一の巻「蟲愛づる姫君」
都大路の東側、
ですがこの姫君は、たいそう変わったお育ちをされていったのです。
お側に仕える女房達などは、今日もささやき合います。
「ねぇあなたも聞いたでしょう ?お隣のお姫さま、来月から宮中にご出仕なされるのですって」
「ええもちろん、知らないはずがないわ。お隣の女房達ったら、みんな自慢たらたらなんですもの。悔しいったらありゃしない」
「お隣の姫様は御身分は申し分なし、御器量もとってもよろしいそうよ……まぁ、お顔のことは隣の女房方の言うことですから !話半分かもしれないけど !」
「でも本当に羨ましいこと。もし
「女御様更衣様と、お引き立てになられるのも夢ではないわよね……」
ああ、と。ここで大納言家の女房たちは、一様にため息をつくのです。
何故御当家の姫君は?人並みのお振る舞いをなされないのか…… ?
そう、大納言家のこの姫は、大変美しい姫君でした。仕える女房達はみな、贔屓目なしでそう思っていたのです。どこの誰と比べても決して見劣りはしない、いや、これほどの姫君はそういるものではない、と。ですが。
それは生まれついたお顔立ちや髪の伸ばしたご様子だけ。この姫君は、年頃だというのに眉も抜かずお歯黒もせず、せっかく伸ばした美しい髪も一向に整えません。着る物はといえば、へんてこな柄の
これでは折角の生まれついての美しさも台無しです。女房達は見かねて、折に触れては度々お諌めしたりもするのですか。
「いつもありがとう、でも、わたしはこれでいいのです。ごめんなさいね」
と、高貴な姫が目下の女房に頭を下げるのです。その様を見れば、もう言うべき言葉も出てきません。
それに。何処の姫君も、なべて奥ゆかしくお暮らしになられたものではございますが、それでも。
ですがこの姫君は、そうしたことにまるでお心を動かさないのです。女房が公達の文を取り継ぎさせていただいても、ご自分にはまるで関わりの無い、遠い国の話でも聞いているような虚しいお顔の色。姫君はいつも女房達に言うのです。
「文のことはいつもどおり、あなた達でよしなに。いづれのお方にも、ご無礼だけはないように、父上様のお顔に関わりますから。
ただ、きちんとお断りしてください。それだけはよろしくお願いしますね」
と、言葉丁寧に頼まれては、仕える女房としてはまたもや返す言葉もありません。
ことに。そうした時の姫君の、何故かとても寂しそうなお顔を見れば……
もしや、姫君には胸に秘めた思い人がいらっしゃるのでは?そう思う女房もいたのですが、ところが、どうもそれも違う。もっと深刻なことのようなのです。
舞い込む文の中には、浮気なものも多かったのですが、時にはかなり本気の、正式な結婚の申し入れなどもありました。無視できないようなやんごとないご身分の方からも。女房達はこれは自分達の一存ではとても、と、そんな時は父大納言様に奏上するのでしたが、今度は大納言様が。
「姫も自分でわかっている。あれはこの世にあって甲斐なき身の上、尼にするしかないのだ……お断りする。この返事はいつも通り、柏木に任せよ」
と。これまた例えようもない悲しげな、そして苦い苦いお顔で言うのです。とてもとても、訳をお尋ねすることなど出来ません。
「柏木」なる女房はこの館で一番の古株で、かつては姫の乳母も任されたことがある者。今でも姫の一番のお側周りに常に扈従し、姫への文の返事の代筆で難しいものは、この者がいつも書いていたのでした。
若い女房などは、もちろん大納言様のお言葉がどうにも腑に落ちません。あんなに慈しんでいらっしゃる姫君の事をなぜ、と。あるいは柏木に聞けばわかるのではと尋ねてみると、今度は木で鼻を括ったようなそっけない、そして厳しい返事。
「いけません。あなた達、そんな余計な詮索はしないように。ご当家にお勤めを続けたいのなら…… !」と、まるで脅かすような口ぶりなのです。そして、
「当家の姫様には姫様なりの、お考えもお気持ちもあるのです。他所様と比べてはなりません。何事も姫様のお求めのままに。大納言様も奥様もそれを望んでおられるのですから……」
でも、そう言う柏木の顔つきが、また奇妙なのです。自分でそう言っておきながら、内心口惜しくて堪らないような。それはそうでしょう。幼い姫君を乳飲み児の頃から手塩にかけてお育て申し上げたのが、他ならぬ彼女なのですから。美しくお育ちになった姫君を、本当なら誰よりも自慢したいに決まっているではありませんか。
それが、なぜ…… ?
女房達にはどうしてもわかりません。中には気味悪く思う者もいました。大納言様の「この世にあって甲斐なき身の上」とは、滅多なお言葉ではありません。そして、姫は「尼にするしかない」のだと……姫の秘密、それはいかにも不吉な、縁起の悪いことなのかも。けれど、それでこのお屋敷のお勤めをやめたいと思う女房は一人もいませんでした。当の姫君のおだやかで優しいお人柄が、可憐なお顔が、寂しげな態度が。彼女達を、姫君の下から去りがたくしているのです。
ただ、一つだけ。たった一つだけ。
女房達には心当たりがありました。それが姫の秘密とどう結びつくのか、上手く説明できる者はいなかったのですが。
でもきっと、あれしかない。
大納言家のこの姫君は、とてもとても奇妙な物をお好みになられるのです。
当たり前の姫君とはとても思えない、女房達には薄気味悪くてたまらない、これだけは我慢のならない、その奇妙な好みと習慣……
今日もまた、姫君は母屋を出て簀子までお出ましです。何やら心待ちげに。すると、前栽の植え込みの間から、汚らしい男の童がガサガサと現れました。
「姫様、今日はこんな毛虫をお持ちしましたよ !」
そう、男の童が姫に差し出したのは、木の枝にとまって葉をもぐもぐと食べている、大きな毛虫でした。
「いつもありがとう。ああ、これはとても太った立派なかはむし(かわむし、毛虫のこと)ですね」
そう言って。姫は枝を受け取ると、にこやかに微笑んで、いかにも愛らしげにその醜い虫を眺めるのです。右に左に持つ手を代え、あるいは上から蠢く虫の背を眺め、あるいは高く掲げて下から、虫の腹と沢山の足を覗き上げて。その様は、普段の少し打ち沈んだご様子の姫にない、本当に無邪気なお喜びのお顔。
ひとしきりそうして毛虫とお戯れになると、姫君は待っている男の童にその枝を返して。
「さあ、これを。元いた木の枝に返して来て下さい。そおっとね。決して傷つけてはなりませんよ。この子はきっと、美しい蝶に、でなければ、毛並みの温かな蛾になるのですから。お願いしますね」
と。賤しい身分の、本当なら高貴な姫君に近づくことも許されないはずのそんな男の童に、姫君は念ごろに頭を下げるのです。
「わかりました」
男の童も畏れげもなくズケズケと姫君に、まるで友達同士のように直に言います。
「そうだ、さっきけら麻呂が、大きなゲジを捕まえたって言ってました。もうすぐこちらにお持ちすると思いますよ」
「まあ !」それは楽しみ、と。姫君はうっとりとした顔で答えるのです……
人の噂に戸は立てられないもの。
按察使の大納言の姫君は、いつしか都人にこう呼ばれるようになりました。
「蟲愛づる姫君」と。
こうして、この姫君は仕える女房達を思い煩わせながらも、ご自分お一人の世界の中で、様々の虫達とのどやかにお戯れになるお暮らしだったのです。
はるか西の国から、海を越えて。
都にかの者がやってくる、その日までは…… !
この続きは、二の巻にあるでしょう。
(続)
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