第24話『第二摩訶般若波羅蜜』第五段 〔風鈴は虚空に掛かって般若波羅蜜を説いている〕 

〔『正法眼蔵』原文〕


先師古仏云イワく、


渾身コンシン口に似て虚空コクウに掛り、


東西南北の風を問はず、


一等他の為に般若を談ず、


滴丁東了滴丁東チッチントウリョウチッチントウ。


これ仏祖嫡々テキテキの談般若なり。


渾身般若なり、渾他般若なり、渾自般若なり、渾東西南北般若なり。



〔抄私訳〕


これは、道元禅師の先師である天童如浄テンドウニョジョウ禅師の「風鈴の頌ジュ」といって、唐国以外でも珍重されている詩偈シシゲである。


「渾身」は、風鈴〈本来の自己〉の全身である。「虚空に掛る」は、その時の風鈴の趣のある様子である。「東西南北の風を問わず」とあるのは、どの方角から吹いてくる風かという区別がないことである。


つまるところ、「滴丁東了滴丁東チッチントウリョウチッチントウ」は、この風鈴が鳴る音である。これがそのまま、「般若を談ずる」(般若を説く)のであり、この道理によって、この詩文を結ばれるのである。誠に、この道理が、「仏祖嫡々の談般若」(釈尊より歴代の祖師によって相続されてきた般若を説くこと)である。


「一等他の為に般若を談ず」(あらゆるものの為に等しく般若を説く)と言われる「他」は、東西南北の風であり、また、風鈴そのものであり、「滴丁東了滴丁東」であり、これによって「般若を談ずる」のである。「他の為に」といっても、自他の他に関わらない。他があるなら、自己が全て般若波羅蜜〈不生不滅の境界に渡す般若の智慧のはたらき〉と言うことができない。自他の他でない道理が明らかである。


〔聞書私訳〕


/この「渾身口に似て」とは、そのまま、第一段で「観自在菩薩の行深般若波羅蜜時は、渾身の照見五蘊皆空なり」〈観自在菩薩の行深般若波行深なる仏智慧のはたらきが現れる時、全身心は認識が生じる前の照見であり、全身心を構成する五つの集まりはみな空である〉と言った渾身(全身心)である。


/「渾他」(万法)とは、自他の他ではない。「渾自般若」(全自己の般若)ということは、先の段にないことが出てきたようだが、これは「一等」の「等」と思われる。


/「渾身虚空に掛り」とあるのは、人はみな虚空(空間)に掛っているのである。「学」というのも、「守護」というのも、この「談般若」の道理と同じである。「当に虚空の如く学ぶべし」の「虚空」と、この「虚空に掛り」の「虚空」は同じである。


/「一等他の為に般若を談ず」とあるのは、この他は自に対しない他であることを表そうとするために、「一等他の為に」と言うのである。 


/「滴丁東了滴丁東」の東の字は、方角の東と理解してはならない。風鈴の鳴る音が、チッチウムトウトウなどと聞こえるのをそのまま表されたのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕


先師の天童如浄テンドウニョジョウ禅師が詠じて言われた、(先師古仏云イワく、)


「全身心〈本来の自己〉は口のように虚空(空間)に掛り、(渾身コンシン口に似て虚空コクウに掛り、)


東西南北のどこから吹く風かと問うことなく、(東西南北の風を問はず、) 


あらゆるものに等しく般若波羅蜜〈不生不滅の境界に渡す般若の智慧のはたらき〉を説く、チッチントウリョウチッチントウ」。(一等他の為に般若を談ず、滴丁東了滴丁東チッチントウリョウチッチントウ。)


この詩偈は、釈尊より歴代の祖師によって代々相続されてきた般若波羅蜜を説いている。(これ仏祖嫡々テキテキの談般若なり。)


身心〈本来の自己〉は全て般若波羅蜜であり、万法(あらゆるもの)は全て般若波羅蜜であり、自己は全て般若波羅蜜であり、東西南北は全て般若波羅蜜〈不生不滅の境界に渡す般若の智慧のはたらき〉である。」(渾身般若なり、渾他般若なり、渾自般若なり、渾東西南北般若なり。)


*注:《 》内は御抄編者補足、〔 〕内は著者補足、( )内は辞書的注釈、〈 〉内は独自注釈。


合掌


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