138.王とゼブラの裏側で
彼女が俺の下を訪ねてきたのは、夜も深くなったころであった。
正直な話、驚いた。なぜ、という気持ちが先に発った。こんな夜更けに、未婚の少女が、男の寝所を訪れる。……その割には、そういう雰囲気は微塵もなく。むしろ、強烈な覚悟を秘めて近づいてきていた。
「色々と聞きたいことはあるが……ディールはどうした?」
「いるぜ?俺も同席するっつうことで、手を打った。どうしても内々に話したいことがあるんだと。」
彼女が一人でどう挑んだところで、ディールに敵う未来はない。俺と彼女が一歩の距離で、話していて、彼女が急に俺を殺そうとしたとしても、半径10メートル以内にディールがいれば彼女の攻撃が俺に届くことは決してない。
まあ、確かに。ディールらしい判断だと思う。彼さえいればいいのだ。彼がいる場でさえあれば、俺に誰が近づこうと……いや、女性一人が近づいたところで、俺に出来ることは何もない。
「私の話は」
「エリアスとの結婚を認めろ、だろう?アメリアの報告書に、お前の恋心についての記述があった。……ここまでするとは思わなかったが。」
ここまで、というのは夜に寝所に来たこと、ではない。同義ではあるが、王に直談判しに来ることそのものを指している。
そんなこと、言わずともわかっているのだろう。彼女は余計なことを何一つ言わずに、本題に入った。
「エリアス様に命令してください。私と結婚しろ、と。」
「それに従う義務は」
「キキアレン男爵令息の暴走の責。」
ないだろう、の言葉は発せなかった。いや、まともな貴族なら言ってくると思っていた。……それを出してくるのはギデオンだろうと思っていたし、彼がそれを話題に出せば、俺たちが何かしら要求を呑まねばならないことはわかっていた。
予想外だったのは、それを、家長であるギデオンではなく、被害当事者であるカリンが直接言ったこと。
貴族としては、非常識極まりない。
「断れませんよね、陛下?」
「……なぜ、余に言う?」
「わかっていらっしゃるでしょう?」
こいつ、と思った。殴りたくなった。……それをすれば、エリアスとどう関係が築かれていくのか。それを重々承知の上で、カリン嬢は俺にものを言っているのだ。
「エリアスは、結婚する気はないぞ。」
「それでも、国の為になる結婚なら呑む気はある。それが『像』の務めだ……そう言いそうですけど、本音は別の所にあります。」
あぁ、嫌だ。本当に心底嫌だと思う。
恋する乙女とやらは、強い。
「死した妻を一生愛していたい。その気持ちが強い分、余計に迷う。」
「はい。己以外も愛してくれとでも言われたのでしょう。誰かを愛するべきだと思う自分がいらっしゃる。」
恐ろしい二択だ。愛する女を愛していたい。愛する女だけを愛して生きたい。そう思う心とは裏腹に、死んだ妻の、誰かを愛せという言葉が心を縛る。
「エリアス様が欲しいのは言い訳です。奥様を愛していても、他の女と結婚する。それを許せる言い訳。そんなものを与えられるとするなら、それは陛下以外におられません。」
黙る。黙りこくるしかない。
わかっていた。エリアスは自分から進んで結婚することは出来ない。妻を愛している、その想いがある限り、彼は自ずから結婚に向けて動くことはない。出来ないという方が正しいだろう。
それでも、彼は誰かを愛し、家庭を作ることを捨てられない。……クリスの報告書によれば、それは亡き妻に与えられた呪いだ。
「……お前にするメリットは?」
「どちらにせよ誰かしら貴族女性を娶せる予定だったのなら、私属貴族だったものたちが多いゼブラの女性を娶せた方が陛下に都合がよいのでは?」
暗に、失業予定だった有能者を配下につければ、エリアスも貴族としての領地経営はやっていけるでしょう?という発言。
わかっている。そんなことはよくわかっている。
彼女の言を呑むこと。それが、他の貴族たちの娘を適当にエリアスにあてがうより、国の為になる決断であることくらいは、重々に。
問題点があるとすれば、グリッチを『像』にする予定の俺としては、カリン嬢までエリアスの……『像』の妻としてしまえば、ゼブラ侯爵の権力が高くなることだ。
「……いいや、それはいくらでも、どうとでもなるか。」
下手に欲を出せば、エドラ=ケンタウロス公爵とオケニア=オロバス公爵が叩き潰すだろう。
出来れば、エリアスは国内にいる落ち目貴族の娘をくっつけたかった。もし結婚に愛がなくとも、そして愛が芽生えずとも、エリアスが苦悩しなくて済む決断をしたかった。
だが、カリン嬢の言うやり方が、一番利益になるのは確かなのだ。対ヒュデミクシア戦の為に、エリアスは配置する予定なのだから。
そして、エリアスが他の方法を以て結婚するとなれば、あと十数年はかかるだろう。それくらいはわかる。そして、その頃には30代後半。
『像』である以上結婚相手自体は引く手数多だろう。が、そこに愛が生まれるかと言えば、ない。あっても、限りなく低い。だったら、せめて恋されている女と結婚させる方がいいのだろうか。
第一、嫁ぐ以上カリンとゼブラ候家は別の家だ。ゼブラ候の権力が増えすぎるとはいえ……エリアスがカリンの完全な言いなりになるとも思えない。
「どうしてそこまで?」
だから、ほとんど諦めの境地で問いかける。彼女の答えは、問う必要はないでしょう?と言わんばかりのものだった。
「私はエリアス様と結婚したい。エリアス様自身は言い訳がなければ結婚できない。自分の望みを叶えるのは、人にとって当たり前の行動でしょう?」
何も、言えなかった。ぐうの音も出なかった。
「いいだろう。エリアスの結婚相手はお前にすると宣言しよう。……近い将来。」
「近い将来、ですか?」
「あぁ。お前をエリアスの結婚相手に命じる前に、俺は俺でやることがある。」
「……そうですか。」
恋に燃える女というのは、それはそれで。
「安心しろ。……数か月後には、終えているだろう。」
バーツを呼ぼう。装飾品が要る。
「……承知、致しました。」
ほ、っと女は一息ついた。
「安心しろ。今はわからなくても、いつかきっと、わかる日が来るさ。」
「……そうなるよう、精進し続けます。」
そういう彼に、女は頷いて部屋から出た。
あたかも夜這いのようなそれ。しかし、女にはその気はなく、男もむしろ恐ろしい数瞬を終えて。
その日の夜は、過ぎた。
彼は大地を這っていた。
両腕を必死に食らいつかせて、力が途切れてしまわないように、懸命に。
もう三日三晩だった。人間の業を凌駕しているどころの話ではなかった。
三日三晩。寝ることもなく、食うこともなく、力の欠片も入らないその体で、彼は大地を這っていた。
意識を失えば、次はもう、起きられない。
両足に突き刺さった矢の鏃は骨の深くまで突き刺さり、しかし羽根の部分は全て完全に消えていた。
あるものはどんどん奥へと突き刺さり、あるものは途中で折れ、あるものは這い始める前に叩きおり。
偏に、彼の生存本能が為せることだった。
「腹が、減った。」
言葉はもはや、言葉の体を成していない。それでも、彼は無意識に呟いていた。
「喉が、乾いた。」
ズル、ズルと、人の這う音。血は時に止まり、時に流れ。しかし、その必死の生存も、もう先が長くないことだけはおおよそ予想がついていた。
腐臭が漂っていることに、もはや彼は気づいていなかった。視界が既に混濁していることも、気付きようがなかった。
そこは、人里から離れ、深い森へと進んでいっている。そのことに、気が付いていなかった。だが。彼の戦士としての本能は、ほんの欠片すらも衰えておらず。むしろ死に近づくほどに増大していっていた。
「……あ?」
だから、それに気が付いたのは必然であり……しかし同時に、偶然だった。まともな状況であれば、それはそこには現れない。現れても、気が付けない。
影が降りた。そこに何かがいる、ということには気が付いた。
死の寸前の彼が感じられる気配では、それは何かとても異質なもので。
「……。」
首元に、衝撃。そうして、彼は意識を失った。
次に目覚めた時、彼の両脚は付け根から切り落とされていた。大きな喪失感と、空腹の中で。彼は、差し出された食事にありついた。
「生き残ったのか。」
助けられたのだ。そう気づくとともに、彼は目の前にあった食事をむさぼり食らった。
三日三晩の苦痛。三日三晩の絶望。そう、三日三晩に渡る死との戦いに生き残った彼は、その分異常に本能が増大させられていて。
貪るように食い、死んだように眠り……彼を救った彼女と、寝食を共にした。
「妖精に見初められるとは、皮肉なものです。」
食事をとりながら思う。生死の境にのみ現れるモノ、妖精。人智の及ばぬ偉業、それに類する何かを成した戦士にのみ、その身を顕し命を救う、と伝え聞いている。
死に近く、それでも生きようと足掻いたからこそ、妖精は彼の前に現れた。決してそれは強くはない。どこかに祀られる大妖精ではない。あくまで、生死の境、人の世には顕れられない以上、それは弱い。……妖精は、生き物ですらないが。
それが妖精であることに気が付いたのは、本能に刈られてそれを抱いた後だった、という時点で、彼は己の不覚を恥じた。
「脚を失くした私に、子の世話は出来んぞ?」
「気にしなくとも、よい。己の手で、やる。」
辛うじて会話が出来る。妖精は、若い女の見た目をしていた。黒髪は長く、美しい。……が、人語を解する妖精となれば、その年齢は200を優に超えているはずだ。
「あなたは、帰ればよい。私は、この子が16になった時、人の世界に子を返す。」
深夜に、男は実家に連れて行かれた。己が貴族としての家の前で、彼は乱暴に捨てられた。
ケルピー=ライオネス家の本邸。彼はこうして、両足を失って帰還した。
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