悪魔の門番

 気が付けば、彼女は馬車のなかで揺られていた。


 手足を縛られ、身動き一つすらもまともに取れない。辺りが真っ暗で何も見えず、おまけにとてつもなく狭いその空間は、どうやら後ろの方の荷台であると予想された。


 彼女が縄をほどこうと身をよじると、よほどきつく縛られているのか、縄が食い込んで、骨がきしむ感覚がした。


「だから言っただろう? 伯父は援軍を送ってくれると」


 壁を挟んだ向かい側で、何やら話し声が聞こえる。

 よく耳を澄ませてみると、それはサヘラベートと、重役と思われる側近の声だと分かった。


「さすがはサヘラベート家を継ぐ方ですな! 我々には到底できないことをやってのける!」


 声がくぐもっているものの、よほど上機嫌に話しているようで、薄い馬車の壁越しでも、会話の内容はよく聞き取ることができた。


「なに、大したことではない。俺は貴族なのだからな」

「しかし、意外でしたな。伯爵夫人にあそこまで思い入れなさっていたとは」


「はっ…馬鹿者。俺がいつ、あの女を好いていると言ったんだ。」


「は? いやしかし、先ほどはあれほど激高されていたではありませんか」

「名演技だろう?」

「なんと!」


「誰があんな高慢ちきな女を愛すと思っているんだ。俺はあの女の財産と身分にしか興味はない。しかし、もし俺が、愛する人のために立ち上がり、悪名名高き家から取り返したとなったら、どうなると思う?」


「ははあ、支持率がうなぎ上りになりましょうな!」

「そうだ。それに、これを口実に色々と策略できそうだ。あわよくば、伯爵家を乗っ取ることが出来るかもしれない。一石二鳥だな!」


 ハハハ、と下卑た笑い声が響く。


 なんという卑劣な考えを持つ人だと、彼女は眉をひそめた。


 なんて馬鹿らしい。なんて汚らしい。そんなことを思わずには、いられなかった。


 そうとでも思わなければ、ラムールから自分に向けられた言葉に、疑念を持ってしまうからだ。


 彼女の不安はどんどんと膨らんでしまう。しかし、それを見ないようにするように、自分でそう選択したのだ。


 そんなことにさいなまれていると。



 突然に、衝撃が伝わった。


 グラグラと揺れて、馬がうるさく鳴く声と、恐らく御者である人物の悲鳴が耳につんざく。


「何事だ!」


 サヘラベートが焦ったように叫んだ。馬車は今もなお、揺れ続けている。


「まさか、天災か!」

「いえ……違うようですぞ!」


 何やら、犬のような唸り声や鳴き声が聞こえてくる。どこかで遠吠えも響いているようだった。


 グラグラと揺れていた馬車は、一瞬の大きな揺れの後、シンと動かなくなった。


 それと同時に、馬車の扉が開く。


 鉄のような悪臭と、獣の匂いが入り混じった空気が、室内に入ってきた。


「サヘラベート様!」


 兵士の声だ。


「ご無事でございますか!」

「ああ、何とかな…。一体何事だ?」

「狼で御座います。この森には、何匹もの狼が巣食っているらしいのです!」

「狼だと? ここはフランツブルグの領地内だろうが! まさか自分の屋敷の周りに狼を放ったというのか、あの悪魔は!」


 それに応えるかのように、どこかで遠吠えが響いた。


 久しぶりに見つけた獲物を捕獲しろと命令せんばかりに、それは長く遠く続いている。


「仕方がない。このまま引き下がっては俺の面目が丸つぶれだ。狼を蹴散らしながら行け」

「しかし、相手は何十匹も隠れているのですぞ! 霧もかかって禄に前も見えないのに、無茶です!」

「ええい、うるさい! 伯父の援軍もあるのだ、畜生ごときに音を上げるでないわ!」

「しかし…」

「それ以上口答えしてみろ、首が飛ぶどころでは済まなくなるぞ。…分かったら早く突破しろ! 最悪、俺と生贄さえ生きていればそれでいい!」


 そう怒鳴って、荒々しく扉を閉めた。


 そこからは、まさに地獄のような音が響いていた。

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