七の巻「逆理桜紅葉」(その三)
「あなたは美しい」。
姫のその一言に。蛇神の長大な体の頭から尾の先まで、彼女が感じたことのない衝撃が走った。
その通力で時に自在に嵐をも巻き起こす彼女は、雷槌に打たれたことも数え切れない。だが天が落とすその閃きの矢に、彼女がかつて苦痛を感じたことはない。雷に打たれた瞬間の、光り輝く己の姿を使って愚かな人どもを脅かすのは、むしろ彼女が好む遊びの一つであった。
その彼女が今。全身を駆け巡るその戦慄に身悶えする。
「美しと……吾を……吾を美しと!!おお……
おおお、おおおおおおおおぅ!!」
それは、寄せては返す海の波のよう。収まると思うとその度に、新たな高まりが襲ってきます。洞の宮の中で体の大半を地に潜らせた蛇神は、右に左に、その狭い
その蛇たちの雨と大渦の中で。姫はただ一人たじろぎもせす、ひざまずきながら静かに、うっとりと夢見るような目でずっと蛇神を見つめ続けているのです。その小柄な体のたたずまい。ですがそれは、大雨の起こした土砂崩れの濁流に、だた一本流されずに残って水面に立つ橋梁のように堅く強く。
そして蛇神は悟るのです。
大波に溺れてしまわないためには、姫にすがるしか無いのだと。
この姫こそが、彼女が長きに渡ってそうと知らずに探し求めてきた、その者であったのでした。
果てしなく続くかとも思われた、蛇神を襲う歓喜の戦慄。だがそれは、彼女が目前の姫に再び目を凝らした瞬間をもって頂点を迎えたようであった。やがて、波が引いていくように震えは消え、そしてあとに残ったのは、蛇神がかつて感じたことのない、穏やかな安堵。
(そうだ……そうだったのだ……いや。
吾にはわかっていた、ただ、認めたくなかっただけなのだ……
苦しかった、ずっと……)
石の卵の中で目を覚ました蛇神が、「自分」という意識をいつ持ったのか。それはあまりにもはるかな遠い過去、彼女自身にとっても忘却の彼方。だが彼女は忘れてはいない。そのはるかな過去からずっと。
彼女を取り巻いてきたのは、人間たちの恐怖と嫌悪。彼女が彼女の生まれながらの姿でいるというただそれだけで、人間たちは彼女を見て、恐れ、嫌った。そして人間達の激しく容赦のない生の感情そのものを自動的に読み取ってしまう彼女の通力は、彼女の存在の絶対否定として、それらを彼女自身の魂に直に突きつけてしまう。彼女はそれを遮ることも防ぐことも出来ない。いかなる刀剣、いかなる弓矢、いや大岩の投擲や落雷ですら傷つかず、一切の苦痛を覚えない、彼女の神秘の「肉体」。だが裏腹に彼女の精神は、「魂」は、実はあまりにも無防備で脆かった。数千年に渡る幾千幾万の人間たちの魂が発する、決して抜けない悪意の毒矢によって、彼女の心は針鼠になっていたのである。
(吾は恐ろしかったのだ……人間の心というものが……だから滅ぼそうとした。だがどこに行っても人間はいる。だから逃げ回った。そうしなければ耐えられなかった……いや……?)
どこに行っても?それは違う。蛇神に活動出来ない場所は無い。地に潜れるのであれば、潜ったままでいればいいではないか。何故、逃げたはずの先々で人間達にその姿をわざわざ現し、返って来る答えがわかっていながら、何故贄の乙女達にあの虚しい問いを問い続けたのか?
そもそも。唐で最後の贄の乙女を嬲り殺したあと、またしても逃げ出した彼女が海にその身を沈めたのは、このままでは永遠に続くであろう恥辱と後悔を避けるため。これからは自ら海の藻屑となって、泡と魚だけを眺めて暮そう、あの時そう思ったからではなかったか?だが、何のあてもなく東に東に泳ぎ進んでいた彼女は、島影と大きな人の巣(それが太宰府の社だったのだ)を海上で見つけた時、姿を現さずにはいられなかった。
(そうだ、人間の目から逃れるためなら……それならばいっそ、元の石の卵に戻ってしまえばいい。何も見えず何も聞こえず、何も感じない元の一塊の岩に。それならどこへ逃げ隠れする必要もない……出来ることなら。
だが、それでは何故、何のために、吾はこの世に生まれたのだ?吾の命には、初めから甲斐が無かったのか?
……悔しかったのだ。それは違うのだと、吾は誰かに認めさせたかった……いるはずのない『誰か』とやらに。そうすれば苦しみが晴れると……ああ!)
それは、叶わない願いであったはずだった。
今、この時までは。
蛇神が喜悦に喘いでいる間、姫はずっと、うっとりとした瞳で蛇神を見つめ続けておりました。そこには確かに、不安の色もありました。でもそれはあまりに蛇神が「苦しそうに」見えたため、つまり蛇神の身を案じてのこと。今や全ての運命を蛇神に委ねきった姫の心にあるものは、平穏と、あこがれ。そしてそれは、生まれたままの赤子のような柔らかな肌を常にむき出しにしていた、それゆえに傷だらけになっていた、蛇神の心に、魂に直に染み入っていったのでした。
「……姫や?」口を開いた蛇神は、自分の声の優しさに驚きます。自分にこんな話し方が出来るなどとは知らなかったのです。
「そなた……名を何と申すのか?吾は蛇たちの耳を通じて聞いていたが、そなたの周りの人ども……人間は、そなたを一度も名前で呼ばなかった。ただ姫、姫と。だいなごんですら。何故であるか?」
真の名前は
「そう、それは
嘘の呪いを誠に変えましょう。私はもうあなたのもの、その証として。蛇神さま、私の名をどうか、お聞き下さいませ。
父、
「桜子……桜……そうか……」
姫の心に浮かぶ、桜が山々に川面にその花びらを散らすその同じ光景を、蛇神はその心の目で見通すと。
「姫や、そなたは言ったな、吾を美しと。そして姫や、そなたは己の今のその身を恥と思っている……そうであるな?」
少し寂しげに、でも素直に、姫がこくりと頷くのを確かめた蛇神は、いっそう穏やかな声で囁いたのでした。
「ならばこの吾が、そなたの恥を隠してやろうぞ。嘘偽りの無い、ただ一つの衣で。しばし待て」
そう言って。蛇神は薄く開いた口の端を、舌でするりと舐めたかと思うと、そこの鱗を一枚、みずから舌で剥ぎ取ったのです。
幾千年も、毛筋一本の傷も受けた事のない蛇神が、初めて味わった「痛み」。ですが今の蛇神には、それは実に甘やかな感覚です。そして蛇神は、剥いだ己の鱗を口の中に収め、その牙で微塵に噛み砕いて。
再びするりと現れた蛇神の舌の上に、小さな鱗のかけらが一枚。蛇神は姫のもとにその鎌首を伸ばしながら、その舌でさらに、おいでおいでと姫をいざないます。姫は恐気なく蛇神の前に。主の意を悟ったのでしょう、行く手を妨げてはならじと、足元で這っていた蛇たちは慌てて左右に別れ、姫の歩みに道を開けます。
今や蛇神のほんの鼻先、手を伸ばせば届くほどに進み出た姫。すると蛇神はその舌を伸ばして、己の鱗のかけらを、赤痣の拡がる姫の右の胸のふくらみの中ほどにひらりと乗せました。
するとどうでしょう。鱗のかけらは姫の肌にぴたと張り付いて、小さな鱗に変わったではありませんか。蛇神の白い鱗のかけらに、姫の痣の赤色が透けるのでしょうか、それはまるでひとひらの桜の花びらのよう。
そうして姫の胸に、腹に、腕に、腰に、腿に、足に、背に。蛇神は次々と鱗を植えていきます。赤痣は桜色に、青い痣は浅葱色に、黒い痣は藍の色となって。全ての鱗のかけらを植え終わった時、姫の体は、一幅の錦の織物のように彩られたのでした。
「……姫よ!そなたは言ったな?この吾を美しと、紅葉を散らした川の流れの様であると……吾は今、その言葉をそなたに返そう!!
今のそなたは、浅葱の空を飾り、深い藍の水面に花散らす、咲き誇る桜のごとし。そなたは……美しい!!」
蛇神の舌に巻抱かれた姫の頬に、玉の涙が伝います。
決して出会うことの無いはずの、春の桜と、秋の紅葉。その天の
ですが、それは……
この続きは、八の巻にあるでしょう。
(続)
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