「誰?」


 私はそう問いかけましたが、暗闇から帰ってくるのは沈黙だけでした。その日、父親は風邪をひいた妹をつれて病院に出掛けており、家には私一人でした。極度の寂しがり屋、怖がり屋であった私は、父親たちが帰ってきたのかと思い、長い廊下を通って玄関に向かいました。


 外では雨が降っているようでした。扉の前に立つ私に、ザーザーという外の音に混じって、今度ははっきりとノックの音が聞こえました。


 コンコン


「誰?」


 私は再び問いかけましたが、ドアの向こうにいる何者かが答えることはやはりありません。間を開けながら何度も、何度もノックを繰り返します。扉には、備え付けのインターホンだってあるはずなのに。

 当時ドアミラーを覗けるほど背が高くなかった私は、一向に質問に答えようとしない"誰か"に少し不気味さを感じつつ、お父さんと妹が面白がって、こちらを怖がらせようとしているのかな、とも思い、真相を確かめるべく、ドアノブに手を伸ばそうとしました。


 しかし、その時。


『…』


 伸ばしていた手を引っ込め、私は驚きで全身を硬直させました。

 声が、聞こえたのです。女の人のものです。やけに間伸びした声でした。雨の音に混じって、消え入りそうな声で、『開けて』と。囁くような声音でした。厚い扉です。大声でないとこちらが聞き取れるはずもないのに。なにかこの世のものではない存在が、この金属の板一枚を挟んだ、その向こう側にいる。私は直感しました。一方でそれを否定したい気持ちもあり、震える全身をなんとか奮い立たせ、わざと元気な声で、扉の向こうに声を投げかけました。


「お父さん?お父さんでしょ?やめてよ、こんな悪戯…」


 そう言いかけた私は、ある違和感を感じて言葉を止めました。

 金属製の扉の縁の部分。その影が、やけにぼやけているのが見えました。まるで陽炎のように、扉と壁との間にある影が揺らいでいるのです。よく見てみると、それは影ではありません。黒く細長く、そして影と見紛うほど集合した、



女の人の、髪の毛でした。


 ひっ、と腰が抜けて、私は尻餅をつきました。


 みし、みし、という音がして、扉が少しずつ歪んでいっているように見えました。おどろおどろしく黒光る髪の束が、このドアを開けようと試みていたのです。


 私は怖くなり、その場から逃げ出そうとしました。今思い返すと、逃げたところでどうしようもないのは明白なのですが、当時の私がとれた行動は、今まさにこちらに入り込もうとしている得体の知れないそれから、逃げて、顔を背けておくことだけだったのです。

 しかし、それは叶いませんでした。


 コン、コン


 またノックが聞こえた、と思ったら、それがまるで合図だったみたいに、体から力が抜け落ちてしまいました。床に腹這いになりながら、意思の効かない体に、私はただ戸惑うことしかできませんでした。人生初の、金縛りでした。


 はあ、はあ、と荒い呼吸をして、若干パニックになりながらも、なんとか首を曲げてドアのほうを見ました。


 もはや扉全体を、黒髪がびっしりと覆っていました。虫の羽音が集まったような、ザワザワとも、ビチバチとも表現できない嫌な音がします。しかもそれらがだんだん、ノブの方に集まって行くのが見えました。


 カチャ…カチャ…


 そんな音とともに今にも鍵が開きそうに見えました。私は過呼吸ぎみになりながら、開くな、開くなとただ念じていました。

 その甲斐もあってか、髪はやがて鍵を開けることを諦めるようなそぶりを見せ始めました。おそらく、鍵が錆び付いていて、髪を巻き付けるだけでは開けることができなかったのでしょう。

 よかった。これでひとまず安心だ…そう思った私でしたが、次の瞬間、あの音が再び聞こえてきました。


 コンコン


 私は今度こそ叫び声をあげました。いえ、あげようとしました。口はどんなに開け、開けと念じても開くことはありませんでした。しかしかわりに、今までどんなに力を入れても決して動くことのなかった足、腕が、まるで急に独立した生命を持ったかのように、動き出したのです。


 私は自分の意思に反して立ち上がり、ドアに向かって歩き出しました。まるで急かすように、ノックの音はだんだん大きく、激しくなっていきます。


 コン、コンコンコン、コンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコン…


 気が狂いそうになるノック音とともに、私はいつの間にか扉の前に立っていました。手が、ひとりでに扉の方へ伸びていきます。ドアを覆っていた髪はいつの間にか私の手首にも巻きつき、ぎゅうぎゅうと、私の手を自らの方へひっぱってきました。私の指がノブに触れます。ノブをつかみました。そして、今まさにひねって開ける、というところまで来ました。もう駄目だと思い、せめて目だけでも瞑ろうとした、その時でした。



 あるものに私は目が留まりました。


 黒く覆われた手首のうちにかすかに、空色とオレンジ色の混ざった何か、が見えました。漆黒に包まれながら、しかしそれにも負けずに、私を見守る夜空の月明かりのように、それは見えました。

 ミサンガです。それは、私がから一度も外さずにずっとつけておいた、お母さんからの最後の贈り物でした。


「お母さん」


 少しも動くことのなかった口から、そんな言葉がすんなりと出てきました。

 その時でした。私を縛っていた何かが切れるような感覚がして、私の体は自由を取り戻し、私の手首に巻きついて離れなかった髪が、急に力を失ったかのように地面に垂れ下がったのです。


「お母さん?お母さんなの?」


 いつの間にかノックの音は止んでおり、答えは返ってきませんでした。しかし髪の方は、まるで火傷をするかのように、私に近づくのを嫌い、少し距離をとっていました。その反応で、私は確信を得ました。

 しかし、髪は再び私の体を締め上げようと、今度は少しずつ大きな束を作り、また私に近づこうとしています。余韻に浸る時間はありませんでした。

 再び声を発した時、私の体は前のように震えてはいませんでした。


「私、もう平気だよ」


 ピタリと、髪が動きを止めました。

 私は話しながら、半年前の出来事に思いを馳せていました。


 点滅する青信号、急ブレーキ、飛ばされた赤い傘、救急車の音。そして、泣き崩れる父の顔。


「初めの頃は、私も、お父さんもみーちゃんもずっと泣いてた。暗くて怖くて寂しくて、ずっと泣いてたよ」


 泣けばお母さんが帰ってくると期待していた訳ではなかったと思う。ただ、恋しかった。そっと頭を撫でてくれた、あのやわらかい手のひらが、ぎゅっと抱きしめてくれたあの温かな体が、あの綺麗な黒い髪が、全てが。


「でもね、お葬式の夜、三人で約束したんだ」


 もう、お母さんに心配はかけない。


「ごめんね、久しぶりのお留守番だったから、ちょっと寂しくなっちゃったんだ」


 お母さんを失って、その残り香すら消えてしまうと、幼い妹は夜毎泣くようになった。私は、お姉ちゃんにならなきゃと思った。お母さんの代わりとして、少しでも大人に。そしてそう振る舞い続けた。自分では気づかないくらい、ちょっとずつちょっとずつ無理を重ねて。

 行ってきますと玄関から手を振るお父さんが、本当は少し、恋しかった。

 それで気が緩んでしまったのだろうか。


 気づけば、涙と一緒に、約束を破ってしまっていた。


『お母さん…』


 会いたい、と。またあの優しい手で、撫でてほしい、と。お母さんのミサンガを握りしめながら、ついそう思ってしまった。期待してしまったのだ。


「でも、だめなんだ。私はまだお母さんには会えないんだ」


 きっと、それは間違っていることだから。

 涙がとめどなく溢れてきて、でも私は拭う暇もなく言葉を続けた。


「会えなくて、ごめんね。心配かけてたら、ごめんね。でも、もういいの」


 ぼやける視界の中、私はミサンガを握りしめた。


「私は、ひとりでも、ひとりぼっちじゃない。お母さんがいなくなっても、お母さんの思い出がなくなっちゃうわけじゃない」


太陽みたいな笑顔も、家族で行ったピクニックのことも、ほくろの数だって、私はまだ覚えている。それをふと思い出すと、隣に誰もいなくても、その暖かさが、温もりが、胸の奥から蘇ってくる。


一人じゃない。少し距離はあるかもしれないけれど、本当は、きっと。


「だから…だからっ」


 張り裂けんばかりの声で、私は叫んだ。向こう側にも、聞こえるように。


「ありがとうっ!!もう、大丈夫だよっ!!!」


 その瞬間、大量の髪がまるで押し戻されたみたいに引っ込み、それと同時に、生暖かい風がドアの方から流れ込んで、私の体を通り抜けていった。不思議と不快感を感じることはなかった。ただただ優しい少し温かな風が、私の涙を拭うように通り過ぎていった。


 その風が消える直前、私は確かに、『愛してる』という声を聞いた気がした。



 私はそこで力尽き、その場に倒れ込んだ。



 目を覚ますと病院のベットの上に私は寝ていた。心配性の父と妹が、私が起きたとみるや否や抱きついてきた。二人を宥めながら話を聞くと、どうやら父たちが家へ帰ると玄関のところで私が倒れており、意識がないので慌てて病院へとって返したらしい。病状としては、冷たいタイルの上で長時間眠っていたための風邪、らしく、それを聞くと二人は拍子抜けしていた。


 そうそう、その後すぐに病院から帰宅すると、私は父と妹を集めて、新しい約束をした。


 お母さんを心配させてはいけない。けれど、もしつらくなったら、我慢せずに大きな声で、みんなで泣くこと。



 結局、私が一人きりの時に訪ねてきた存在の正体は、本当のところはわからない。お化けだったのか、または神様のようなものだったのか、果てはそれ以外何かなのか。

 でもあれから今に至るまで、とりあえず一度も、ノックの音は、していない。

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