八の巻「土蜘蛛」

 それは、蟲愛づる姫君桜子が、唐の蛇神の元に嫁したあの日から、二月ほども過ぎた頃でしょうか。あの日すぐに蛇神は姫を伴い船岡山を捨て、都を少し離れた別の山に移り住んでおりました。この姫がいる以上、もはや蛇神にはそれ以上の贄の乙女はまったく必要ではなくなりました。むしろ蛇神は、今後一切人間と関わりを持つまい、そう思ったのです。船岡に掘った洞の宮はすでに都人の知るところ、まかり間違って人間に来られてはかなわない。そこはもう潔く捨てて、人間が誰も知らない山中の地底に移り住む、そこで姫と二人だけでいつまでも心静かに暮らそう、それが蛇神の願いだったのです。

 一方。蛇神の鱗をその身に受けた姫は、その不死不朽の神力も分け与えられたのでしょう。あの日以来、食物はおろか水一口すら、一切の物を口にせずとも済むようになっていました。そして衣を身に着けなくても、寒さも感じないのです。これなら、地の底で暮らすのに何の支障もありません。

 そこで二人はあれから、地の底で日々、変わらぬ妹背の睦み合いを続けていたのでした。

 無論、都の人々はそうとは知りません。大納言家の姫が最初の生贄となり、次は誰ぞ、と。次のひと月というもの皆戦々恐々としていたのでありました。

 ですがその後。蛇神の「使者」は一向に現れず、かつまた、都を我が物顔にしていた蛇や蜥蜴達がうその様に、一匹残らず姿を消してしまったのです。

 人々はただ首をかしげ訝りながらも。平穏な日々の再来を、うっすらと感じはじめておりました……


 その頃。

 山中深く、木漏れ日すら通らない暗い森の中に、社が一つ。

 それは一体、どこの社であったのか。人間は誰も知らない、いやおそらくは見つけることも入ることも出来ないそこで。

「御大将!」赤い兜と鈍い深緑の甲冑に身を包んだ武者が、一同の上座に座る黒い毛皮の陣羽織の男に詰め寄った。語気は激しいが、どうやら怒りの抗議ではない。甲冑の男のギラギラと輝く目と、口元に浮かぶ猛々しい笑み。

 誰にも一目でわかる、その男は。

「やるのか!あの蛇神を、本当に?いつだ御大将!」

 血に飢えている。

「やらせてくれるな?俺に!先駆けを!どうなんだ御大将!!」

「【大百足とびず】、そうはやるな。無論此度の戦は、お前に存分に働いてもらわねばならん。わかっておるわ」

「そうだよ大百足……あんたは腕は一番だけど、頭に血が登りやすいのが玉に瑕。【土蜘蛛】の御大将は、あんたの出番もちゃあんと考えて下さってるって。あたしらはお指図通り動けばいいんだよ」

 するりと音もなく、二人の男の間に滑り込む女。童のような短い髪、尖った耳。大きな丸い目をギロとむき、薄笑いを浮かべながら軽く舌なめずり。

「うぬ!だが【猫又】、俺はもうじっとしておれんのだ!この日ノ本で、御大将や俺たちを差し置いて!蛇神めが、我が物顔にのさばりおって!!

 貴様とてそうだろう!違うか猫又?!」

「申し訳ない、大百足殿……」

 おやおや、と呆れ顔の女と武者の間に、また別の男。粗末な衣は動く度に埃のようなものを散らす。あくの強い脂ぎった顔つきに、山羊髭。

「実は、わしの手勢がまだ全て揃わんのでな。それで御大将にもお待ちいただいておるところ。ここは今しばらく御辛抱下され」

「【毒蛾主】、お前はしかし、いささか悠長に過ぎる。このわしにとて、いつまでも大百足の抑えは出来んぞ。

 ……ちと急げ」

 黒い毛皮の男すなわち土蜘蛛は、そう鷹揚に毒蛾主をたしなめながら、目では未だ逸る大百足を鋭く制す。これは恐縮恐縮と、狡そうな顔でぺこりと頭を下げる毒蛾主。憤然と腕組みをしながら、その場にどかりと座り込む大百足。きょろきょろと可笑しそうに彼らを見比べる猫又。さらに。

 姿は判然としないが、彼らを囲繞する闇の中には、多くの気配。

 彼らは、ここ日ノ本に古くより住まうあやかし達。

 二月前、忽然と姿を現して人間の都を一晩で半壊させた、巨大なよそ者、蛇神。無論人間などどうなろうと彼ら妖達には眼中にない。だが。

 日ノ本の国の真の主、そう自負する彼らには、そしてその総大将と彼らに崇められる土蜘蛛には、蛇神の存在は目障りの極み。

「討つべし」ついにその夜、土蜘蛛は号令を発したのである。蛇神討伐の最終準備をせよと。

「大百足、よいか?あと三日だけこらえろ。三日だけ、だ」

「……御大将!それでは!!」

 喜色満面で立ち上がる大百足。

「よかったじゃないか?だから言ったろう?」

 からかい顔で大百足にしなだりかかる猫又。

「三日?こりゃ忙しい。となれば、わしは一足先に戻らねば……」

 そわそわとその場を去ろうとする毒蛾主。

 その時。

「お待ちくださいませ、大殿おおとの様!!」

 一同の遥か下座の闇の中に浮かび上がる、緑の淡い光に包まれた女の影。

 土蜘蛛が、険しい目でその女を睨む。

「……【蛍】!」

「大殿様、あの蛇神と争うこと、その儀だけは!どうか思いとどまり下さいませ!」

 その女。姿は貴人の館に出仕した人間の女房と変わらない、その髪が、淡い緑の光をほのかに放っている他には。女は、闇に半ば溶けて獏とした存在だけを現世に表すその場の一同をかき分けながら、下座の末席から急ぎ足で、土蜘蛛を目指して進み出る。

「それは、あまりに無謀でございます!」

「控えろ、蛍。ここは軍議の場だ」

 お前の出る幕ではない、と。土蜘蛛は眉間に苦い皺を寄せながら、冷たく静かに蛍を制した。

 蛍。その名の通り、夏の一夜に露と消えた幾多の蛍たちの魂魄霊気が凝り固まって生まれた一人の妖。闇に美しく灯を照らすだけが彼女の持つ力の全てであったが。

 そう、美しい彼女は実に、土蜘蛛の愛妾であった。

「いえ黙りませぬ、このことばかりは!たとえ力はなくとも、私とて日ノ本の妖の一人。その行く末を憂う心は同じにございます。

 大殿様、大殿様には無論、お分かりのことと存じ上げます。一晩で人間の京の都を半分灰にした、あの蛇神の力は恐るべきものです。戦えば、勝っても負けてもどちらも到底無事には済みませぬ。共に傷つくだけ。ただただ無益と存じます。

 大殿様?そもそも何故、あの蛇神と争わねばならないのですか?生まれは違っても同じ妖同士ではございませんか?

 確かに。外国とつくにから来ていきなりのあの傍若無人の無法、それはきつくきつくお咎めになるべきです。ですが。まだかの者は大殿様……日ノ本の妖総大将あやかしそうだいしょう、土蜘蛛様の御威光を存じ上げないだけかとも思われます。

 まずは使者など遣わされて、無体無礼を糺すべきは糾されて、その上で。かの者の言葉も心づもりもお聞きになってみては如何ですか?こちらが通すべき筋を通し、その上でなおかの者が不遜に出るなら、それは大殿様が誅されるのも致し方ありませんでしょう。ですがあるいは、事を分けて諭せば。蛇神も大殿様に恭順の意を示すやも知れませぬ。

 まずはかの者の出方を見る。戦を開くのは、それからでも決して遅くはございません!」

 土蜘蛛に叱咤された通り。妖とはいえ本来ごく大人しく、何かと戦う力など全く持ち合わせていない彼女は、この妖達の軍議の場では完全な部外者であり乱入者、本来発言の権は無い。いつでも誰かに止められる可能性がある。それを自覚していたのであろう、何度も繰り返し心に刻んだその忠言を、蛍は一気に言い放った。

 牙を剥き唸り声を上げる大百足、すんと小癪気に鼻を鳴らす猫又。蛍の言葉を余計な差し出口と、どちらもあからさまな反感を示している。一方毒蛾主はふむふむとあごひげを撫でてしたり顔。どうやら「悪くない」とでも言いたげ。それが戦を回避出来る可能性への賛意なのか、準備の遅れている自分に猶予を与える口実として使えるのが嬉しいのか、彼のその小狡い顔では判然とはしなかったが。

 そして闇に隠れたその他の妖たちの心中や如何に、それを知る術は無い。彼らは土蜘蛛の断を黙して待つのみ。

 初めは蛍を制しようとした土蜘蛛であったが、その勢いに止める間を失った。そして聞けば彼女の言葉には確かに、一理も二理もある。蛇神と戦うことの危険さ、無益さは彼とて充分承知していた。いや。彼は本当は無意識の中で、蛍の言ったような言葉を誰かが自分に言ってくれることを待ち望んでいたのかも知れない。しばし黙して聞いた後、彼はふと穏やかな顔になった。そして口を開きかけたその時。

 蛍はしくじった。を漏らしてしまったのだ。

「大殿様……何をのです?」

「……黙れ!!」

 土蜘蛛の怒号は、雷の響きでその場を震わせた。居並ぶすべての者の中、おそらく最も武に長け恐れを知らぬ剛毅尊大な大百足すら、大鷹に狙われた子兎のように首を縮める。

(……しまった!)

 一転鬼の形相となった主人に蒼ざめる蛍。土蜘蛛に側女として常に親しく仕えていた彼女は、彼の心中をよく察していた。だからこそのこの場でのあの忠言。しかし彼女は、それゆえの勇み足。彼の表情の一瞬の緩みに油断し、かえってうっかりその逆鱗に触れてしまったのだ。

 蛍は図星を指し過ぎた。まさしく土蜘蛛は「焦っていた」のだ。ここ数百年、人間達の活動によって、彼ら妖の力の及ぶ世界がいよいよ狭められて来たことに。

 かつては。人間達は数も少なかった。そして彼らは妖達のようなこれといった力も技も持ってはいない。多少知恵の効くだけの大きな猿のような存在である、と。妖達そしてもちろん土蜘蛛自身も、人間をそう見くびっていた。そしてその頃の人間達は、ほんの少し脅しただけで容易く妖に怯え、その威に従った。妖は土地土地の神として祀られ、貢を受け、祭祀でもてなされた。何かと便利な飼い犬として、妖達はひ弱な人間を自然の脅威から庇護してやったものであった。

 だが。人間達はようやくその数を増やしていった。そして、土蜘蛛は気付いた。

 自分達妖の上に覆いかぶさり自由を奪っていく、人間達の隠された力に。最初は幼稚なまじないの数々に過ぎなかった。だが人間はやがて、自分たちの祖先を神と祀り、彼ら妖を属神としてその下に配し始めた。すると。幼稚だった呪いが、多くの人間のごくわずかな霊力が、その新たな信仰によって網の目のような体系に絡み合い、驚くほど強固な術式となり、ついに、彼ら日ノ本の妖の居場所を奪い闇の中に追いやった。

 そして更に。海の向こう、彼ら妖が見たことの無い外の世界から、全く別の法術がやって来る。天竺から高原の民、そして唐からここ日ノ本にまで受け継がれたその「仏教」と呼ばれる人間の妖術は、かつてない多くの人間達の間を通り抜けて来たが故に、妖達にとっては信じがたい程の巨大な力の結集であり、彼らはそれに抗う術を持たなかった。

(人間は一人一人は脆く弱いが、きりもなく増え、増えれば増えるほど新しい術を創り、覚え、編み上げて力を増す。このままではやがて我らは……)

 蛇神の存在とその渡来は、あるいは彼ら日ノ本の妖にとってはもっけの幸いなのかも知れない。今彼らを抑え込み縛り上げている人間達の力を、かの者はいとも簡単にはねのけ踏みにじったではないか。あの力を借りれば……だがしかし。

(あの蛇神を服従させることが出来るのか?今、勢力の衰えた我らに??)

 ならばいっそ蛇神の存在を消してしまえば?しかしもしそれが出来なかったら?

 答えは二つ。土蜘蛛がむしろ蛇神の軍門に下るか、あるいは彼らは人間ではなく、当の蛇神に滅ぼされるか。それは誇り高い土蜘蛛には、どちらもどうあっても認めることのできないことだったのだ。これが土蜘蛛の迷いであり、焦り。

 そして自らそうと思っていながらも、それを誰かに見透かされるのはこの上ない屈辱。蛍は虎の尾を踏んでしまったのだ。

「その女をどこかに連れて行け!!」

 土蜘蛛のその声に即座に応じて。周囲の闇が細長く伸びて幾多の腕となり、蛍の体に絡みつく。それは闇に姿を半ば埋めたままの妖達の腕。

「いい気味だね、蛍!土蜘蛛様のお気に入りを気取って生意気な口をきくから、そういう目に合うんだよ!とっとと……下がりな!!」

 猫又が蛍の胸をどんと突き放す。

「大殿様!どうか、大殿様……!!」

 悲痛な叫びだけを残して、闇の中に曳かれる蛍。その声と姿とほのかな光が消え去ると。

「二日だ」土蜘蛛は静かに、しかし陽炎のような怒りを身にまとって呟いた。

「大百足。二日堪えろ、二日だ」

 言われた大百足は、今度はその土蜘蛛の妖気の前にかえって立ちすくむばかり。やはり怯え顔の猫又に急かされるように、闇に溶け消えていく。一方、大慌てでその場を飛び出していく毒蛾主。今度遅れれば、自分の命が危うい。

 そして何を胸に思うのか、土蜘蛛は、その暗い社にただ一人残る……

(続)

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