03:新しい環境

 翌朝、朝日が窓から差してきても、誰も起こしに来なくて途方に暮れた。

 もはや貴族の令嬢ではなくなったと思えば当たり前だが、あの方の妻になるのならばどうだろうか?

 自分のいまの処遇に悩んだ末、結局わたしはベッドの脇にあったベルを鳴らした。


 程なくしてノックと共にやって来たのは執事、勿論男性だ。

 客室ここを使っているのが女性のわたしだと知れているのだから、普通は男性の執事ではなくて身支度を整える侍女が来るはずじゃないかしら?

「お呼びでしょうか?」

「身支度を整えたいのだけど」

 すると執事は「ああ申し訳ございません」と謝罪した。

「このことは昨日のうちに伝えておくべきでした。

 生憎この屋敷に侍女はおりません。ですから身支度はご自分でお願いいたします」

 突っぱねるではなく、淡々とした事務的な言い方だった。

「そうなのね、こちらこそごめんなさい」

 用がそれだけだと言うと執事は去って行った。


 こんなに立派なお屋敷なのに侍女が一人もいないなんて驚いたわ。

 でも侍女は貴族の文化で、そしてフリードリヒは貴族ではないのだから居ないのが当たり前なのよね。

 わたしは客室に備え付けられた小さな洗面台で身だしなみを整えると、少ない荷物から手軽に着られる服に着替えて部屋を出た。


 朝食の部屋の場所は先ほど聞いておいたから迷わずに辿り着いた。

 部屋に入るとフリードリヒはすでに食事を終えて新聞を読んでいた。待っていて欲しかったというつもりはないが、居ない者として扱われたと思うとなんだか少し寂しい。

「おはようございます、フリードリヒ様」

「ああ……」

 新聞から顔を上げる事も無く生返事が帰って来た。


 部屋に給仕などはおらず、彼の向かいの席に一人分の食事が準備されていた。ツイッと執事に視線を向ければ、あちらも同じく無言でそちらの席を促してくる。

 どうやらそこがわたしの席の様ね。

 フリードリヒは我関せず、そして部屋にいる人の数を考えればわたしの椅子を引く者もおるまいと、自らで椅子を引いて座り、手早くテーブルの上に視線を走らせた。

 朝食はパンとサラダ、そしてハムと卵だけ、彼の身分を考えればとても質素。

 しかし向かい側、彼の前の皿はとっくに空っぽだが、皿の数や大きさから考えてどうやらメニューは同じらしい。

 言った通り。彼は本当にわたしを妻として扱ってくれるようね。


「リューディア様、食べながらで良いのでそのままお聞きください」

 新聞から顔を上げないフリードリヒに変わって脇に控えていた執事が話し始めた。

 食べながらと言われてもねぇ……

 身分違いから、人と話すときは相手の顔を見て~を実践するつもりはないが、執事だんせいから、じっと見られながら食べるのは抵抗がある。

 わたしは食事の手を止めて、まずはじっくりと彼の話を聞くことに決めた。

「何かしら」

「本日のご予定ですが、朝食後に婚姻届にサインをお願いいたします」

「分かりました」

 そう返事を返すと執事はぺこりと頭を下げて身を退いた。

 どうやら続きは無いらしい。

 確かに食べながら聞けたわ。

 しかし一度手を止めたのが少し悔しくて、わたしはフリードリヒに話を振った。

「フリードリヒ様の本日のご予定は?」

「俺のサインならば昨夜のうちに書いておいたぞ」

 初めて新聞から顔が上がり、訝しげな表情で睨まれた。

 だが聞きたいのはその話ではない。

 なんせわたしたちは昨日会ったばかりで、お互いに知らないことが多すぎるのよね。

「いいえそうではなく、日中は何をなさっておられるのですか?」

「俺は商人だぞ、商店で仕事に決まっている」

「商店と言うのはどちらに?」

「街中だ」

 そりゃあそうでしょうよ!

 この屋敷だって言ってみれば街中・・だ。

 ねえこの人、会話の返しが雑すぎない?

「ではお戻りはいつでしょう?」

「なあお前は俺のなんだ」

「妻……の予定ですわ」

 他に行くあてのないわたしは強く出て、それが破棄されるのが怖くて言い淀んだ。

「……チッ。

 夕刻前には帰る」

 わたしの顔に出た怯えやら卑屈といった感情をフリードリヒは即座に読み解いて舌打ちを漏らした。だがその上で質問の答えをちゃんと返す辺り、彼は常識的でとても優しい人なのではないかしら?

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