第26話『第二摩訶般若波羅蜜』第六段その2最終回〔般若波羅蜜は仏世尊だ、仏世尊は般若波羅蜜だ〕

〔『正法眼蔵』私訳〕                        


釈迦牟尼仏が仰る、


「シャーリプトラ(釈尊の第一弟子)よ、このもろもろの衆生は、この般若波羅蜜多〈不生不滅の境界に渡す般若の智慧のはたらき〉において、仏が今ここにおられるように供養し(真心から供物を捧げ)礼敬ライキョウ(礼拝し敬うこと)すべきである。(釈迦牟尼仏シャカムニブツの言ノタマワく「舎利子シャリシ、是れ諸モロモロの有情ウジョウ、此の般若波羅蜜多ハンニャハラミタに於いて、仏の住したまふが如く供養クヨウし礼敬ライキョウし、思惟シユイすべし。)                       



般若波羅蜜多を考えることは、まさに仏世尊を供養し礼敬するようにすべきである。(般若波羅蜜多を思惟すること、応に仏薄伽梵ブツバギャボンを供養し礼敬するが如くすべし。) 



それは何故か。般若波羅蜜多は仏世尊(bhagavat=世の中で最も尊い人)と異ならず、仏世尊は般若波羅蜜多と異ならないからである。(所以ユエは如何イカン。般若波羅蜜多は仏薄伽梵に異ならず、仏薄伽梵は般若波羅蜜多に異ならず。)                        




般若波羅蜜多は、すなわち仏世尊であり、仏世尊は、すなわち般若波羅蜜多である。(般若波羅蜜多は、即ち是れ仏薄伽梵なり。仏薄伽梵ブツバギャボンは、即ち是れ般若波羅蜜多なり。)



それは何故か。(何を以ての故に。)                  



シャーリプトラよ、一切の如来(如実より到来した仏)や応供(供養に応ずるに足る仏)や正等覚(仏の無上の智慧)は、皆、般若波羅蜜多より出現することができるからである。(舎利子、一切の如来ニョライ応オウ正等覚ショウトウガクは、皆般若波羅蜜多より出現することを得るが故に。)                                


シャーリプトラよ、一切の菩薩摩訶薩(勝れた菩薩)・独覚(独りで修行し十二因縁を観じて真実を覚る者)・阿羅漢(四果の最高位。一切の煩悩を断じ涅槃を得た者)・不還(第三果)・一来(第二果)・預流果(初果)等は、皆、般若波羅蜜多によって出現することができるからである。(舎利子、一切の菩薩摩訶薩ボサツマカサツ・独覚ドッカク・阿羅漢アラカン・不還フゲン・ 一来イチライ・預流果ヨルカ等、皆般若波羅蜜多によりて出現することを得るが故に。)        



シャーリプトラよ、一切世間の十善業道(十種の善業を行じること)、色界(欲望を離れた正常な物質の世界)の四段階の禅定、無色界(精神作用にのみ住む世界)の四段階の禅定、五つの神通力(五種の超人的はたらき)も、皆、般若波羅蜜多によって出現することができるからである。」と。(舎利子、一切世間の十善業道ジュゼンゴウドウ・四静慮シジョウロ・四無色定シムシキジョウ・五神通ゴジンツウ、(皆般若波羅蜜多によりて出現することを得るが故に」。)       



そうであるから、仏世尊は、般若波羅蜜多であり、般若波羅蜜多は実に諸法〈森羅万象〉である。(しかあればすなはち、仏薄伽梵は般若波羅蜜多なり、般若波羅蜜は是諸法なり。) 



水に自性が無く、自性が無いから沸かせば湯になり、冷たければ氷になるように、あらゆるものは空相〈有るに非ず無きに非ず自性が無いすがた〉であり、不生不滅(生じず滅せず)であり、不垢不浄(垢つかず浄からず)であり、不増不減(増えず減らず)である。(この諸法は空相なり、不生不滅なり、不垢不浄、不増不減なり。)             



この般若波羅蜜多が現成するのは、仏世尊が現成するのである。般若波羅蜜多に、問うといい、参ずるといい。(この般若波羅蜜多の現成せるは、仏薄伽梵ブツバギャボンの現成せるなり。問取すべし、参取すべし。)              




般若を供養し礼敬ライキョウする(礼拝し敬う)ことは、取りも直さず仏世尊にまみえ身心を捧げて仕えることであり、仏にまみえ身心を捧げて仕える我れがそのまま仏世尊であり、我れと仏世尊と一体無二である。(供養礼敬クヨウライキュオウする、これ仏薄伽梵に奉覲承事ブゴンショウジするなり、奉覲承事の仏薄伽梵なり。)




これで正法眼蔵第二摩訶般若波羅蜜の巻を終える。(正法眼蔵摩訶般若波羅蜜第二)


         


その時、天福元年西暦1233年(道元禅師34歳)夏安居(三ヶ月の集中修行期間)の日、観音導利院に在って大衆に示す。(爾時ニジ天福元年 夏安居ゲアンゴ日在観音導利院示衆)            



西暦1244年(道元禅師45歳)、越前の吉峰寺で侍者の懐奘(永平寺二代)がこれを書写した。(寛元二年甲辰ヒノエタツ春三月二十一日 越宇エツウ吉峯精舎キッポウショウシャに侍ハベりて之を書写す 懷奘)





〔『正法眼蔵』評釈〕                        


この『摩訶般若波羅蜜』の巻は『正法眼蔵』の中で最初に撰述されたものです。道元禅師の下に集まって来た修行者たちに、日々の仏道修行の根幹とするようにと、この巻を示されたのではないかと思われます。記録は残っていないようですが、毎朝の暁天キョウテン坐禅の後、回廊を渡り法堂ハットウに移り、一斉に『般若心経』を読誦されていたのではないかとも想像されます。小子も大衆と共に随喜させていただいているシーンをイメージすることがあります。



あらゆるものは、不生不滅の般若の仏智慧のはたらきです。この身も、般若の仏智慧のはたらきです。この心も、般若の仏智慧のはたらきです。このように見えるのも、般若の仏智慧のはたらきです。このように聞こえるのも、般若の仏智慧のはたらきです。このように香るのも、般若の仏智慧のはたらきです。このように体感があるのも、般若の仏智慧のはたらきです。このように思いが浮かぶのも、般若の仏智慧のはたらきです。苦しいと思うのも、般若の仏智慧のはたらきです。苦しみが滅するのも、般若の仏智慧のはたらきです。仏道修行するのも、般若の仏智慧のはたらきです。布施も、般若の仏智慧のはたらきです。戒を保つのも、般若の仏智慧のはたらきです。耐えるのも、般若の仏智慧のはたらきです。精進するのも、般若の仏智慧のはたらきです。坐禅も、般若の仏智慧のはたらきです。智慧も、般若の仏智慧のはたらきです。この上なく勝れたさとりも、般若の仏智慧のはたらきです。過去現在未来の時間の観念も、般若の仏智慧のはたらきです。万物を構成する素粒子も、般若の仏智慧のはたらきです。液体も、般若の仏智慧のはたらきです。化学反応も、般若の仏智慧のはたらきです。物理作用も、般若の仏智慧のはたらきです。歩くのも、般若の仏智慧のはたらきです。留まるのも、般若の仏智慧のはたらきです。坐るのも、般若の仏智慧のはたらきです。寝るのも、般若の仏智慧のはたらきです。呼吸するのも、般若の仏智慧のはたらきです。考えるのも、般若の仏智慧のはたらきです。般若の仏智慧のはたらきでないものは、一つもありません。            



私達は、あらゆるものが不生不滅の般若である真っ只中にいて、修行次第で何でもなすことができます。戒(戒をたもち)、定(禅定に親しみ)、慧(智慧が開き)、解脱(煩悩から開放されて)、解脱知見(心の安らかさを覚すること)をなすこともできます〈施設可得〉。また、この般若の中で修行していけば、預流果(修行の初歩の位)・一来果(もう一度人間に生まれて涅槃に入る位)・不還果(再び生まれ変わることのない位)・阿羅漢果(煩悩を断滅し修行を完成した位)を得ることもできます〈施設可得〉。無上正等正覚(この上なく勝れたさとり)を得ることもできます。また、仏の説法や衆生救済をなすこともできます。これらの仏行や仏果はすべてなし得ること〈施設可得〉です。



何を行じても、何の果を得てもそれは仮の名であり本来は何の名もなく、みな般若が般若を般若で行じているだけ、般若が般若を般若で得ている〈施設可得〉だけです。その時、そこに私はおらず、般若以外の何もありません。〈観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時、渾身の照見の五蘊皆空なり〉。摩訶なる般若波羅蜜の仏智慧のはたらきに感謝合掌礼拝します。



*注:《 》内は御抄編者補足、〔 〕内は著者補足、( )内は辞書的注釈、〈 〉内は独自注釈。


                                 合掌

                               

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