あなたのいうとおり
東海修
第1章 4月前編
第0話 4月1日 月 和泉文香の視点1
光(ひかり)の入学式の日、いつも通り母と家を出て水原医院へと向かう。水原光は、薬剤師である母の勤務先の子で、今の私とは家庭教師と生徒の間柄である。小さな頃から母の勤務中、医院の3階にあるあの子の自宅へ通っていた。成長するにつれて、朝から一緒に朝食を食べ、また夜に夕食を済ませて自宅に戻るこの生活は母の雇用関係に関わらず、だいぶ一般的ではないという認識を覚え始めたが、それでもこの習慣が変わることはない。光の母の紫音さんと私の母が幼馴染の元同級生ということくらいは聞いたことがあるが、それ以上に母が語ることはないので、踏み込まない私は日課を繰り返すだけである。
3分も歩かずに目的地に到着すると、母と共に勝手知ったるという様に医院の裏口を合鍵で開けて3階に上がって行く。別の鍵で水原家の自宅にお邪魔して、リビングで最初に目に入ったのは紫音さんに長い白銀の髪をヘアブラシで梳かされている眠そうな光だった。
「高校入学おめでとうございます、光さん。制服姿も、とてもよく似合っていますよ。」
「おはよう文音さん、ありがとう。」
挨拶を交わす母をよそに、リビングの入り口に数秒間立ち尽くしている私を発見した光は少し悪戯っぽく尋ねてきた。
「おはよう文香さん。どうかな?可愛い?」
「おはようございます。制服、よく似合っていますよ。」
素直に光が求める言葉をあげたら、しばらくの間調子に乗りそうなのであえて躱す。そんな私を見て光は満足げな顔をする。私が照れ隠しをしたと勝手に解釈していそうで微妙な気持ちになるが、否定しても泥沼に沈む未来しか見えないので何となくスマホを向けてシャッターを切る。
「記録に残したいくらい可愛いかー。」
「あなたを撮るのは必要なことなので。」
そっか、と興味なさげに視線を明後日の方に向ける光は、そのまま紫音さんに頭を預けていた。
朝食を終えて身支度を済ませ、私達2人を見送る大人と挨拶を交わして玄関へ向かう。
「行ってきまーす。」
年相応の15歳に相応しい挨拶をする隣の光を見て、少し安心感を覚える。
「新しいローファーですね。」
靴を履くのを確認して、するりとこぼれた言葉にしまったと思った瞬間、光の口角が昨今1番の角度で上がるのを感じた。
「よく気が付いたね。」
「何となくですよ。」
自らの動揺を隠す為に短く返す。こちらの目をじっと見つめてくる光に心を読まれないように無表情を貫くだけだ。
「文香さんの目は何も読めないよ。だって秘め事を読ませないように必死だもんね。」
幼さで油断を誘い、急にこちらの心臓を優しく撫でてくる。紫音さん、この子の姉といい、光も例に漏れずこの一家は本当にこんな人ばかりだ。実は母も同じ様に紫音さんの手の平の上で転がされているのではないかという変な妄想をしていたら、裏口の扉の外で手を掴まれて意識を戻される。
「からかったお詫びね。」
そう言うと光は私の手を引き、自らの太ももの外側を、下から上へと這わせた。ストッキングの上を滑る私の手は卸たてのスカートの端を持ち上げ、遂には際どいラインが露わになりそうになる。無表情のまま静止する私を見て、光はスルリと手を離して脇を通り歩き始めた。
「高校生相手にいけないんだー。」
うるさいくらいに鳴る心臓を無視して、本当に可愛くない男の子の後を追う。
「あなたには別途教育の機会が必要かもしれません。」
「保健体育とか?」
冗談を抜かす光はふと尋ねてくる。
「そういえば文香さんて、何で私のこと"あなた"って呼ぶの?小学生の途中くらいまで光って名前で呼んでなかった?」
いきなり随分と昔の話を蒸し返す光に、用意しておいた回答を伝える。
「もう昔のことです。忘れてしまいました。」
可愛い可愛いと周りからもてはやされ、次第に私より女らしくなっていく光を呼び捨てにしていたら、年上とか関係無く私の方が旦那の様になってしまう気がした。"あなた"という言葉も便利で気に入っている。6歳も年下の、今日高校生になったばかりの子に、こんなことを知られる訳にはいかない。
「ふーん。」
納得したのか否か、適当な返事をして私の隣を歩く光は今日も可愛いかった。
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