第29話 門前

 正直、鉄扉の前に立ったところで何が出来るかって言われると、そんな簡単には物事を前に進めることなど出来やしないのが実情だ。


「……開けることは出来ない。それで合っているか?」


 神原の問いに頷く執事。


「無論。当然と言えば当然ではありますが、換気機能が備わっていません。古い施設でありますからね、それにまさかこの時代になってここを使うことになるなど、誰も想定していませんでした。だから、メンテナンスなどもしておりませんのですよ」


 つまり、使えるかどうか分からなかったけれど、物の試しに使ってみた――ってことなのか?

 で、使ってみたらまさか普通に使えるとは思ってもみなかった、と。


「でも、その使った毒ガスとやらなら、もう殺人鬼は死んでいるはずだろう? 例えば少しだけ扉を開けておくとか……」

「それでは、屋敷が毒ガスで充満してしまいます。我々も一緒にくたばってしまいますよ。ミイラ取りがミイラになる気分です」

「ミイラ取りがミイラ、ねえ……。まあ、間違ったことは何一つ言っていないけれどさ。少しはその言い方に違和感を抱かないのかい?」


 瀬戸が幾ら何を言ったところで――どうせそんなことを、執事は抱きやしないだろうよ。

 尤も、そこでそんな感情を抱いていたならば、毒ガスで殺人鬼を殺してしまおうなんて思いやしないだろうからな。

 その思想自体が、一般人のそれとは大きくかけ離れている。

 だからこそ、間違っているとは誰も言えないような――そんな空気を漂わせているこそが、大きな間違いであると、誰かが声を上げなければきっと改善なんて夢のまた夢だろう――或いは、それを理解しないまま終わってしまう可能性も零じゃないが、夢を夢のまま終わらせてしまうよりはマシだ。


「……我々としては、シュレーディンガーの猫状態を解消したい。そう思っている訳です。ですから、専門家とも言えるような、或いはそういったことに詳しそうな方々を呼び寄せようとしたのですが」


 居るじゃないか。

 うってつけの人材が。

 やる気があるかどうかは置いておくとして。


「シュレーディンガーの猫状態を解消しようとしたら、パンドラの箱になっちまったってことか……。笑えない冗談だな、全く」


 精神科医の言葉もご尤もで――実際、ここを開けることは叶わないだろう。そう難しい話ではない、などと思ってもみたけれど、殺人鬼が完全に死んでいればという前提条件と、毒ガスが換気出来ればという追加条件も付与しなくてはならない。それが達成されることで初めてここを開けることが許されるだろう。

 けれども、扉を開ける前に殺人鬼の死を確定することは出来ない――出来る訳がない。

 それこそ、監視カメラでも付いていれば話は別だが――そんな高性能な物が古城に取り付いている訳もなかろう。何故ならばこの地下は埃まみれだ。そんな場所で監視カメラが付いていたとしてもまともに稼働しているかどうかすら危うい。だったら最初からその可能性は排除してしまった方が良いだろう。


「パンドラの箱を開ける勇気は、我々にはないのですよ、残念ながら。惜しいのでね、命が」

「鉄扉があるから、殺人鬼からは守られる――と?」


 こくり、と頷く執事。


「守られるのは確かだろう。……けれども、いつまでもビクビクと怯えながら生きていくのか? それはまた違う話ではないだろうか?」


 神原の言葉に、何も答えない。

 執事もそんなことになるのは分かり切っていた話だろうに、実際そうなってしまったら、何も言い返せないのだろう。或いは、逆ギレをしているかもしれないな――自分達は被害者だ、と。ただ問題を解決してくれれば良い物を、どうしてこうも怒られなくてはならないのか――などと思っているかもしれない。

 間違ってはいないだろう。

 寧ろ、正しいことだと思う。

 けれども、そうだと言い切れない。

 存外、価値観なんてものは誰でも持っていることではあるけれど、全員それが正しいものであるとは言い難い。A、B、Cの三人が居たら、三人とも価値観は違っていて当たり前なのだから。寧ろ、価値観が全く同じ人間が二人以上居るとするならば、それは片方から洗脳を受けているだろうな――十中八九、そうだと言い切れる。


「わたしは、執事からそう言われてから……ずっと怯えていました。けれども、わたしもいつかは前を向かなければならないし、それに向き合わなくてはいけないと思っていたのです」


 つまり、後ろを振り返りたくなかった、と?


「まあ、もう一つの理由は単純に興味があっただけですけれどね。……どうやってこのシュレーディンガーの猫状態を解決してくれるだろうか、ってことについて。誰かが解決してくれるならば、それで良いのですよ」

「興味……ね。とはいえ、そんな簡単な話じゃない。先ずは幽霊未遂の状況を解消して、第三者である僕ちゃん達が幽霊を見ることが出来る状況を作らなければならない。分かるかな?」

「えっと……そのためにはどうすれば?」

「幽霊未遂の人間――その殺人鬼の身元は? それが分かれば僕ちゃん達もその人間を自覚することになって、幽霊を見ることが出来るはずだ。そして、幽霊を見つけたということは死んでいるということでもある。まあ、生き霊という可能性も否定しきれないが、それは幽霊と対話すりゃあ見えてくることでもあるだろうね」

「それなら……」


 執事はタブレットを立ち上げる。

 随分深くまで降りてきたような気がするけれど、タブレットに電波は届いているのだろうか?


「……申し訳ございません。お嬢様」

「どうしたのですか?」


 執事が深々と頭を下げる。


「どうやら、個人情報を消してしまったようです。何せ、彼は我々にとっては招かざる客……データを消すのは致し方ないことではありますが、まさかこんなことになろうとは思いも――」

「――ふうん」


 神原は舌なめずりして、言葉を続けた。


「……執事さん、あんた、一つ隠し事をしているね?」

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