第2話 ワクチン接種を経た現在
府知事の会議冒頭発言をまとめると以下のようになる。
新型コロナに対してはワクチンは国民に行き渡り、打ちたければいつでも打てるという状況になった。飲み薬を含めた治療薬・治療法も確立され、今年、変異株として流行した感染拡大力が非常に強いオミクロン株に対しても現役世代中心に見ても重症化率、致死率は極めて低い状況。
しかしながら、感染症の分類としては2類に指定されており、エボラ出血熱の次ぐらいにリスクの高いウイルスだということで今も維持されているという状況。
エボラ出血熱とは症状は発熱、倦怠感、食欲低下、頭痛など。その後嘔吐、下痢、腹痛などの消化器症状が見られ、重症例では神経症状、出血症状、血圧低下などが見られ死亡する。致死率はウイルスによって異なるが、高いものだと8割から9割にも及ぶ感染症である。
「今回の専門家会議の議題として挙げられているものは二つ」
小須戸もある程度予習をしていたのが、簡単にまとめた内容を口にする。
「一点目は濃厚接触者について。症状もなく検査結果も陰性の濃厚接触者を7日間隔離することが本当に正しいのか」
出会った頃に比べると、いくぶん顎がすっきりし、髪型も天然パーマではあるものの、以前のようなボサボサではなくそれなりに整えられている。
「二点目は医療体制について。当初と違い未知のウイルスではなくなった今、身近なところ、いわゆる指定の医療機関ではなく普通の病気と同じように対応できるようにすべきではないか」
無精ひげやネクタイ、ワイシャツなど服装の乱れも目立っていたが、こちらもそれなりに整えられ、小須戸自身も気を付けるようになっていた。
「これらについて専門家に意見を聞いたうえで、それらを府として考え方を国に要望として上げていきたい。というのが目的」
小須戸は決して物分かりは良くは無いが、なんだかんだと聞く耳をもってくれるのだ。そういえばまたズボンの腰回りが緩くなっているようだ。今度はどんなのを選んであげようか。
「……みさをちゃん?」
「ふぁい?」
突然、呼びかけられた。
「な、なんですか」
みさをはしどろもどろに言葉を返す。
「なんかニヤニヤしてるから。なんかおかしい?」
小須戸は身だしなみを気にし始める。
「あの頃に比べるとケンジくんも変わったなぁ~って」
みさをは身を乗り出して、小須戸をニヤニヤと笑う。
「からかわないの。今は会社の業務中でしょ」
「だって、こうしてるとどうしても思い出してまうし」
「まあ……あの頃は、ね」
ポリポリと小須戸は鼻の頭を掻き、そのついでに眼鏡の位置を修正した。
「もしかして、暑い? 冷房、もっと入れてええよ」
みさをは小須戸の額が汗ばんでいることに気づく。
「いいの?」
「だって会社の冷房やし」
みさをの返事に小須戸は苦笑する。
「なんなら、うちがその汗、吸うてあげましょか?」
みさをは小須戸に、ん~っと唇を突き出す。
「……お願いします」
「え、本当にええの?」
「そんなわけないでしょ! 冷房の話だって」
小須戸はみさをには勝てない。
あたふたする小須戸を見て目的を果たしたみさをは、笑って席を立ちエアコンの操作パネルに向かう。
会議室の隅には換気用の扇風機、サーキュレーターが置かれているのだが、ふたりの間にはそれは存在していない事になっているようだった。
「寒かったら言ってね」
小須戸はみさをの背中に呼びかけた。
「うちにはケロくんがおるし、大丈夫」
みさをはくるんっと振り返って、パーカーのフードをバサッとかぶりジッパーを上まで上げる。
上半身がカエルになったみさをの完成である。
*****
会議の議題の一点目は濃厚接触者の扱いについて。
「『コロナ患者受入病院における欠勤者の8割が濃厚接触者関連だったということで、かなり医療逼迫にも影響するというふうなことがあります。この濃厚接触者を特定して行動制限をすることで感染を防ぐことができるということが大きければ、それをする価値がある。』」
今回、初顔の教授の発言は小須戸の読み上げ。
「『しかし一方で、今申し上げましたとおり、濃厚接触者が社会的な活動ができなくなるということの損失もあります。どちらが大きいかということで、濃厚接触者の特定と行動制限を課すことというのが正当化できると思います。』」
「ワクチン以前はまだしも、ワクチンが国民に対して行き渡った今では、という話ですよね。うちらももう三回目まで打ちましたし」
カエルの口の中から、みさをの発言。
手も袖の中に完全に隠れているため、完全に着ぐるみ状態である。
傍から見れば、なんとも奇妙な光景だとは思うのだが、小須戸はそこは思うだけにとどめておいた。
「以前は感染した人が他の人に感染させるまでが長かったから、濃厚接触者の隔離も有効だったけど、オミクロン株では隔離し始めた頃にはもう他の人に感染させてしまっているみたいだね」
「それもワクチンを打った人に対してはどうなんでしょうかね」
「『アメリカではワクチン接種済みか未完了かで、隔離不要かどうか整理している。ただ、オミクロンになってからやっぱり感染力が非常に高まっていることと、ワクチンの効果が、特に感染予防効果が薄れてきているということから、アメリカがこうしているから、すべて隔離不要にしてしまうというのはやり過ぎなんじゃないかなと考えています。』」
「……議事録の発言?」
「そう、参加している委員の人」
続けて、小須戸は委員の発言を読み上げる。
「『一方でやっぱりゼロコロナというのは難しいですし、現状では若い人なんかは下手に検査を受けて、陽性になったら隔離になるから、もう検査を受けないでおこうという人もかなりいると思われる中で、検査で分かった人の濃厚接触者だけを厳しく隔離するのもどうなのかなと思います。』」
「絶対いそうやね。実際にはマスクをしていなかったのに、バレないからってマスクを着けてたことにして濃厚接触者認定から逃げた人」
みさをは犯人のアリバイを追求する警部のごとき疑惑のまなざし。
「委員の人の意見としては、厳しい制限を設けずそれぞれ個別の判断にゆだねてもいいんじゃないか。っていう論調だね」
「うちらもワクチン打ってるし、そうなりますよね」
みさをの持つお茶からは湯気が立っている。
「冷房がキンキンの部屋で飲む、熱々のカモミールはおいしいですなぁ」
そして、ご満悦の笑顔である。
「結局は重症化しなければ、ただの風邪と変わらないからね」
「ワクチンの予防効果は5割だけど、重症化抑制が9割、入院も8割減らせるって話ありましたよね」
「だから、アメリカではもうマスクはいいだろう。ってことみたいだね」
議事録を流し読みしながら、小須戸もカモミールを口にする。こちらは湯気の無い冷たいものだった。
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