164.恐ろしきかな魔術の名家
テッド子爵がクシュルの陣に水の入った樽を投げ入れ、ニネート子爵が奇襲するかのように“既定の矢”を放った頃、遠く500メートルほど離れた場所で陣を見守る一団があった。
彼らの名をアダット派。即ち、クシュルが指揮する軍である。
「戸惑いの声がここまで聞こえてくるようですな。いやはや、実に愉快。『護国の槍』殿は実に戦上手でいらっしゃる。」
貴族の男がおべっかを
「敵は混乱の最中にあり。ルノー=ブリッツ=バヤール卿。武勲を挙げる意気は在り哉?」
「勿論ですとも、偉大なる槍よ。先駆けは我らが務めましょう。バヤール男爵軍、突撃!」
数百騎の馬が駆けていく。視界が悪い以上、少数で攻めて同士討ちを狙うのが上策……ではない。
「三分の後、突撃。」
「了解しました。全軍、突撃用意!」
ベネットが叫ぶ。その状況に頷きながらも、見えぬ雪の先を見ようと目を細めた。
いかにニネート子爵軍といえど、ここまで視界が白ければクシュルたちの陣の中身は見えない。既に陣内に兵士たちがいない、ということは、予想の外だろうと思う。
そもそも論として、クシュルとヒリャンでは前提条件が違う。攻めるクシュルと守るヒリャンという構図であるだけではない。
陣を捨てても問題ないクシュルと、その場を何としても守り切らねばならないヒリャン。あの山に立て籠って殺し合いを続ける気であれば、ヒリャンには今この場で攻め立てる以外の選択肢を持たない。
同じ『護国の槍』一族の優秀な兄弟である。互いの視点から見た互いの戦略については、よく把握しあっている。
「三分経過。」
「全軍、とつげきぃぃ!!」
ベネットの叫びに答えるように兵士たちが駆け始める。クシュル自身も、槍を携えて馬に鞭うった。
周囲の警戒を指示する。ヒリャンであれば、攻めて来ることに対策をして、万全な迎撃か無傷の蹂躙を行おうとするところまでは読んでくる。であれば、彼が行う次の一手は、囮を切り捨てた別動隊での衝突……。
「おかしい。」
先駆けたバヤール男爵の軍が争う戦の音が聞こえない。血が漂うような異常な臭気が感じられない。いくら風の音と勢いで減衰しているからといって、それは安易に消えるものではないだろうとクシュルは思う。
案の定。自陣に帰っても敵はおらず、混乱するのは敵ではなく味方だった。
「や、槍殿……これはいかな次第ですか?」
「……わからぬ。」
いいや、わかっている。ヒリャンは、正面衝突を前提とした、戦術規模での読みあいに勝負をかけなかっただけだということは、現状が物語っているとクシュルは思った。戦術ではなく、最初からヒリャンは、己と戦略面で勝負をしていたのだ、と。
「敵、陣外に発見!」
「何、タイミングが違っただけであったか。全軍、行くぞ!」
報を受けて、バヤール男爵が叫ぶ。待て、と止める間もなく、男爵の一団は陣地の外に出向いて行った。
クシュルの一軍の足が止まる。負けた、という確信がクシュルの胸に去来する。だが、それは上に立つの一部の者の話だ。クシュルについていける者たちだけの話だ。
少なくとも、兵士や中間の貴族たちは、その思考に思い至らず、足を止めたクシュルたちを追い越しながら前に進む。
「止まれ、そこは罠だ!」
思考が止まったのはわずか5秒。たったそれだけの時間で立ち直り、すぐさま指示を出せたということは、人として驚嘆すべき事実に違いない。
だが、既に戦端が開かれた戦場にあって、5秒の
「うわあぁぁぁぁ!」
叫び声。敵に攻撃されたから、ではない。先頭の兵士が、馬が、滑って落馬する。人によってはすぐさま即死、そうでなくとも足が取られて転倒から立ち直れない。
人は急には止まれない。歩いているなら、早歩き程度の速度なら話は別かもしれない。が、全力疾走する兵士たちが、目の前の人が倒れたのを見てすぐに止まれるほど、人体というのは器用に出来てはいない。
滑る。滑る。滑る。兵士たちが、馬が、武器が、大地の上を滑りぬけていく。
全軍がその惨状にようやく足を止めた時、戦場には転げ落ちた人の残骸が散らばっていた。
白い大地に、紅がとても鮮やかで、しかもそれが瞬時に凍り付いていく様は、恐怖の絵でしかないはずなのに幻想的だ。
「氷?」
ベネットが呟く。確かに氷だ。それが何を意味するのか……クシュルは即座に気が付いた。
「ニネートが来る。撤退せよ。」
「はい?」
別な貴族が言葉を紡ぐ間すらなく、それは、槍を背に負い矢を番えてやってきた。
“既定の矢”は撒き餌。樽は大地を凍らせるための罠。本命はその後の奇襲。ヒリャンが命じたのは単純にそれだけだった。
クシュルはヒリャンが攻めることを読んでくる。そんなもの、彼としては重々承知だった。ゆえに、バレても勝てる方略が必要だった。
そして、『護国の槍』に撤退の二字はない。それもまた、ヒリャンにとっては自明の理だった。
「一時的な撤退はする。だが、『護国』の本質は攻撃だ。兄上は必ず、最小限の被害で我らを討つべく兵を用いる。」
ゆえに。主導権をこちらが持たなければならないとヒリャンは思う。
攻撃する側というカードを、兄に握らせてはならない。その前提で立って考えた時、ヒリャンが戦うべき兄ではなく、その他の貴族が主だった。
「兄は我らが奇襲するという予測を立てる。乱戦に持ち込めば将校の質の差で我らが勝てる、という予測を兄が立てているだろうからだ。」
実際、その通りだとヒリャンは思う。将校の質では、圧倒的にヒリャンの方が高い。その予測をもとにヒリャンは戦略指示を出し……
トージ、ヒャンゾン、カンキは、その指示に応えた。
風が止む。瞬間、矢が放たれた。
突如として吹雪が止む。目の前には、真っ赤に染まる雪景色と、その頭上を彩る鏃の雨。
吹雪が降り始めてから、時間にしてきっかり一時間。発動した魔術の効果が顕れる時間、効果が切れる時間まで計算しつくされた、攻撃の為の下準備。
「魔剣発動!!」
「「「魔剣発動!!!」」」
『振動』が込められた魔剣ではない、何かしらの木剣。その刃渡りは短く、普通の剣と短剣の間を取ったような長さしかない。
それらの剣が、振りぬかれる。瞬間、立ち上がりかけていた氷の上の兵士たちの喉の穴が見えるほどに斬れ、噴き出した赤が雪原を染める。
テッドの量産型魔剣、『飛斬』。剣を振りぬいた速度に比例した威力の斬撃を遠くに飛ばす魔剣。その斬撃威力は実際のところ高くはなく、無防備に首を晒した兵士の喉を掻っ切るだけに留まったが……人一人殺すには十分だった。
「……前進せよ!」
瞬時にクシュルが命じる。正気の沙汰とは思えない命令に、兵士たちも貴族たちもこぞって己が指揮官を仰ぐ。
「距離を潰すことが必須也!」
その意図を、瞬時に悟った将校は、アダット派の中でわずかに6名。彼らは、即座に命に従った。
先頭を走るのはクシュルだ。自身の前に魔術防御と物理防御の盾を貼り、『飛斬』と矢を弾きながら猛然と駆ける。
赤を踏みにじる。氷の上で滑らずに敵の許へたどり着くには、それが最短の距離となる。水がまかれて氷になった雪原の上で、確実に足を取られずに進むには、屍を踏むこえていくしかない。
血が踏みにじられる。人肌ほどの温度の血が大量に流れれば、いかに氷といえども溶ける。その部分は、馬の、人の足が取られぬ安全地帯だ。
これに怯えたのはレッド派の軍だった。如何に最短とはいえ、先ほどまで、ほんの数分前まで生きていた友人の屍を物理的に踏みにじりながら駆ける敵。
そんなものが敵だと思うと、身体が恐怖に彩られる。この地が戦場であることも忘れて、その悪魔の所業に戦慄する。
そして、戦場における一瞬の硬直とは、たとえそれが五秒に満たないとはいえ、生死を分けるには十分すぎる長時間だ。
槍が、抜かれた。血糊が槍に付くのも構わず、クシュルは二人目、三人目を突き殺す。
彼が突き殺した屍の肉は、槍の面積を超えてごっそりと抉り取られていた。『護国の槍』が持つ魔槍、その最後の一つ。『
その猛将の道を阻むものはおらず。
「撤退を開始せよ!」
カンキとヒャンゾンが三度目の叫びをあげた。クシュルが突撃を開始し始めた時点で叫んだ命令が、三度目、手遅れになってから初めて兵士たちの脳に届く。
「う、わぁぁぁぁ!」
それは、撤退というより逃亡だった。味方の屍と地の上を駆けて襲い来る悪鬼に怯え、逃げようとする凡人の勇姿だった。
そこで腰が抜け、立ち上がることも逃げることも出来ず、ただ殺されていく醜態と比較すれば、まごうことなき勇姿だった。
情けない背が向けられる。しかし、それ以前に目の前に転がる死を待つ命を見過ごす必要はない。
弱者を襲う獣が一匹、その頭蓋に牙を突きささんとして。
「降り注げ、“魔の針”。」
魔術の名家が、間に合った。
恐ろしきけだものが一匹、敵に触れた。
それを見た瞬間、ベネットは叫んだ。
「見よ!敵は今我らに怯えている!この場に留まれば敵はすぐさま立て直し我らを襲うだろう!しかし、進めば我らは生き残れる!選べ、進んで生きるか、止まって死ぬか!」
支離滅裂だ、と彼の冷静な部分が言った。構わない、と彼の熱気にあてられた部分が言い返す。
戦は生き物だ。ましてや、戦場で冷静なのは指揮官のみだ。
兵士は、口上など聞いていない。わかりやすい指示だけを、聞いている。
「戦え!『護国の槍』に続け!突撃ぃ!!」
その叫びは、敵に躍り込む鋼色の槍の姿と、それに腰が抜けて崩れ落ちる兵の姿を見る兵士たちの心に染みわたった。
恐怖が、希望で上書きされる。
味方の死を悼む気持ちが、生存への渇望で上書きされる。
悪鬼に成り下がることへの抵抗が、戦争への興奮で上書きされる。
兵士たちが、一斉に槍を掲げ、興奮を胸に前へ飛び出し、剣を、槍を手に氷の上へ駆けだして。
「降り注げ、“魔の針”。」
痛みもないナニカが、先頭の数名の命を散らした。
このまま躍り込まれれば不味かった、とトージは思う。
敵将の中に、
間に合ったのは偶然ではない。このまま逃げ切れそうなのであれば、クシュルの暗殺だけ試みつつ、味方が逃げ切るに任せるつもりだった。だが、あの軍が突撃してきた場合、こちらに受ける被害も甚大になる、と判断した。
なら、介入しないわけにはいかない。
「もう一度だ。“魔の針”!」
「「「“魔の針”!!」」」
二度目の魔術発動。たった100名足らずしか連れてきていない状況で、魔術書のないコリントの軍に出来ることは少ない。事前に用意した魔術でしか、彼らは戦えない。
「撤退しろ、カンキ、ヒャンゾン!」
叫ぶ。しかし、彼らはその前に既に逃走を開始していた。そうだ、それでいいとトージは頷く。
「“突風襲来”!」
「「「“突風襲来”!!!」」」
トージが叫ぶに合わせて、魔術師たちが魔術陣に魔力を通す。広い範囲に吹き流れた風が、後方で脚を止めた兵士たちのつま先に、微かなぬめりけと温度を伝えた。
ゾ、とする。
足を止めたことで、希望は現実に置き換えられた。
敵が逃げたことで、生存は確保されたゆえに渇望は失せた。
足に伝った感触が、己が成り果てたモノの姿を鮮烈に脳に焼き付ける。
彼らが踏みつけているのは。彼らの足裏に伝う赤は。
ほんの十分に満たない前まで、己らとともに戦っていた生者だったことを、これ以上なく強く押し付けてくる。
「う、わぁぁぁぁぁ!!」
恐怖の声が上がった。いいや、むしろ狂気の声だった。職業軍人ならまだしも、彼らはほとんどが徴兵でしかない。以上、死に怯えるのは当然だった。
「止めだ、“閃光玉”!」
「「「“閃光玉”!!!」」」
トージが魔術を放ち、効果が発動する前に背を向ける。それはトージだけではなく、配下魔術師たちも一様に。
慌てて彼らを追おうとした、クシュルの前に槍が突き立つ。
ニネートの一族の仕業だった。万が一氷を滑りぬけてきた兵士が出た時のため、護身用に用意した剣と槍。その全てが、クシュルに向けて投げられていた。
「く、」
槍を回して自らの身を守る。手に持たれた槍ならさておき、手で投げてきた槍であれば、回転によって弾き飛ばせる。
瞬間、“閃光玉”が破裂して。
一面の銀世界と曇天の中に、金の光が乱反射した。
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