逆理桜紅葉(さくらともみじ さかさのことわり)

おどぅ~ん

序の巻「八百比丘尼の庵」

 古都を見下ろすその山の中腹、静かな森の中に、その庵はある。

 一人の比丘尼が住んでいるという。

 だがその存在は、麓の村の僅かな人数の古老にかろうじて知られているだけ。その庵は山頂までの登山道からはまるでそれた場所にあり、しかも脇道どころか獣道一本通じているわけでもなかった。無論、電気や水道のような文明的なライフラインも通じておらず、一切の通信手段も無いという。さらに、麓の寺社とはいずことも縁もゆかりもなく、したがって檀家や信徒などというものは一人も存在しない。個人的な付き合いでの寄進のようなものすら、少なくとも何十年も縁が無いらしい。

 その尼がそこで暮らしているとして、彼女は何故、そしてどうやってその庵で暮らしているのか。それに至っては、古老達も誰も知らない。

 そも、彼女はいつからその庵に?

 彼らが知り得ているのはただわずか。庵の主人の名「寂桜じゃくおう」。そして彼らは言う。

「寂桜様は、八百比丘尼でいらっしゃる……」


 その夜。登山服に身を固めた一人の中年の女が、うっそうと生い茂る木々と草むらを搔き分けながら、その山の急な斜面を登ってゆく。女の息はすでにはなはだ荒く、服は泥にまみれている。おそらく何度も足を滑らせ、転倒したのであろう。しかし、女は決して怯む様子を見せない。それどころか、歯を食いしばり決死の形相。邪魔するものは噛み殺す、そんな鬼気すら感じられる。

「もうこれしかない……これしかないの……比丘尼様におすがりするしか !!」

 そう、彼女が目指すのは、寂桜の庵。


「あなたは誰かの命を救いたい、そのために私に会いに来た。そうですね ?」

 知らなければ、そこに人が住んでいようなどとは誰も思わないだろう。木で葺いた穴だらけの屋根を半ば朽ちて傾いた柱が辛うじて支え、周囲の板壁はまるでただ立てかけただけのよう。漏れた月の光があちこちから遠慮なく照らす床もひどく朽ちており、下草が顔を出しているさまは、室外の森と大差ない。

 そこに最前の登山服の女が平伏し、月光の中に立つ、その比丘尼に額づいていた。

 すなわち、寂桜。

「その通りでございます !どうか、どうか比丘尼様のお力で、娘の命を !!」

 女の娘は、治療法の無い難病で何年も闘病していたという。

「今までどうにかお医者様に命を繋いでいただいたものの、ここ三月程で急に……とうとう先生方もさじを投げられて……あと一週間と……

 私には比丘尼様、もうあなたしか、あなたのお力をお頼みするしかないのです !!ああ、どうか、どうか……」

 床にぬかずいたまま涙ながらに訴える女を見下ろしながら、寂桜は降り注ぐ月光の中、静かに佇んでいる。頭巾に包まれたその容貌は、真夜中であっても克明。

 驚くほど、若い。

 濁りなく澄んだ瞳、張りのある頬、つややかな唇。おそらく二十歳にも届くまい。

「山中に一人ひっそり住まう比丘尼」と言われて、誰もが思い描くような人物とはおよそかけ離れた若い「娘」だ。

「あなたがどこで、誰から私のことを聞いたのか。それは伺いません……」

 容貌に相応しい、むしろやや幼さすら感じる、鈴虫の鳴くような声。だが一方、その口調は冷徹。人の営みに関心をまるで持たない、それはやはり虫の鳴く声のよう。

「ですが、わかっていますね ?

 私に私に誰かの命を救うことを求めるということは、つまり。あなたの命を代わりに差し出すということ……それは聞いて来ましたね ?」

「知っています !寂桜様、あなたは『八百比丘尼』、覚悟の上でございます !」

 八百比丘尼・寂桜。人の命を吸い続け、不死身の化生となった破戒比丘尼。だが彼女に命を捧げた者は、どんな願いでも一つ叶えられる。

 女はそう聞かされていた。寂桜はこの山深い庵に一人隠れ住んでいる、そしてただ一人で、月夜に庵を訪わなければ姿を現さない、そうとも聞いていた。

 なればこそ女一人、真夜中をおしてここまで来たのである。娘の命を救うため、寂桜に向き直ってそうきっぱりと言い切った女。目の当たりにした、寂桜の異様な若さと、それと対照的な人間離れしたふるまいと雰囲気。あきらかに人外の存在たる眼前の比丘尼に対して、しかし女はいささかも怯んではいなかった。かえって自らも共に鬼になるかのような気迫。

「いいでしょう。ならば、術を施します」

 寂桜は懐中に手を入れ、何かを取り出した。丸く磨き上げられた、石の白い玉。掌にちょうど乗るほどの大きさだ。寂桜はそれを、女に差し出した。

「お取りなさい。そしてもう一度、その珠に向かって念じるのです。

 ——あなたの娘の命の代償として、この珠にあなたの命を捧げる、と」

 その恐るべき宣告を、寂桜は眉一つうごかさず、静かに言い放つ。

 女はギクリと体を震わせたが、しかし躊躇は一瞬だった。寂桜の手から、もぎ取るように珠を奪うと、両手でそれを掴み、胸に抱く。

「あの子は父親の顔を知らない……生まれたばかりであの人は死んだ…それから女手一つで……つらいことも多かったけれど、あの子がいたから私も生きてこれた……あの子は私の命、あの子がいなかったら、私は生きていても意味が無い……

 寂桜様 !御約束でございますよ !必ず !あの子を !さあ、お取りください、私の命を !!」

 石の珠を赤子の様にかき抱き、女が叫ぶ。

 突然、そして一瞬、女の手の中で石の珠が熱を帯び、輝きを放ったかと思うと !

 白石の珠が粉々に砕けた。

「あああ !」

 女の悲鳴。もしや寂桜の術は失敗であったか、自分の祈りは届かなかったのか ?

 嘆きのこもった悲痛な訴え顔で、女が寂桜に向き直ると。

「それでよいのです」

 寂桜の言葉はあくまで静かで、秋の虫のような響きも変わらない。だが、最前とは明らかに違う、女へのいたわりのこもった口調と、顔色。

「あなたは娘のために命を捨てた、そしてその珠は、そのあなたの身代わりとなって砕けたのです。これで救われました。あなたの娘も、そしてあなたも」

 女ははたと気付いた。

「では、寂桜様、あなたは最初から…… ?」

 寂桜の顔に浮かぶ、穏やかな微笑み。

「私がお助けした方々は、皆うっかりしているのです。もし私が願い人の命を取るのだとしたら、一体誰が私のことを次の方に伝えたと言うのでしょう ?皆、一人で会いに来るのに ?でも、それはもっともなことですね。皆、大切な人の命を救うために私の元に訪れるのですから。そんな小さな疑いや迷いは消し飛んでいた……それでよかったのです。

 私の術は、私の力が重要なのではありません。肝心なのは、願い人が心の底から誰かのために命をすてる、その覚悟。それが無ければ術は決して叶わない。いわば、願い人の心を試す術。

 もしあなたが先程、私に対して疑いを抱いたり、自分の命が惜しくなって嘘をついたりしていたなら。珠は砕けず、あなたも命を捨てることはなかった、けれどそのかわり、あなたの願いは叶わなかったでしょう。

 そうです。皆、先程のあなたと同じように珠を砕いて自分の命を救ったのです。

 そして大切な方の命も。誠の真心の力で。

 ……よくお聞きなさい」

 寂桜の噛んで含めるような言葉は、深い慈悲に満ちていた。

「ですからあなたも。私のことは滅多に人に伝えないように。心の弱い者が私に頼ろうとしても、失望させるだけです。ですがもし、あなたが『この人なら』と見込んだならば。

 あなたがそう聞いたように、私のことは『人の命を奪う外道破戒の悪比丘尼』と伝えるのです。珠の力で自分も助かると先に知っていては、術を叶えるのに必要な覚悟が消えてしまう。それでは何にもならない。そうでしょう?」

「ああ、寂桜様、あなたは……人を救うために、そうして汚名をみずから背負われて……有難い……ありがとうございます、ありがとうございます !」

 女は思わず合掌して、寂桜を仰ぎ見た。すると、寂桜は今度は物寂しげに。

「汚名ではありません。それは私に相応しいのです。私は遥か昔、大きな大きな、普通の人の一生をかけても到底償えない罪を犯しました。それを、御仏の慈悲によって、人を救うことで自分の罪を償うための時を、命を与えられた……

 私にも、あなたと同じように、命がけの『願』があります。あなたとあなたの娘を救うことで、私もまた一歩、満願成就に近づけた。あなたの真心に私も救われたのです……『あの方』も……ありがとう……」

「寂桜様…… ?」

「さあ、山を降りて娘の元に帰りなさい。きっとよい知らせがあるでしょう。

 ただしもう一つ。山道は降りの方がはるかに危ういもの、まして今は夜。あなたがここで怪我をしたら何にもならない。今ははやる気持ちを抑えて……心の強いあなたなら、それも決して難しいことではないはず。この山を無事に降りること、あなたの無事な姿を娘に見せること、それが、あなたの娘の命を救うための最後の試練。そう思って気持ちを引き締めなさい。いいですね ?」

「はい !寂桜様、本当にありがとうございました !」

 寂桜のいたわり深い言葉に、もう一度深々と平伏した女であったが、しかし。

「……えっ ?!……寂桜……様……」

 女が顔を上げた時、寂桜の姿は幻のように音も無くかき消えていた。女はしばしそのまま、呆然と跪く。荒れ果てた庵には、ただ月光が降り注ぎ、草だらけの床を照らすのみ。


 八百比丘尼寂桜。そも、彼女はどうして、いつからこの庵に……それは。

 いまはむかし、いづれのみかどのおんときか——

(続)

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