第2話 題目の事
『題目の事』 〔正法眼蔵〕
仏教経典の教えの通例では、題目(表題)がそのまま仏法の大意を明かすことがある。また、喩えを題目とすることもある。また、人の名を題目とすることもある。今の『般若経ハンニャキョウ』(空を説いた経)などは、そのまま仏法の題目である。『妙法蓮華経』(すべては大乗の現れであることを説いた経)の蓮華レンゲは喩えである。『勝鬘経ショウマンギョウ』(勝鬘夫人が一乗真実と如来蔵の理について説いた経)などは、人の名をつけたものである。
この『正法眼蔵』という名は、これこそそのまま仏法を示す名である。仏が迦葉カショウに付属(正法を授け、その護持を託すること)されたとき、「吾に正法眼蔵涅槃妙心ネハンミョウシン有り、摩訶マカ迦葉に付属す」と仰オオせられたので、宗門(仏法の宗家である禅門)の心地を述べるような文の名には、『正法眼蔵涅槃妙心』第一巻・第二巻と言うべきであるけれども、下の四字を省略して『正法眼蔵』と言うのである。
宗門では、特に依るべき経がないので、経についてこれがよいと定めることもない。『涅槃経ネハンギョウ』(お釈迦さまの晩年に説かれた経)があるが、「涅槃」の言葉をとって涅槃宗と言うこともできる。そうではあるが、仏が『涅槃経』と仰せられたお言葉はない。「妙心」とあるので、この『正法眼蔵』は何に付いても言うことができる。釈尊が拈花瞬目ネンゲシュンモク(花をとって目を瞬かせたこと)されたので、拈花宗とも、或いは破顔微笑ハガンミショウされたので、破顔宗とも言うことができるが、そのことも又いわれがない。
/或いは祖師(達磨大師が天竺からシナに仏法を伝えた)の名をとって達磨宗と言い、或いは心性を学ぶと理解して、仏心宗などと言うが、何れも相応しくない。仏がすでに「吾に正法眼蔵涅槃妙心有り」と仰せられているので、私的な言葉を用いるべきではない。仏の御言葉の中で何を捨て何を取るというのか。仏眼宗とも言えようし、拈花宗とも言えよう。なぜ心の字ばかりを取る必要があろうか。結局、心という字の意味を知らないからである。「吾有正法眼蔵涅槃妙心」とあるので、この十文字を取れば何れの道理にも違わないのである。
/『正法眼蔵』の題目は喩えでもない。人に対さず、随他意ズイタイ(他の機根に随って説法する)の機(はたらき)でもなく、随自意(自己の意のままに説くこと)である。また、自己の意に随うというけれども、他に対する自己ではない。すでに「吾に正法眼蔵涅槃妙心有り」とあって、これを正しく伝えたのだ。どうして新たに宗の名を立てる必要があろうか。
『題目の事』 〔現成公案〕
/また、「現成公案」ということは、どのようなことについても言うことができる。有の法〈真理である存在〉を説くような時にも、有の「現成公案」と言うことができ、無の法を説くような時にも、無の「現成公案」と言うことができ、有に非ず空に非ずと説くような時にも、「現成公案」と言うことができる。この『正法眼蔵』七十五帖が連なる一々の草子(とじ本)の巻の名を、すべて『現成公案』と言うこともできる。迷の現成もあろう、悟の現成もあろう、払子ホッス(獣毛等を束ねて柄を付けた法具)・柱杖シュジョウ(僧の杖)の現成もあろう、その理が現成するということであるからである。
この迷というのは、「諸法が仏法である時節」〈森羅万象が皆仏法である時節〉の迷を指すのである。〔迷という時は、すべてのものが迷である。〕つまり、『現成公案』とはこの宗門(仏法の宗家である禅門)の意義を表す意である。「公案」〈無我である全宇宙のはたらきの絶対平等の今の事実〉とは、この『正法眼蔵』〈釈尊が覚られた涅槃妙心である身心と宇宙のありようを道元禅師も覚られ、それを言語化し収められた蔵〉を言うのである。
しかし、「現成」〈身心に現前する〉といっても、以前は現れなかったことが今現れるということではない。隠れたり没したりすることに対する現成と理解してはならない。現成を嫌うのであれば、かえってその言葉を避けるべきであろう。その言葉を避けるのであれば、仏が「吾に正法眼蔵涅槃妙心有り」と仰せられた御言葉も用いてはいけないのか、そうではない。
/「成」の字はよくよく理解しなければならない。或る学者は「即身成仏(この身このままままに仏に成ること)の意味を論じるときに、即身成仏と説く言葉は仏法と言い難い、肉体がそのまま仏に成るというような仏は尊ぶべきではなく、非常に劣っているのである、云々」と言っている。この非難は、ひとまずは、誠に充分すぎる意味があるように理解できるけれども、即身という具足(欠ける所なく具えること)の成仏を、世間で言う「成」と理解してはならない。仏の上に置いて「成」を理解すべきである。
『法華経ホケキョウ』の註釈に、「衆生が教の如く行ずれば自然ジネンに仏道を成ずる」と言う。「教の如く行ずる」と言うと、「自然」の言葉が相応しくなく受け取られるが、この「教えを行ずる」とは、どの程度と示していない。だからこそ今の経が説く内容は甚だ深いのである。「自然」とあるが、外道の自然見ジネンケン(生まれたそのままで仏道を得ているという見解)の意味ではない。「教えを行ずる」というのも、果を待つ行ではないのである。今の現成の成は成仏〈成っている仏〉の成と理解すべきである。
/この「公案」という言葉は、世俗の家から出ているが、在家人と出家人ともに理解されるべきである。「平不平名曰公:不平を平らぐことを名づけて公と曰イう」とある。先ず世間が乱れたならば、それを平らかにすることが、とりわけ公なのである。徳政(民に恩恵を施すよい政治)を行ったならば、それを不平を平ぐると言うのである。「守分名曰按:分を守ることを名づけて案と曰う」、いかなるなことについても分を守って乱れなければ、それをとりわけ案と言うのである。これほどまでに外道の法も理解すべきである。
声聞ショウモン(仏法を聞いて修行する者)・縁覚エンガク(他者の教えによらず自ら縁起の法を観じて覚る者)・菩薩ボサツ(悟りを求めて修行するとともに、他の者を救いに導こうと努める者)等の修行においても、皆それぞれの位で、「不平を平げ分を守る」べきである。このようであるから、今の七十五帖の草子の巻の名は変わっても、巻ごとの『現成公案』なのである。
総じて法文ホウモン(仏の教えを記した文章)を理解し、道理を立てるのもまた、ただ一つの道理である。能所ノウジョ(主客)の分離相対も無く、彼此ヒシ(自他)の分離相対も無く、「全機」〈全宇宙のはたらき〉の道理のみを明きらかにするのである。第一巻の『現成公案』において、第七十五巻の『出家』までが同じ「全機」の道理であることを述べるのである。
/そもそも、この「不平を平らぐ・分を守る」という言葉を世間と同じように理解することは、また本意ではない。不平ということはどこまでと定め難い。平と不平との違いは、どんなことを目印として定めるられるのであろうか。平(平等)と不平(差別)は一つであると理解する以上は、不平(差別)を直して平(平等)にするとは言い難い。分を守ることも、分際があるのであれば、こちらの仏法と取ることはできない。「全機」〈全宇宙のはたらき〉の「不平を平らぐ・分を守る」〈差別と平等と一つである全宇宙のはたらきの事実を守る〉でなければならない。
*注:《 》内は御抄著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は著者の補足。
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