十三の巻「乙女採り奉る」 (その一)
「衆生被困厄、無量苦逼身、観音妙智力、能救世間苦……」
その日も。蛇神の洞の宮には、姫の誦する観音教の声がころころと涼やかに響いておりました。
すると。
「ああ、姫や……済まぬ、姫の声は実に耳に甘いが、ほとけの言葉は吾にはどうにも難しい。吾はまた眠くなってしまった。不出来な弟子であるな、吾は……」
「よろしいのです」姫は答えて言います。
「御仏の智慧は無上甚深、私達衆生の思い及ぶ所ではございません。もちろん私も。私の習い覚えた経など、大河の川砂のほんの一粒を拾っただけのようなものでございます。そのほんの一粒をすら明らかにお伝え出来ない私こそ、不出来な仏弟子でございましょう。
それよりも。蛇神さまがいつも安らかなお気持ちであらせられること、それが私の望み、御仏もきっとそう思召しでございます。
蛇神さま、どうぞごゆっくりお休み下さいませ……」
「うむ……ではまたな、後でまた、聴かせておくれ……」
そう言うと、蛇神の両の眼と口の中からあの鬼火の灯が消え、体もしんと動かなくなりました。蛇神は眠りに就いたのでした。
以前は決して眠りを知らず、儚い幻の力でかろうじて己の心を休ませるだけだった蛇神。いつから蛇神はこうして本当に眠るようになったのでしょうか。それは、あの恐ろしい戦の後。二人が再び洞の宮に戻ってからというもの、蛇神はこうして日々度々意識を失うようになっていたのでした。そして。そうして命の灯火の消えた蛇神はまるで、ただの石の像のよう。その姿を目の当たりにして、姫の心は実は、不安に震えていたのでした。
(蛇神さまのお体は……お弱りになっていらっしゃるのでは……?)
そう、起きている時も、蛇神の声には以前のような張りがなくなりました。鬼火の輝きも以前よりずっと衰えているように見えます。
(あの時、私のために命の炎の玉をお吐きになって……ご自分の御命を削られた……だから……!)
どうすればよいのでしょう。自分に何か出来ることがあるのでしょうか。姫はあれ以来ずっと、自分一人の胸の内で思い悩んでいたのでした。
そしてそんな時。姫の心には何故か、ある一つの物が思い描かれるのです。
(花……蛇神さまに花をご覧いただきたい……美しい花でお慰めしたい……槌の輔にもお供えしてあげたい……)
花。どこから、どうしてそんな物を求める気持ちが湧いてくるのでしょう?姫自身にも、それは奇妙なことのように思えます。ですが、いぶかりながらも姫はその思いを鎮めることが出来ません。
(花を……ああ、でも……)
ここ洞の宮は深い地の底、そして地上への出口は埋め塞がれています。例え地上近くまで歩いていったとしても、姫の力では外に出ることは出来ません。それは姫自身よくわかっていたはずのこと。
ですがこの日、とうとう。姫は眠りに就いた蛇神を横目に見ながら、地上近くまで上がれるはずの洞の支道を登っていってしまったのでした。
まるで、誰かの声に誘われたように……!
(この先に……ああ、でも……)
長い長い洞を、姫は登って行ったのです。少しでも地上に近づくように、登り坂を選んで。蛇神の眠りに就いた今、洞は暗闇に満たされていましたが、姫の歩みは滑らかで滞ることがありませんでした。どうしてそんなことが出来たのでしょう?そして姫はその時、何故自分が迷わず進めるのか、そのことを道中まるで思い及ぶことが出来なかったのです。
やがてとうとう、洞は行き止まりになりました。姫を阻む土の厚い壁。その先にはあるいは、地上の世界が広がっているのかも知れません。そしてそこには、陽の光の下で、色とりどりに咲く美しい花があるに違いありません。
(でもこれ以上は……この先には……!)
あきらめきれないような、焦がれるような気持で歩み寄り、姫が土の壁に手でそっと触れてみた、その時。
(姫様、姫様?このわしの声が聞こえますか?)
ひそやかな声で、しかし確かに。自分を呼ぶ声が聞こえるではありませんか。
姫は蛇骨婆と猫又に襲われたあの時を思い出して、恐ろしさに身をぎくりと固くしながら、慌てて辺りの闇を見回します。
誰もいません。
(おお姫様、わしの声が届いておりますな?どうぞそのように周りをお探しくださいますな。無駄でございます。わしは姫様、あなたのもっとお傍におりますぞ。
……あなたの御髪の中に)
声が再びそう言ったかと思うと。姫の髪を貫いて飛び出していた大きな数本の蜘蛛の脚がざわざわと動き、そのうちの一本が姫の頬を軽く突いたのです。
「ひい!」喉の奥で声にならない叫びを漏らした姫に、声はさらに。
(やや、これはこれは。申し訳ございません姫様、斯様に驚かれるとは。ご無礼、どうかどうかお許しあれ)
「あなたは……いったい?」
姫はようやく悟ります。その囁きが、耳に聞こえているのではないことに。心の中、頭の中に直に伝わってきているのです。自分の中に他の誰かがいるのです。
(わしは姫様、あなたの御髪の中に住まう蜘蛛にございます。蛍よりお聞きになっておりましょう。かつての日ノ本が妖総大将、土蜘蛛の成れの果てにございます。
……おお!姫様、斯様にわしをお恐れ召されるな!)
あの夜、蛇神との戦に軍を率いて、敗れ去り滅びた土蜘蛛。姫はあの夜、彼自身とは言葉を交わすことも出来ず、その声を知りません。ですが姫はあの恐ろしい刹那を覚えています。自分と蛍、そしてかの土蜘蛛が共に蛇神によって叩き潰された、あの恐ろしい一刹那。
今自分に語り掛ける声なき声がその土蜘蛛のものであると聞かされて、いよいよ身を震わせる姫に。声すなわち土蜘蛛は、なだめてさらに言います。
(どうか姫様、心静かにわしの言葉をお聞き下され。
わしは悔いておるのです。
思えば蛇神様に盾突くなど、余りに無謀、余りに不遜、余りに愚かでございました。滅ぼされるも当然。にもかかわらず。わしはこうして蛇神様のお力と、姫様。あなたのお慈悲によって、こうしてあなたのお体の上で未だ命を繋いでいる。
わしは、わしのしでかしたことのお詫びをさせていただきたい。そして是非とも御恩返しをさせていただきたい。そう思っておるのです。
姫様、どうぞお手をもう一度、その壁に。外までこのわしが掘ってさしあげましょうぞ。何も心配はいりませぬ。わしにお任せ下され、ささ……?)
土蜘蛛の言葉は物柔らかに穏やかに、そしてあくまでへりくだっていました。初めは恐れ慄かされた姫でしたが、その響きに次第に心を許してしまいます。
そして土蜘蛛の奇妙な申し出に、深い疑いも持たずに。
「……手を?壁に?こうですか?」
つ、と差し出した姫の掌、するとどうでしょう、壁に触れてもいないのに。目の前の土石が自然に掻き崩され、姫の体をかすめて背後に吹き飛んでいくのです。たちまち壁面に大きな窪みが生まれると、またしても。
(姫様のお顔お体には土がかからぬようにいたしますゆえ、ご安心くだされ。そのままわしにおまかせを、そして姫様は、どうぞ前にゆっくりお進みあれ)
姫は手を前に差し出したまま、一歩また一歩と進みます。一歩を進めればその分土壁は削られ、壁の窪みはいよいよ深くなり、やがて深い穴となり、新たな洞となっていきます。
姫は知りません。かつて、大百足を伴った土蜘蛛が、そうやって洞の宮に入り込んだということを。あの時と同じことを、土蜘蛛は姫の体を使って行っているのです。そして姫は気付きません。そうしている間に、土蜘蛛の力が姫の体にじわじわと馴染んでいくことに、その危うさに。
(左様。姫様そのままそのまま……わしが姫様を地上にお連れしましょうぞ……そしてわしと一緒に、美しい花を摘みに参りましょうぞ……花を蛇神様に捧げましょうぞ……花を……花を……!)
「花……」
さざ波のような土蜘蛛の妖しい囁き。姫は最早ただ、目くるめくよう。
そして姫の心は、今その身を包む洞の闇より、なおなお暗い闇の中へと落ちていくのでありました……
あの夜と同じく、冷たく光る月の輝きの下。
地上に現れた姫。いやそれは、姫の心を眠らせ体を乗っ取った土蜘蛛。
彼は月を見上げ、不敵に嘯く。
「
(続)
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