チロルチョコ

「ほら、これでも食べたら」


 仕事の終業時刻まであと1時間ってところで……俺のお腹はグゥ〜と鳴った。ちょうど小腹が空く時間。空腹の音に気付いた同僚のおばちゃんが、チロルチョコをくれた。


「お、ありがと。コーヒー味か……懐かしいな」


 俺はこのパッケージを見ると、思い出す事がある。あの……甘く、ほろ苦い気持ち。





「もう、別れよう……」


 5年前のあの日、別れ話をした時の光景。あの娘の瞳が……まだ俺の胸を焦がす。


 俺が新入社員の頃、会社の上司と2次会でキャバクラに行った。そこで隣りに座った女の子とメールアドレスを交換した。


 まぁ、最初は向こうも営業での付き合いでしかないし、俺も客だった。でもメールを何度も交わして店に数回通う内に、次第に彼女の事を本気で好きになってしまった。


 国立大学と夜の仕事を掛け持ちで忙しいくせに、店舗のランキングではNo.1を獲ったりしていた。内面は、物凄い努力家で5歳も年下だけど、尊敬できる所があった。見た目も美人だし、愛らしい笑顔と天然の魅力で男を惑わさせる。何度も会ってる内に、例外なく俺も彼女の魅力にハマった。



 いつしか俺達は店の外でも会うようになり、デートを重ねた。5回目のデートの時、ショッピングモールの観覧車に誘って、俺は頂上付近で思い切って告白した。


「あのさ、久実ちゃん。俺、本気で好きになっちゃったんだ。恋人になって欲しい」

「え……うん、分かった」


 彼女は最初少し戸惑った様子を見せた。けどすぐに表情を和らげると笑顔になり、俺の告白を受け入れた。



 数ヶ月は、楽しく過ごした。

 普通の恋人のように、愛し合った。


 だげど関係が深くなる度、彼女の嘘が目に付くようになった。やっぱり仕事が仕事。お客さんとの関係もあるし、同伴やアフターもないわけじゃない。


 彼女も夜が遅くなる事が多かったから、帰宅時間や今居る場所を、メールで教えてくれたりもしてた。でも、実は嘘だったりする事は多かった。家で一緒に寝てるときも、お客さんから電話が来たりする事もあったし、彼女のSNSの内容は、俺が知らない事ばかりだった。

 仕事だと分かっていても、次第に彼女の事を信用出来なくなってしまった。



 ―――重ねられる嘘が俺の心を病ませていった。もう気持ちが耐えきれなくなった俺は、別れを切り出すことにした。付き合って1年近く経った頃、彼女が俺の自宅に来た時に気持ちを伝えた。


「もう、別れよう……。ごめん、もう俺は何が本当か分からなくなって。これ以上付き合っても、久実のこと信じられなくなりそうだ」

「……そっか……そうだよね? まぁ、気を使うつもりで、嘘は付いてたよ。傷付けたくなかったし。でも仕事で色んな人との付き合いはあるからさ……あなたには悪いと思ってた」

「うん。それも分かってたけど、俺、お前の事好きになればなるほど、苦しくなるんだ」

「……だよね」


 彼女は俯いて、寂しそうに小さく頷いた。その横顔も美しくて、心がもがれそうだった。その、何処かいつも寂しげな微笑みが、大好きだった。


「俺達、本気で付き合ってたんだよな?」

「うん、久実は本気だったよ」


 彼女は急に俺に顔を近づけると、唇を重ねてきた。その甘美な感触が柔らかくて、手放す決意が揺らぎそうになった。

 俺がそのまま抱き寄せようと腕を背中に回した瞬間、彼女は両手で俺を突き放した。彼女がその反動で数歩下がると、空いた隙間に香水の残り香が漂った。


「急に、別れ話切りだされたからさ。……最後、キスしたかっただけ。もうこれで最後ってことなんでしょ?……多分、こうなるかもって思ってはいた。しょうがないよね……」

「俺、久実の仕事……受け入れるつもりだったんだけどな」

「まぁ、キャバ嬢が本気で付き合うって難しいもんね。私は……少しの間だけど幸せだった」


 彼女はそう言うと、溜息をついた。暫く、俺達の間に沈黙が流れる。彼女がこの部屋を出たら、もう関係が終わる。2人で共有できる最後の時間を惜しむように、俺達は押し黙った。



ピピピピ………


「あ……じゃ、私、仕事あるから……帰るね」

「……そっか。ごめんな、そんなタイミングに別れ話して」


 暫くして、彼女のスマホからアラームが鳴った。静寂が破られると、彼女は意を決したように呟いた。そして、玄関に向かって歩いていく。

 彼女はブーツを履くと、バッグから何か取り出した。そして俺にそれを放り投げる。……キャッチした手を開くと、チロルチョコだった。


「それ、あげる。コーヒー味苦手なの」

「え……」


 俺は戸惑って、その焦げ茶のパッケージを眺める。そこには『TIROL』とカラフルな色で書かれていた。


「あのさ、私がキャバ嬢の仕事してなかったら、多分別れてなかったんだよね?」

「……まぁ、そうかもしれない。でも俺が辞めろって言っても辞めないんだろ?」

「うん」

「ありがと、俺も幸せだった」

「うん」


 久実は、俺と真っ直ぐ向き合って微笑む。いつもの、寂しげな微笑みで。


「……俺、本気で好きだったから」

「ふふ。うん……知ってる」


 彼女は俺の言葉を聞いて、とても嬉しそうに笑った。それは、初めて目にする無邪気な笑顔だった。俺は知らない内に、少し距離をとっていたのかもしれない。俺が知らない、もっとカラフルな側面が久実にはあったんだろうな。

 彼女が扉を開いて振り返ると、両眼からは涙が零れていた。その涙さえ拭ってあげられない悲しみが、俺の胸に広がる。


「じゃあね」


 そう言うと俯いて、彼女は扉を締めた。俺は追い掛けたい衝動に駆られる。けど、必死で耐えた。


 ふと部屋を見渡すと、彼女のマフラーがソファに掛かっていた。忘れ物だけど、俺にはもう届けられない。彼女も忘れ物に気付いても、もう取りに来ることはないだろう。


 俺は包装紙を開いて、チロルチョコのコーヒー味を食べた。


「甘ったるいな」


 俺はその味を確かめながら、咽び泣いた。


 本気で、好きだったんだ。


 彼女も多分、本気でいてくれた。


 でも、好きだから……耐えられなかった。




 ―――甘ったるくほろ苦い、過ぎ去った思い出。


「あの娘、元気してるかな?」


 俺は数年振りに、チロルチョコのコーヒー味を口に入れる。


 それは、切ない味がした。

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