107.長年生きしケンタウロス
彼は興奮する気持ちを抑えることが難しかった。
高い視線のその先、こちらに向けて歩を進めてくるそこそこの数の軍勢。彼らを見るよりもはるかに以前から、彼は神殿に力が戻ってきているのを感じていた。
ペガシャール大図書館、通称クカス。
ペガシャール魔術研究棟、通称ベルス。
ペガシャール植物園、通称アニマス。
ペガシャール大学校、通称、フェム。
そして、ペガシャールの都、ディマルス。
『神定遊戯』において王が定め、神が与えたもうた大神殿と四つの小神殿。その力が、繋がっているのを、彼は俺と同様、強く強く感じていた。
「エドラ様がお亡くなりになる前を思いだす。」
あの時、彼は20歳だった。既に齢は200を超えた。彼が死ぬまで、あと80年を切った。
「生きていて、よかった。」
先頭を切って、大男が駆けてくる。彼の姿を見かけたアシャトが、その男を斥候に派遣した。敵か味方かわからない影の正体を見極め、敵であれば容赦なく斬り捨てるために。……こと、処刑場でもない場における処刑人、と言う意味に限れば、彼ほどの適任者はいないだろう。
「適材適所、か。」
弓と矢を地に落とす。抵抗の意思はない。今、王にお目通りを願うこと。その旗本に馳せ参じること。四本脚で立つケンタウロスは、今はそのことしか考えていない。
駆けてくる男の足が止まった。わずかに目を見開いたのち、男は呆れたように笑って言った。
「まだここにいたのかよ、先生。」
「王命を無視する気はありませんよ。」
「王太子のクソ野郎も、王命を取り下げる気はないっつうたもんなぁ。」
「えぇ。私は許されるまでここにいます。」
その言葉がどれほどの重みなのか、誰もが知らない。知るのは、おそらくもう彼だけだ、と思う。あとは、事情だけを聞き知っている、俺だけだ、とも。
しかしまあ、男は立派に育ったな、と思った。14歳の時はあんなに小さかったはずのガキンチョが、一角の英雄がごとき風貌になるとは思ってもみなかった。……いや、あの幼少のころですら、確かに鍛えられた肉体と強者のような風貌は漂わせていたが、今ほどではなかった。
短く切り揃えられた髪。左右に釣り合いの取れた、きれいな逆三角形の肉体美。……しかしどこかしこにも感じられる、鍛え抜かれ、しかしどこまでも実用的な、筋肉の鎧。
「ディール。あなたの主のところに案内してください。ご挨拶申し上げたいです。」
「はいよ。兄貴!来て大丈夫だ、敵じゃねぇよ!!」
大声で男が叫ぶ。それを聞いて、ディアに乗った男が、パカラパカラと進んでくる。
「ディール。王に対して『兄貴』はないでしょう。」
「いいんだよ、細かいことは。俺は俺、兄貴は兄貴だ。」
全く、変わらない。俺がそう思ったのと同様、彼もそう思ったようだ。ディールとそっくりな動きで、呆れたような笑みを浮かべる。
「初めまして、だな。……名は?」
ディアに乗った男が尋ねる。彼の名を知らない『王像の王』。……中枢から完全に切り離された末端か。生き残っている家があったのか、と驚く。
「お初にお目にかかります、『ペガサスの王像』に選ばれし王よ。私の名はエビエル=ルフィエムと申します。」
彼……エビエル=ルフィエム。この地に半ば幽閉されているケンタウロスは、笑みを浮かべながらそう告げた。
ディールが先生と呼ぶ男が、フェムにいる。その情報は、俺を驚かせて余りあった。
「お前が尊敬するのか?」
「そうだぜ、兄貴。昔ちょっと旅慣れてねぇ頃に毒に当たってよ、治してもらったことがあったんだ。」
「毒?」
「毒っつぅか、腐った肉というか……。」
「……食糧買わないまま旅してたのか?」
「あぁ、適当にそこらで狩って食ってっつぅ生活してたんだけどよ。その日は何も狩れなかったんだ。」
動物が出るような周辺環境ですらなかったらしい。
「食えるような草も知らねぇし、どうしようもなくなった時に、家出前にアテリオに渡された非常食思いだしてよ、それ食ったんだが……。」
いくら干し肉とはいえ、ディールのことだ。だいぶ杜撰な管理をしたのだろう。その光景が目に映るようだ……なまじ狩りですぐに獲物を仕留められる腕がある分、こいつは食糧の苦労を知らなかったはずである。
しかも、アファール=ユニク子爵家の長男だ。元々何不自由ない生活にほど近い生き方をしていたのだろうということは、容易に想像がつくことだ。
「……で、彼に助けられたのか……。」
「はい。よくある話ですね。」
よくある話、というのは、ここ数十年に限った話だと思う。だが、おそらくここ数十年は、本当によくある話なのだろうとも思う。
ディールのように、食糧の管理が杜撰だったから、というのは稀有な例外だろう。だが、食糧が確保できず、手当たり次第に何かを食べる、というのは珍しくもなんともない。……本当に、嫌な世になったと思う。
「俺の義弟が世話になったらしい。感謝する。」
「いいえ。私は薬草で薬を作り処方しただけですよ。礼を言われるようなことではありません。」
その薬を即座に処方できることが大事なのだと思う。この荒野の中では、薬草一つ見つけ出すことすら困難だろう。金剛石とまでは言わずとも、大事な宝石を他人に譲るような所業であることには違いない。
「何か礼をしたい。望むものはないか?」
「あります。」
即答されて身構える。出来れば、あまり大層でないものがいい。今のペガシャールに、多くを求められると困る。
「昔の王に命じられた命令の、取り下げを。」
「王命の取り下げ?」
何があったのか、と思う。聞かなければ、判断できない。
「内容は?」
「死するまでこの地を離れることを禁ず、と。」
死ぬまで。エビエル=ルフィエムが、だろう。この地……今俺と会話できていることから、このフェムから、という意味だろうと推測する。
なぜだ?罪を犯したからなのか、それとも別な理由なのか。わからない。
「その王命を受けた理由は?」
「理由……を話すためには、順を追って話す必要がありますね。私がその王命を受けたのは150年前のことになります。」
150年前、と言われて年表を捲る。脳内年表には、その年のころに遷都があったということが載っているだけである。
「エドラ=オロバス=フェリス=ペガサシア王亡きあと、『神定遊戯』が開催されなくなって約50年が過ぎました。……過去の歴史を紐解いた時、一つ一つの『神定遊戯』の間は、だいたい30年前後で、長くても40年少し。それ以上長くなることはありませんでした。」
だから、国が迷走を始めた。神の意志が見えなくなり、神に依存してきた人間たちは神という指標を見失い……。
それは、人を導く立場である王ですら例外ではない。いや、最もあおりを受けたのが、王である。
王が王たるゆえんは、神によるお導きと、王座の保証があるためだ。言い換えるならば、神による導き、王座の保証が与えられていない王は王ではない。
王権の維持が厳しくなった。王が神から認められている王であるという説得力が、日を追うごとに、いや、一分一秒ごとに失われていく。そんな中で、王は己の玉座を維持するために、一つの決断をした。
神無くても王である。その主張を、誰でもなく王が率先して行うこと。そのために、『神』の象徴である大神殿、王都ディマルス及びその近辺。小神殿であるペガシャール四大都市から離れた地に、新たな王都を建て、そこで政務を執り行うと、決めた。
初代王アルスとその末裔たちが築き上げてきた『神定遊戯』を交えた伝承を受け継がず、新たに人の世の直前、最後に神に選ばれた王エドラとその末裔が新たな伝統を築いていく。神は天でその様を黙ってみていろ……そういう意味を込めて、新たな都ディアエドラは建設された。
それに反対した王族が、多数。『艶王』とまで言われたエドラの血族。つまり、次期王像の資格を持つ王族たちは、当時50近くいたとされているが、その半数以上が反対したらしい。それでも、当時の王は押し切った。
問題は。エドラ王の時代から生きていた人物がほとんど死に絶えるか、あるいは老いている中、当時から仕えていたケンタウロス、エビエル=ルフィエムがいたということである。
彼は王都と四大都市の役割をその目で見ていた。『王像』がその力を使って行っていたこと。この五つが、どれだけ『神定遊戯』が行われるときに重要な施設になるのか。最大寿命が300年、エルフと同じだけの長命種であるケンタウロスである。知らぬはずがない、その瞳で見ていないはずがない。
ゆえに、死に物狂いで熱弁したのだ。
「ディマルスから出てはなりません!次に『神定遊戯』が起きた時、ペガシャールは髪の恩恵を受けがたくなってしまいます!」
「何が次の『神定遊戯』だ!現状を見ろ!余が曾祖父、エドラ王の死から早50年!未だ『神定遊戯』が開かれず!神の恩恵の形すら目に見えぬ!日々大地は痩せ、神への信仰は勢いを失くし!ペガシャール王権への信用、発言力ですら落ちている!他国もそうであるゆえに、人は神から見捨てられたとまで噂が流れている!戦わねばならぬのだ!神に拠らず、人に拠った営みの為に!」
どれだけ熱く語ったところで、決意を固めた王の耳には届かなかったと、エビエルは言った。間違ったことは言っていないだろう。ただ、時期が好ましくなかったのだろう。
神がいない不安に押しつぶされそうなときに、神からの脱却を図ろうとすれば流石に、な。神罰が下ると怯えるのも無理はあるまい。せめて完全に心が折れてからにするべきだった。……おそらく。国王自身が、神のいない世に怯えていたのであろうが。
「確かに、王は必ず遷都するという決意を固めていらっしゃった。その背景には、神に見捨てられたのかもしれないという恐怖と、それを煽る貴族たちの姿がありました。」
ひどい話だ。『神定遊戯』は、神が起こすもの。人の手で起こせないもの。……だからこそ、神に忠誠を誓い、その力を使うことが許されている王への忠誠は得られていても、神の力なき王はただの人に過ぎない。
ただの人に、人は忠誠を誓わない。王座に神という輝きがなければ、王座に座る男の力はないに等しくなってしまう。
ましてや、あの『艶王』の子孫たち……名に『エドラ』を冠する者は、当時20を下らなかったはず。有力貴族誰もが政敵、王位を脅かすもの……決断が急がれた心情だけは慮れる。
足掻いたのだ、その現実に。当時の王は、神の力なくとも人の力で世を治めようと、足掻いたのだ。方向性は間違っていたとしても。……だが、そうまで追い詰められていたことを、おそらくエビエルは気が付かなかったのだろう。毎日のように王に『遷都をやめろ』『神の地を捨てるな』というエビエルの姿が、なんとなく、思い起こされる。
「結果、王の堪忍袋の緒は切れました。私は当時校長をしていたこのフェムに幽閉されました。」
最後の言葉は、『それだけ神の地が好きなら、一生ペガシャール大学校に籠っていろ』だったそうだ。苦笑する。呆れるまでの駄々である。……俺もそうならない保証は、どこにもない。
後ろには色を失った、死んだに等しい建物。目に前にあるは、弱弱しいけっこうなお年のケンタウロス。彼は、皺の出来始めたその頭を下げた。
「もう、味気ない日々は勘弁願いたい。ゆえに、お願いいたします。その命令から、私を解き放っていただけませんか?」
「……逆に、問う。貴殿の居場所は大学校の中であろう?なぜ外にいる?」
「簡単です。120年前まで、大学校は辛うじてその機能を維持していました。機能が止まったのは、遷都直後、……その遷都をもって、大学校の機能は停止し、中で謹慎していた私は外に弾き飛ばされる次第となりました。」
納得する。マリアやメリナが大図書館の中にいたのは、妖精の恩情だ。恩情がなければ、マリアもメリナもクカスにはいなかった。エビエルは、妖精の加護を得られなかったのだろう。
「遷都に伴い、学校も閉鎖され、学生も教師もすべて新王都へ移動しました。……校長しかいない学校には、学校の意味がありません。」
そうやって、意味が失われたのも大きいのだろうとエビエルは言った。クカスは図書館だ。最悪、人がいなくても本さえあればその価値はある。
だが、学校は人あってのものだ。人なくして成立しない以上、廃校に教師をおく必要はどこにもない。……学校そのものの価値を、俺はあまり認めてはいないが。
しかし、エビエルのその、遷都から150年、大学校の金甌が喪失してからの120年の月日を慮れば……わかることくらいは、ある。
「そうか。貴殿がペガシャールに忠誠を誓っていることは、よくわかった。」
遷都時の王が死ねば、長命種であるケンタウロスにとって、王命に意味はなくなるだろう。三代くらい重ねれば、おそらくは本当に言葉だけの代物になっているに違いない。
それでも、150年。人間が生まれてから、順当に生きても六代後の子孫の寿命が尽きる以上もの長きにわたって律儀に王命を守り通してきたエビエルの言は、聞いていてその異質さに驚くほどだ。眩暈がする。
「……ディア。」
「君、何歳?」
唐突にディアが問いかける。その意味を悟って、俺は安堵の息を吐いた。
「223歳です。」
「つまり、エドラが死んだときには20歳くらいか。……あぁ、そういや、いたね。あの日のケンタウロスか。」
「覚えていただき光栄です。」
ディアが何か考えるように首を振った。そのあと、続ける。
「いいよ、アシャト。大丈夫、彼が君を害することはない。」
「そうか。なら、王命を解除する。わが軍とともに、活動してくれるとありがたい。」
「もちろんです、『王像の王』。選出される日を、今か今かと待っておりました。」
許してやるのはいいと思う。同時に、思った。……彼は、神に忠誠を誓う以上に、俺に忠誠を誓ってくれるのか。
俺に忠誠を誓わせることが出来るなら、俺はきっと、『神様頼り』の時代を、真に終わらせることが出来るだろう。いいや……そう、しなければ。
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