190.フェリス=コモドゥス
ネイチャン=フェリス=コモドゥス伯爵は最高の仕事を果たした。
砦の周りに敷かれた陣地。堀と柵に覆われ、その中に多数の罠を配置した、人口の要塞。ピピティエレイという都市は、今や容易に突破を図れない場所と化していた。
その難易度、『砦将像』の砦にタメを張れる。ヒリャンはそういう確信を持っている。
「二ヵ月でよくここまでしてくれた、コモドゥス伯!」
「二ヵ月も戴けたが故、ですよ。あと一週間も短ければ、ここまでの出来にはならなかったでしょう。」
そういうネイチャンの表情は、やり切ったという感慨に満ちている。日に焼けた彼の顔は、クシュルと戦っていた頃と比べても随分と頼もしい。
「君には正式に、今日からここに座ってもらう。」
砦のうち、会議室。上座に座るヒリャンが示したネイチャンの席は、トージ=ラムポーン=コリントの隣席。
議長席が空席である以上、彼の席順は三番目、という意味になる。
「実質は四番目だが。ネニートが子爵家である以上、まあ……三番目席に座ってもらう。」
「構わないのですか?」
「構わん。どうせ三人で戦場は回らない。いらない貴族どもの不満を背負ってもらう役どころは、必要だった。」
ピクリ、とネイチャンの頬が引き攣る。まさか努力した果てが不満のはけ口とはいかがなものか。
「娘の逃亡、アシャト派に付いた罪を見逃そうというのだ、不満か?」
「え、ヒリャン様がそれを仰るのですか?」
今度はヒリャンの頬が引き攣った。というより、一緒に話を聞いているトージ、カンキの頬も引き攣る。
息子、甥がアシャト派にいるのは皆一緒だ。そこに娘が一人加わったところで、今更何を言うことがあるのか。
「……。」
建前だ。ヒリャンたちも文句を言う資格などないことを重々承知している。ネイチャンの娘がアシャト派に行ったことを責めてしまえば、彼らとて同じ罰を受けねばならない。
何より、何よりである。アシャトには『王像』という、戦争を起こすだけの正当な名分がある。アダットには『王太子』という、『王像』に抗うに足る情状酌量の余地を残している。
だが、レッドにはそれらはない。何もない。ただの、彼の我儘でしかない。
ネイチャンの娘がアシャトの元に行ったことを罪に問える道理は、どこにもない。
「……わかった。これでも持っていけ。」
ヒリャンが袋を一つ、ネイチャンに投げる。受け取ったそれはずっしりと重く、財宝の類であるかと袋を開けた。
「……これは?」
「塩だ。いずれ足りなくなる。袋ひとつで万軍を三日生かせるぞ。」
「……いただきましょう。」
それは、領地を治める者として、指揮官として聞き捨てならないセリフだった。だから、普通にそれを受け取る。
「では、不平不満は任せた。」
「えぇ……。」
嫌なものを押し付けられた、とネイチャンは溜息をついた。
ピピティエレイに腰を据えられたことを喜ぶも束の間、三日後のことだった。
「報告します!北面から敵、帝国軍です!」
「予想より随分早いな。予想進軍経路にも相当量の罠を敷いていたはずだが。」
「は。予想ルートからも違えておりませぬ。全て解除されたのではないかと。」
それはあまりに好ましくない。解除されたのは構わない。予想の内の出来事だ。だが、罠を予想して進軍速度が落ちていないのがよくない。最悪である。
「罠の位置を悟られていた?」
それはありえるだろう。何せ相手はあのデファールだ。……いいや、それでも、ありえない。
「罠を張ったのはネイチャンだぞ!ネイチャンがデファールと交流があったとは思えん!」
少なくとも、罠の存在を懸念した上で進軍したとして。進軍速度が落ちないはずがない。落ちなかったということは、少なくともデファールたちには罠の場所を自信をもって探り当てなければならないはずだ。
だが、罠の場所を悟るには、相手の思考を読んでおかなければならない。ヒリャンの思考を読んだなら、デファールは罠の場所を推測できただろう……罠を張ったのがヒリャンであったなら。その結果は予想できた。
だが、ネイチャンである。伯爵家当主でありながら時勢問題もあり他の貴族との交流もほぼなく、無名であったネイチャンである。彼の思考が、そうそう読まれるとも思えない。
「なぜだ!なぜこれほど!……まあ、いい。」
憤っていた時間は、一分にすら満たなかった。その自制心は並大抵ではない。
「で、奴らはどう人員を配置している?」
問いかける言葉は、次の手の為の情報を望むものだった。
時は少し遡る。
進軍中の帝国派は、あまりにも呆気なく罠を見破り続けていた。
「お前の父親、それなりに重用されているっぽいな。」
いいのか、帰らなくて?という意味が込められた一言。それに彼女は笑って答える。
「帝国が必ず勝つわよ。そこまで私、愚かじゃないわ。」
あまりにも無邪気な笑みが、ペディアには悪魔の微笑みに見える。彼女が恐ろしくて、仕方がない。
「あ、あと三キロくらい先の隘路、多分落石系の罠があるわね。お父様ならそうするはずよ。」
「……デファール様に進言を。迎撃がお望みなら『赤甲連隊』全軍の総力を以てこじ開けるが。」
「その必要はない、ペディア。クリスが騎馬で通過して罠を発動させ、ジョンに石そのものをどかさせる。」
聞こえた声は、デファールのもの。元帥閣下がそうおっしゃるなら、とペディアは無言で頷く。
「ペディアの気になることはわかる。容易にどかせるような石なのか、ということだろう?」
何か言いたげなのを察したのだろう。デファールが嬉々として言葉を紡ぐ。
つい最近まで人物像が掴めなかったのが一転する。彼は語りたがりの人物だ。
人と語ることを本質的に好んでいる。ついつい語る、そういう人間性だからこそ、彼は普段語らない。
「安心しろ。二ヵ月の急場しのぎで、砦と道中、どちらにも陣と罠を完璧に敷く。そんな芸当は不可能だ。ネイチャンの望みに関わらず、そこまで大きな落石はない。」
とはいえ無防備に受ければ、馬も人も容易に死ぬだろうが、という言葉を添えるのは忘れない。
先読みして、脅威の薄れた罠だとしても、準備されている時点で脅威であることには変わりがないのだと、デファールは語った。
「しかし、君がいてくれて助かったよ、リーナ嬢。」
「私はペディアの妻になる女ですもの。夫に功績を重ねるのは、普通のことではなくて?」
「いいや。いくら陣営が異なるとはいえ、父の思考を正確に模倣して流す、というのは些か難しい。コーネリウスやトージのように、当主たる責任があるならさておいて、君のような女性はね。」
「侮らないでくださいませ。私はこれでも、フェリス=コモドゥス伯爵領の統治すら行った女ですの。」
そうだ。リーナが、なぜか、ペディアに同行している。
この道中、ネイチャンの張った罠の場所を見抜いたのは、全て彼女の手によるものだった。
ヒリャンが撤退した時点で、デファールは彼らの目的を察した。
ピピティエレイによる籠城戦。彼が野戦で決着をつける気がないことは薄々察していたが、アダット派……クシュルの勝利まで徹底的に粘る気だとまでは思っていなかった。
「わずかに兵が減った、とは感じていたが……そうか、防御態勢を整えるためか。」
そこまで覚悟を決めたとは、むしろ感心する。ああ、クシュルの方に万が一にも勝機があれば、ヒリャンの策は最上の部類になっただろう。
「だが、哀れなことに。今の王太子派では、帝国派には勝てない。無駄な籠城になるだろう。」
それは、デファールにとっての大前提。王太子派に、ディアエドラに進軍している将校は、凡百の将ではない。
あちらはあちらで、地獄だろうとデファールは思う。
「何よりだ。……お前の籠城は、好都合だよ、ヒリャン。」
独白、一つ。クシュルとエルフィールの間の決着を待つでもなく、勝機を得たとデファールは確信している。
「しかしリーナ嬢。父の思考をここまで正確に読み取れるものですか?」
罠を次々と解除していく彼女に向けて問う。デファールの興味は、そちらに向いていた。
「それは、娘ですもの。」
「娘なら父の思考を理解するのは容易いとは思いますが……それだけでもないでしょう?」
親子としての顔を理解しているからといって、指揮官としての父を知っているわけではないだろう?という意味の問い。わかる人にしか伝わらない言葉選びではあるが、幸いにしてリーナは意味を読み取った。
「まあ、そうですわね。ですが、私は領地経営もしておりましたの。」
それは聞いた。領地経営をしたからといって、父の思考を読み取れるものか。
「つまり……父が当主になってからの領地経営の記録は、全て目を通してありますの。父がどういう場面でどういう選択をしたか。その結果。全て、頭に叩き込んでありますわ。」
ああ、とデファールは納得した。それなら確かに、ネイチャンの思考を読み取るに足るだろう。
「政策は人の思考を露骨に出すからな。ネイチャンの好みや主義が娘に筒抜けなら、そりゃ、向こうも度肝を抜かれるだろう。」
進軍速度の低下はない。ゼロではないが、限りなく低い。向こうの想定を優に超えることが出来る。
「あと二月でケリをつける……!」
半年から一年を想定されていた戦争に対して、デファールが今抱いた決意だった。
そうして。リーナ=フェリス=コモドゥスの活躍によって、帝国派の軍勢はピピティエレイに急行した。
ちなみに、そのリーナ本人は、すぐさま後方へ下げられている。
「嫌ですわ、せっかく来たのですもの、一軍と言わずとも、一隊の指揮くらいは執って見せます。」
「無理だ、リーナ嬢。伯爵令嬢であるあなたに、一軍以外を任せる選択はない。そしてあなたに、一軍を指揮するだけの能はない。」
きっぱりと断言する。デファールは断言した。リーナに、戦場は無理だ、と。
「無理、ですか?」
「ええ。たとえあなたが伯爵家でも、次男以下の男子であれば一隊を任せたかもしれません。しかし、あなたは伯爵家の一人娘。家格を考慮すれば、あなたに指揮してもらう軍は二千を超えなければなりません。そして、その力量は、あなたにはない。」
ペディアほどの指揮能力があれば任せられた。だが、それだけの力量は、リーナにはない。
「あなたは元来、領地経営に関わる方が向いている。今回はたまたま、敵の相性があなたと最良だっただけです。下がっていていただきたい。」
「嫌だと言えば?」
「『元帥』命令です。」
「……承知いたしました。」
すごすごと下がっていく。『元帥像』デファールの権威は、アシャト、エルフィール以外の誰に対しても有効だ。
コーネリウス、ジョン、クリス、ペディア、ミルノー、エルヴィン、スティップ。そうそうたる面子が天幕に並ぶ。ペガシャール帝国派の『像』が勢ぞろいする。
「今後の方針を伝える。」
敵陣を見た。砦の周りに五重の防柵。堀は深く、二十万ほとんど全てが砦の外にいる。
「コーネリウス。」
「はい。」
「クリス、スティップ……あとあの戦車バカ三人。そして兵三万を与える。『像』の力を使っても構わん。レッド相手に二週間、足止めしろ。」
あまりにも唐突な命令を、発した。
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