宿怨の彼方に
やらずの
宿怨の彼方に(前)
最後の蝋燭が、ふつと消えるのを感じた。
全身を苛み続けてきた激痛のせいで、もう手足の感覚はない。か細い呼吸さえ阻むように咳き込み、手で掬えそうなほどの血を吐いた。霞んだ視界にただ映っているだけの鈍い灰色の空間は、天井の一部が崩落していて、その穴からは黄金色の光が差し込んでいた。死がすぐそこに迫っていた。
だが後悔はない。やれることの全てをやり遂げた。たとえそれが人々がようやくの思いで手に入れた平和を唾棄するような行いだとしても、仏の御心に背くような選択だとしても、構わなかった。妻は怒るだろう。娘たちは泣くだろう。だが屍同然に生き永らえた人生の終わりとして、これ以上の充足感は存在しなかった。
死がすぐそこに迫っている。まぶたはだんだんと重くなり、視界は白く霞んでいく。身体のあちこちでゆっくりと、細胞が生きることを止めていくようだった。
死が追いついてくる。静かに閉じた目は、もう決して開くことはない。
†
東の空が明るくなるころ、スラジ・ラバンタリは目を覚ます。粉塵と土埃に晒され続けている喉はざらついていて、息を吸うごとにヤスリで擦るような痛みが走る。咳き込むと黒ずんだ血が吐き出されて、手のひらから滴ったおぞましい雫は地面を汚した。死期が近いのだろう。こんなところでこんな生活をしていれば当然なのかもしれない。だがスラジからしてみれば、全てを失ったあのとき既にスラジは死んだも同然だった。
崩れた壁の隙間から外に出る。昨日の夜まで降り続けていた長雨のおかげで、道のあちこちには水たまりができている。スラジは泥水を木の皮ですくい、ひしゃげた煤だらけの鍋に注いでいく。そして汲んだ泥水を使い古した布を使って何度も何度も濾していく。それは齢七〇を超えるスラジにとってとてつもない重労働だった。泥水が僅かに透き通るころには、東の空にあったはずの太陽は頭上高くへと昇っていた。
スラジはまだ薄く土の色と臭いのする水をプラスチックのカップに注いで口へ運ぶ。カップの水面に映り込んだ自分の顔は黒ずんで痩せこけ、灰色に汚れた無精ひげに覆われ、それはもうひどいものだったが、もう誰に見られることもないのだから、気にしたところで意味のないことだった。
ネパール東部。今はもう地図から消え、名前すら失った廃村に、スラジはたった一人で暮らし続けている。村の名前はもはやスラジの記憶にしかないが、もう思い出すことは叶わない。
村は――スラジの数えている冬の終わりの雪解けの数があっているならば――二五年前に内戦によって滅びた。政府と
正直なところスラジにはどうでもいいことだった。父は農民で、祖父も農民。スラジも当然のように農民として育てられ、物心ついたときから両親の仕事を手伝った。本格的に家業を継いで間もなく、二一のときに村の幼馴染の娘と結婚し、三〇までに二人の息子と一人の娘に恵まれた。生活は決して豊かではなかったが幸せだった。
やがて息子たちが成人し、村を離れて暮らし始めたころ、マオイストの理論的指導者だったバーブラーム・バッタライによる四〇ヶ条の要求が首相によって拒否されたことを引き金に、各地で警察の詰め所や銀行が襲撃される事件が起きた。とはいえまだそれらは、スラジにとって自分たちとは無関係な、遠い街での悲劇に過ぎなかった。武装したマオイストたちが村を出入りするようになってさえ、その感覚は変わらない。だがスラジが築いてきたささやかな幸せは、癌が皮膚の内側で着実に命を蝕んでいるのと同じように、揺らぎ崩れ去ろうとしていたのだった。
スラジは水を飲み干して、それからヤギの燻製肉を食らう。もうまともに狩りをする体力のないスラジにとって、燻製肉まだ身体が十全に動くときに貯蓄した貴重な栄養源だ。しかしこれを食べ切るのが先か、それともスラジが死ぬのが先かは分からない。
食事を終えたスラジは日課の散歩へと出かける。村の外れにある丘からは、村の様子とその向こうにそびえるエベレストが一望できるのだ。
緩やかな勾配をたっぷりと時間をかけて登り切り、枯草が積もる地面から突き出した小さな岩の上に腰を下ろす。この岩を上から見ると、星のかたちをしているのだと教えてくれたのは娘のサムジャナがまだ四歳のときだった。スラジは家族みんなでここからの景色を眺めている時間が好きだった。けれどもう家族はおらず、豊かな緑と澄んだ青に満ちていた風景も見る影はない。
切り開かれた森に、踏み荒らされた畑。乾いた風は家族や村人と過ごした思い出さえも攫っていくように、冷たく吹き荒んでいる。建物はどれも崩れるか潰れるかしていて、大地は滲み込んだ血でほんのりと赤く見えた。
内戦の被害を受け、先祖何代にもわたって耕してきた大地は死に、村人も死んだ。生き残った何人かはもうこの地には住めないと嘆き、村を出て行った。スラジは最後の一人になってなお、この廃村に残り続けた。
たとえ誰もいなくても、豊かな風景が失われても、凄惨な内戦の記憶が焼き付いていても、この村だけがスラジの故郷だ。祖父よりもはるか昔の先祖から、ずっとこの地を耕してきたのだ。スラジは生まれてから一度も村を出たことも、出ようと思ったこともない。スラジにとってこの村は自分の身体も同然だった。
野草を摘み、木の実を拾って村へ戻る。かつてはスラジの家を満たしていた家族と過ごす幸福は、今や積もった埃に覆い隠されてしまって二度と手に入れることができない。
扉に手を掛けて、スラジは動きを止めた。ぬかるんだ地面に見つけた自分のものではない足跡に、警戒心を研ぎ澄ませる。
村から出たことがなく元より閉鎖的だったスラジの性分は、マオイストという外の人間を招き入れたことで起きた悲劇をきっかけにして、より強固なものになっている。
もちろん記録上は存在しないはずの廃村に人間の出入りがあるはずもない。だからこんな気分は実に二五年ぶりだった。
しかしスラジがいくら警戒しようと、村には風が吹くだけで人間の気配はなかった。今一度足跡を確認したスラジは、足跡がひん曲がってポストの前で折り返していることに気が付いて、これもやっぱり二五年ぶりに、ポストの中身を確認した。
なかには一通の黒い封筒があった。
蜘蛛の巣を払い、枯れ葉を掻き出し、スラジは封筒を手に取って、そしてやはり周囲に睨みを利かせる。宛名や差出人は書かれていないが、そもそも存在しないはずの廃村の、生きているかどうかも分からない老人に手紙が届けられるはずがない。もし可能性があるとすれば、それは内戦を生き残り、村を出て行った誰かなのだろうが、スラジに心当たりはなかった。
スラジは手に汗をかいていた。心臓はにわかに脈打ち、寿命の短い身体を突き破らんと血を巡らせる。この黒い封筒は、漫然と過ごすだけで変化のなかった二五年の日々に、唐突に投げ込まれて波紋を広げる石の
スラジは血のように鮮やかな赤色の封蝋を破って中身を取り出す。肉が削ぎ落ち皺だらけになった指が微かに震えていた。
中身は一枚の便箋と六枚の写真だった。タイプライターで打ち込んだらしい黒い文字が印字されている。足跡は単なる郵便配達員だったのかもしれない。辛うじて辛うじて文字の読めるスラジは年のせいで見づらくなって眇めた目を便箋に落とした。
書かれていたことは簡潔だった。村を襲った国王ネパール軍に所属していた軍人の名前が四人、現在の住所とともに記されている。写真はそれぞれの二五年前と現在を写したもので、一人分足りなかったが、そんな些細なことはどうでもよかった。
ぐしゃり、とスラジは便箋を握り潰す。力のなかった震えに、今は激情が漲っていた。
あの惨劇を、一日だって忘れたことはない。娘の悲鳴を、妻の亡骸を、孫娘の涙を、夢に見なかったことはない。見ないふりをしていただけなのだ。胸のうちに滾る黒い憎しみも、二五年間ずっと、そこにあったのだ。
スラジは咽る。感情が昂ったせいか、いつもより激しく咳き込み、喉と肺が焼けるような痛みを走らせる。込み上げた熱は血となって喉を逆流し、もはや心臓を雑巾さながらに絞ったのではないかと思うほどに吐き出した。スラジは腰を折り、膝をつく。吐き出す血は止まらず、赤の滲みた地面に倒れ込む。目に入ったのは、手から離れた便箋の、その末尾に書かれたメッセージ。
〝一瞬の幸福には復讐を 永遠の幸福には赦しを〟
生い先短いこの命に、永遠の幸福などは存在しない。
自分の身体のことだ。自分が一番よく分かっている。老いと病はスラジの身体の隅々にまで根を張り、とっくに擦り切れた命を無慈悲に吸い上げている。永遠なんて存在しない。スラジが死ねば、スラジも、村も、全てが世界から忘れ去られるのだ。
今更それについてとやかく言うつもりはない。この世のあまねくはいつか朽ちる。それは不変の真理で、永遠は人が見た夢に過ぎない。だからこそ重要なのは、終わり方なのだろう。スラジは苦しさに喘ぐなかで、そんな哲学的思索を巡らせる。
死の間際になって、全てを奪われるなかで唯一残った命さえも潰えていくなかで、スラジは一つの答えを知る。
手を伸ばす。差出人不明の手紙を掴む。その先に一瞬の幸せが転がっている。
†
ずっとスラジの心は憎しみで満たされていたのだろう。表面張力によってこぼれずに保たれていたコップの水が、ほんの些細な衝撃で溢れてしまうように、進むべき道を見定めたスラジの行動は、廃村の老爺とは思えぬほどに迅速だった。
使わなくなって久しい猟銃を引っ張り出す。元は第一次世界大戦に従軍経験のあったらしい祖父のもので、実際に触るのは初めてだった。手探りで弾を込め、外に出る。十数メートル離れた壁に向けて引き金を引く。骨に響く発砲音。衝撃で腕は痺れ、肘や肩関節が殴られたように痛む。肝心の弾は散弾だったにも関わらず狙いを大きく外れて、数メートルは右に離れた小屋に当たっていた。
とはいえスラジが落胆するようなことはなかった。距離を取って狙い撃つような芸当はできない。至近距離で近づく必要がある。そんな風に、まるで農作物を大きく育てるために試行錯誤を繰り返していた昔のように、状況を整理して現状を最良に近づけるための思考を巡らせていた。
出立までに要した時間はたったの二日だった。使わなくなってからほったらかしていたネパールルピーを籠から鞄へと移し替え、燻製肉や木の実の残りを袋へと詰める。スラジにはとにかく時間がない。吐き出す血の量は徐々に増えていたし、その色ももう赤というよりはほとんど黒かった。最後まで成し遂げることができるだろうか。生きることへの執着などとっくに捨てたはずなのに、スラジは今になって死が恐ろしいものに思えていた。だが同時に、死が目前まで迫っているという感覚が、良くも悪くもスラジの心から迷いを取り去っていた。手紙に書かれた四人に報いを与える。ただそれだけを目的に、スラジの心臓は鼓動を続けていた。
夜が明けて、スラジは村を回った。父から継いだ小麦畑。子供たちが遊びまわっていた村中心部の広場。何か困ったことがあるとよく訪ねた小さな寺院。妻ニーラムと初めてキスをした菩提樹の木陰。三人の子供と孫娘を取り上げてくれた村で唯一の産婆が住んでいた小屋。スラジはひとつ歩くたびによみがえる思い出を、ひとつひとつ丁寧に胸に抱いていった。そしてそのたびに問いかける。この平穏を、この幸せを奪い去って踏み躙ったのは一体誰なのかと。
最後に自分の家へと戻り、まとめていた荷物を背負って村を発った。呼び起こされた村の記憶のすべてを背負って、スラジは黙々と山を下った。
まず目指すのはパナウティ。歴史的に価値があるらしいネワール建築が多く、観光客よりも学者などに人気がある小さな町らしい。手紙の四人のうち一番上に名前のあったラフール・カルキはこのパナウティの外れで隠居生活を営んでいると記されていた。
ラフール・カルキは二五年前、王室ネパール軍に中尉として属し、スラジの暮らす村へ潜伏するマオイストを殲滅しにやってきた。当初は匿っているマオイストを差し出すよう穏便な態度を示す王室ネパール軍だったが、カルキの指示を受けた一部隊が村民に発砲。それを号令に全ての村民をマオイストと断定し、理不尽で容赦ない虐殺が始まったのだ。
寺院の前に集められ、マオイストなどいないと訴える村長たちに向け、カルキたちは銃弾をお見舞いした。濃密に込み上げた血と硝煙の混ざった臭いを、スラジは今でも覚えている。
友人だったウダブも、酒を飲んでは暴れるので皆が迷惑していたサンジャイも、ニーラムの姉であるアスミタも、その夫であるチャンドラも、みんなそのときに殺された。畑仕事を終えてスラジが来たときにはもう遅かった。死体のほとんどは背中を撃たれていて、銃口に怯えて逃げたのだと分かった。誰一人として抵抗などしなかったのに、それでもカルキたちは村民に銃弾を放ったのだ。
目的のパナウティまで、何本もバスを乗り継いだ。はじめバスの運転手に紙幣を渡すと驚いた顔をされた。どうやらスラジが廃村に引きこもっている間に王制が廃止されて連邦国家になったらしく、それに伴ってギャネンドラ国王の肖像からエベレストへと図柄が変更されたとのことだった。つまり今のネパールに王室ネパール軍はない。それは誇らしくもあると同時に、虚しくも思えた。
カルキの家はレンガ造りの山小屋といった風で、もちろん村のみんなの家よりは二回りほど大きく立派な外観だったが、国に仕えた元軍人と言ってもとびきりに裕福というわけではないのかもしれない。スラジは風に舞う土埃を吸い込まないよう腕で口を覆いながら、そんなことを思った。
家に近づき、窓から中の様子を伺う。こちらに背を向けて床で胡坐をかいているカルキが見えた。動きを見るに食事でもしているのだろう。スラジはチャンスだと思った。しかし布を巻いた猟銃に手を掛けたところで思いとどまる。相手は元軍人。年はスラジとそう変わらないが、身体は見るからにかつての屈強さの名残を湛えていて、いくらスラジが武装していると言っても優位とは限らない。スラジの記憶には圧倒的な暴力で村民を屠っていった王室ネパール軍の脅威が焼き付いている。用心に用心を重ねる必要がある。まだ一人目。早々に躓くわけにはいかなかった。
スラジはカルキの家が見える位置でほどよく距離を取って地べたに座り、様子を伺った。こうしていればそれほど目立つことはない。現に少し離れた木陰では浅黒い肌の老人が腹を出したままいびきをかいていた。
高く昇っていた太陽は西に傾き、空は黄金とアメジストのコントラストを織りなす。見上げれば星も瞬き始めるころだったが、スラジはじっとカルキの家を眺め続けていた。
空がほとんど夜に染まったころになって、動きがあった。玄関の扉がゆっくりと開き、カルキが外に出てくる。シャツにスラックス。足元はナイキのスニーカーだった。スラジはすかさず立ち上がり、布を巻いた猟銃を杖にしてカルキへと近づいた。
「なんだね」
進路を阻むように立ったスラジに、カルキは怪訝な視線を向ける。スラジは杖を脇に挟み、腰をかがめながら両手を差し出した。
「お金を、恵んではくれませんか」
「物乞いか。悪いがあまりないぞ」
カルキはスラックスのポケットから財布を取り出し、中身を確かめる。ああ、ありがたや。スラジは言いながら差し出していた両手を引いて、猟銃の布を解いていく。出立の準備をしていた二日間で何度も練習した甲斐あって、三秒とかからずに猟銃が露わになった。
「とりあえずこ――」
顔を上げたカルキの目に一体どんな最期の後継が映ったのだろうか。鼻先十数センチのところで火を噴いた猟銃は、耳を聾する轟音とともにカルキの顔の上半分を吹き飛ばした。握っていたネパールルピー紙幣が舞い、銃声に驚いた鳥が慌ただしく夜空へと逃げ出す。カルキの身体はスローモーションみたいにゆっくりと、後ろへと崩れ落ちていった。妙に重みのある音が地面に沈み込み、溢れ出す血があっという間に土を赤く染め上げていく。
心臓が強く脈打っていた。高揚。緊張。不安。達成感。様々な感情が錯綜し、スラジの胸中を満たしては消えていく。やがてそれらは全て焦燥へと変わり、込み上げる血臭で鼻腔を満たされたスラジは血の混じる吐しゃ物を吐き出した。
とにかくこうしてはいられなかった。スラジは地面にばら撒かれて血を吸い込んだ紙幣を手早く拾い、カルキの死体のポケットからキーケースを取り出す。出来る限りの早足でカルキの家へと向かい、シャワーを浴びた。川の水ではなく蛇口をひねると流れ出す水は、なんと便利なことだろう! 血を洗い流したスラジはクローゼットから引っ張り出したてきとうな衣服に着替え、見つけた米櫃に手を突っ込んで生米をバリバリと貪った。そこまでしてやっと気分が落ち着いてきて、スラジはカルキの家を後にする。パナウティの町から出るバスはとっくに終わっていて、スラジは地面に座り込んで夜を明かす。だが眠ってしまえば何かに追いつかれてしまいそうで、スラジは眠ることができなかった。
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